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スピノザが考える「国家」や「自由」とは? ~その2 人間の自由について~



『政治論』(邦題『国家論』)が書かれた背景

 前回、スピノザが考える国家の目的については、以下であることをお伝えした。

――国家において最善なるもの、かつ国家の目的とは、生活の「平和」と「安全」に他ならない


『政治論』を書くまで、スピノザは国家の目的を「自由」においていた。

国というものの究極の目的は、ひとを支配することでもなければ、ひとびとを恐れによって縛りつけ、他人の権利の下におくことでもない。むしろ反対に、国は彼らを恐れから解放すためにある・・・国というものは、実は自由のためにあるのである

スピノザ『神学・政治論(下)』吉田量彦訳(光文社)より

 自由が目的であるということ自体は、『政治論』においても変わってはいないと思われるが、それよりも「平和」「安全」が強調される。

 この背景には、じつはスピノザが生きていた時代に起きた、ある事件との関りが指摘されている。その事件とは、ヤン・デ・ベーンの絵画としても描かれ、アレクサンドル・デュマ・ペールの小説、『黒いチューリップ』でも題材になった、「デ・ウィット兄弟の惨殺事件」である。

 17世紀後半、当時のオランダ共和国の最高政治指導者であったヤン・デ・ウィットは、三次にわたる英蘭戦争で共和国を率い、オランダ黄金時代を牽引した人物である。

 このヤン・デ・ウィットの時代は、オランダにおける君主的な役割を担ってきた総督がいなかったため、無総督時代といわれ、自由主義的なオランダの黄金時代であった。その思想は、徹底して共和主義的であり、平和主義的なものであった(ヤン・デ・ウィットらの立場は「議会派」と呼ばれる)。

 彼らは念願の軍縮を断行し、軍隊はシビリアンコントロールのもとに置かれることになる。それにより、一時的な平和は訪れるものの、この時代の世界情勢において、軍縮はきわめて危険なものであった。

 1672年。ほとんど無防備のオランダに、ルイ十四世のフランス軍が侵入し、共和国は危機に陥った。この危機をもたらした原因こそが、ヤン・デ・ウィットである、と民衆を煽ったのが、「議会派」と対立していた「オラニエ派」であった。

 オラニエ派とは、オランダがスペインからの独立を果たしたころからの英雄である、オラニエ公ウィレムから続く総督の地位(ほとんど君主的な地位)を独占してきた、オラニエ家(のちのオランダ国王・王家)の派閥であり、その思想は中央集権的、軍国主義的であった。

 オラニエ派は、この危機に乗じて民衆をけしかけた。その結果、フランスや、フランスと同盟を組んだイギリスからの侵略によりパニックとなってしまった民衆が暴徒化し、ヤン・デ・ウィットおよび兄のコルネリス・デ・ウィットを集団で襲い、虐殺したのである。

ヤン・デ・ウィットは兄とともに路上で暴徒に囲まれ惨殺される。お前が寛容や自由ばかり言って祖国の守りをおろそかにしたから外国軍の侵入を招いたのだ、と文字通り吊るし上げられ、切り刻まれたのである。

『スピノザ「無神論者」は宗教を肯定できるか』上野修著(NHK出版)より


 そのおぞましさは、ヤン・デ・ベーンの絵画を見るだけでも、背筋が凍りつくようなものである。

 じつは、この自由主義思想の政治家、ヤン・デ・ウィットはスピノザと交流があったのである。スピノザ思想の理解者であり、庇護者でもあった。

 ヤン・デ・ウィットが殺されたという話を聞いたスピノザは、言い伝えではあるが、涙を流して激高し、「この上ない野蛮人ども!」と記した弾劾文を街頭に貼り出そうとしたのであった。

 怒り狂ったスピノザを思い留めたのは、下宿の主人だったという。もしスピノザが、主人の制止を振り切って行動に移していたと想像すると、スピノザ自身もどうなっていたかわからなかった――。 

『政治論』は、この事件ののちに書かれたのである。スピノザはこの事件により、民衆が感情に突き動かされてしまうものだという思いを、いっそうに強めたに違いない。

 だからこそ、これら民衆が自由なる存在であるためには、国家基盤の強化、オペレーションこそが重要なのだと考えたのだ。

 スピノザは、人間とは元来このようなものである、と『政治論』の序盤に記している。

人間は必然的に諸感情に従属する。また人間の性情は、 不幸な者を憐れみ、幸福な者をねたむようにできており、同情よりは復讐に傾くようになっている。さらに各人は、他の人々が彼の意向に従って生活し、彼の是認するものを是認し、彼の排斥するものを排斥することを欲求する。この結果、すべての人々はひとしく上に立とうと欲するがゆえに、みな争いにまきこまれ、できる限り仲間を圧倒しようとつとめ、こうして勝利者となる者は、自分を益したことよりは他人を害したことを誇るに至る。

スピノザ『国家論』畠中尚志訳(岩波書店より)

 それゆえ、前回の繰り返しになるが、その感情的に行動する人間を、いかに「理性的」に従わせるかは、そのように行動する他ない「オペレーション」こそが重要であり、国家の役割とは、そのオペレーションをいかに敷くかなのである、と考えたのである。

 このような事件を背景にしながらも、スピノザがいかに冷静に人間を観察していたかがうかがえる。

スピノザにおける「自由」とは

 それにしても、この愚かなるまでの人間の本性を目の当たりにしながら、スピノザ自身がそれでも護るべきものとして考えていた人間の「自由」とは一体なんであろうか。

 なぜ、それを護る必要があるのか。そこには、スピノザが考えていた、人間が生まれながらにして備えている権利、「自然権」の考え方がある。

 自然権の説明に行く前に、改めてスピノザが考えていた人間の「自由」について、デ・ウィット兄弟の事件が起きる前に書かれた『神学・政治論』や、スピノザの主著である『エチカ』にも立ち寄り、触れておこう。

 スピノザは『エチカ』において、「自由」を次のように定義する。

自由といわれるものは、みずからの本性の必然性のみによって存在し、それ自身の本性のみによってのみ活動するように決定されるものである。だが、これに反して、必然的あるいはむしろ強制されているといわれるものは、一定の仕方で存在し、作用するように他のものによって決定されているものである。(第一部・定義七)

スピノザ『エチカ』畠中尚志訳(岩波書店より)

 この定義からもわかるように、通常、われわれは「自由」に対立するものを「必然」とみなすものだが、スピノザの場合、「自由」に対立するのは「強制」であり、むしろ「自由」と「必然」は、同じものとして捉えられている。

 國分功一郎氏ほか、さまざまなスピノザ研究者が言及するように、この「必然性に従うことこそが自由である」というのが、スピノザが考える自由である。(※自由意志は、スピノザは否定する。自由意志と、ここでいう「自由」は異なるので留意)

 自然権に通じていく話だが、『神学・政治論』においては、次のようなくだりがある。

自然の権利や決まりとは、わたしの理解では、個物それぞれに備わった自然の諸規則に他ならない。あらゆる個物は、こうした規則にしたがって特定の仕方で存在し活動するよう、自然と決められているのである。たとえば魚たちは、その自然の性質上泳ぐよう決められているし、大きいものが小さいものを食べるよう決められている。魚たちが水中を存分に泳ぎ回るのも、大きい魚が小さい魚を食べるのも、この至高の自然な権利によるのである。

スピノザ『神学・政治論(下)』吉田量彦訳(光文社)より

 魚は水の中で泳ぐという条件下(必然性)にあってこそ、その力を発揮する。陸においては無力なのである。魚が自由に泳ぐ、自由に生きているとするのであれば、それは水の中で泳ぐという環境にあってこそである。 

 スピノザはこの自然の諸条件に従っていることこそが、自由であるとし、なおかつその自然とは神の力、神の権利に他ならず、同時にれわれ自然の権利である、と考えるのである。

 人間にとっての自由もまた、例外ではない。人間が人間として生きる諸条件において、その限りで人間は自由であったり、自由でなかったり、といわれるのだ。

 赤ちゃんは、まだその身体の法則を十分に認識していないであろう。大人になっていけばいくほど、人は自身の身体を認識していく。その条件下において、「より」身体を使いこなしていく。すなわち自由が増していく。

 スピノザが考えていた自由には、その条件下において、よりよく認識すること、よりよく動かせること、よりよく使いこなすこと、という成長によって獲得していくという視点がある。

 野球における身体の活用という条件において、大谷翔平が、私のような素人より、はるかに自由であるのは、その身体の法則、能力の発揮の仕方を大谷翔平の方が、よりよく認識し、実際に出力できるからである。

 この「条件下において」、というのがポイントだ。魚には魚の自由があり、蝉には蝉の自由がある。それらは、個々の条件下において、自由と呼ばれるのであり、このことから、それぞれの自由とは、比較するものではないということがわかるであろう。大谷翔平の自由が大谷翔平の自由であるように、私、グッチもまた、私という条件において生きうる限り、私の自由があるのである。

自然の権利について

 さて、スピノザがいう、自然の権利とは、自然の諸法則、力そのものであると説明した。では、この権利とは、誰においても何においても咎められないもの、抑制されないものなのであろうか。

 この自然の条件下において、およそ人間ができることのすべては、行ってよい、その権利がある、ということにならないだろうか。だとすれば、人が人を殺傷することや、暴力をふるうこと、欺くこともまた、権利ということになってしまうのだろうか。

 スピノザは、いったん、Yesと答える。

この自然の権利や決まりというのものは、誰もしたがらないことや誰にもできないことを除いて、何一つ禁じていない。争うことも、怒ることも、騙すことも、衝動によって促されることは何一つ否定されないのである・・・というのも、そもそも自然はそもそも人間理性の法則によって仕切られているわけではなく、したがって理性がそうであるように、本当の意味での人間の利益や人間の保持だけを目指しているわけではないからだ。自然を仕切っているのはむしろこれ以外の無数の法則であり、こちらは人間がそのごく一部にすぎない、自然全体の永遠の仕組みに関わっている。

理性が悪と断定することは、自然の総体的な仕組みや法則から見れば悪でもなんでもない。それはただ、私たち[人間]の自然の性質を決めている法則から見た限りで悪なのである。

スピノザ『神学・政治論(下)』吉田量彦訳(光文社)より


 自然の権利においては、できうる限りのことはできてしまうし、何においても否定されるものではない。

 そして、この自然の権利への行動とは、「まともな理性ではなく、欲望と力によってきめられている」(『神学・政治論』)。

 人間はまもとな精神の法則に基づいて生きるよう縛られていない。猫がライオンのもつ自然の法則に基づいて縛られていないのと同じように。

 したがって、自然の支配下においては、人はまともな理性で導かれるのであれ、感情のままにであれ、「自ら有益だと思うこと」を、至高の権利として求めて構わないし、理性ではなく、感情によって動かされるからこそ、求めてしまうものでもある。

 そう、この自らの自然の権利を、自らの欲望のままに行使していく、この状態を、ホッブズは「万人に対する万人の戦い」と名付けた。有名な「自然状態」という概念である。

 スピノザもまた、このような状態を仮定しているように見える。

 しかし、ここからの逆説がスピノザがスピノザたるゆえんである。

 上記のように、人間は、感情あるいは欲望こそが本性であり、それら自己をよりよく維持しようと努めていく力、「衝動」こそが人間を突き動かすものであるとスピノザは考えている。有名なコナトゥス論である。これらは、人間を突き動かす本性、必然の原理である。

 だが、自己の存在の維持・拡大のために、他者との対立状態に置かれていては、人間は、かえって自己の破滅に脅かされ、不安や恐怖、猜疑心こそが感情を支配するものとなってしまう。

 このような感情の状態は、自己の権利(sui juris esse)のもとにあるというより、他人の権利のもと(alterius juris esse)にあるといったほうがよい。

  すると、本来、生得の権利として持っているはずの自然権というものは、理論的には何でもできる力としての権利だったが、現実的には、ほとんど無力ではないか、とスピノザは考えるのである。

 したがって、自然権とは、孤立を想定した個人においては意味をなさない。
 
 他者と力をあわせることで、人間は人間にとっての有用なものとなり、自然権とはむしろ、他者との和合において、その意味と実行力を持つ。すなわち、より、自己を維持、拡大できるものになっていく。自己は、より自由な下に置かれるようになるのである。

 スピノザが言いたいのはこういうことではないか。

 個人としての欲望、権利とは、実は想像のものでしかない。人間は本性上、自己ではなく他者を欲望し、他者と生きることにおいて、そこではじめて自己の権利のもとにある力が発揮できるのである。それが、人間という存在の、自然的な本性であり、その条件下において生きることが、自由につながる。

 だから、他者を脅かすことを行うことは、自分自身の自由を脅かすことに他ならず、「よりよく生きる」という人間の本性、自己の権利に反することになるはずである。国家の必然性は、この自然における人間本性、和合の必然の認識において導きだされるのである。

 スコラ哲学者も、そのように考え、人間を「社会的動物」と名付けていたのだとすれば、反対する理由はない、とスピノザは言う。

いったんのまとめ

 ホッブズにおける「社会契約説」においては、この自然権は、主権者に譲渡する契約であることが想定されている。この相互の同意、契約によって、譲渡先である個人や合議体が統治者となり、自然法を遵守させるために絶対的な権力を持つ政府が形成されるという理論である。

 スピノザもホッブズ的な自然状態、自然権の考え方をベースにしつつも、ホッブズとは異なり、自然権の譲渡を必要としない。

 じつは『神学・政治論』においては、社会契約説をスピノザもとっていた。だが、『政治論(国家論)』において、それは明確になくなるのであった。

人間というものは相互の援助なしには生活を支え、精神を福養することがほとんど出来ない。以上から我々はこう結論する。人類に固有のものとしての自然権は、人間が共同の権利を持ち、住みかつ耕しうる土地を共々に確保し、自分を守り、あらゆる暴力を排除し、そしてすべての人々の共同の意志に従って生活しうる場合においてのみ考えられるのである、と。思うに、ますます多くの人々がこういう仕方で一体に結合するに従って、ますます多くの権利をすべての人々はともども持つようになるからである。

※強調引用者

スピノザ『国家論』畠中尚志訳(岩波書店より)


 そしてスピノザは、こうも言っている。

 ――国の支配というものはできることなら社会全体が一丸となって行うべきだということである。(『神学・政治論』)

 次回は、国家の持つ権利、国家の体制・形態などについてフォーカスしてみようと思う。


<前編はこちら>

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