京女式板書がうみだす弊害

 いつまでマニュアルをこすり続けるんだろう。   
 
 でも最近、自分も含めた「並」の教師を大量に育てるためにはマニュアルも必要悪なのかなと思い直した。

 しかしでここで、はたと最近ある思い当たることにぶつかった。日本型学校教育の優秀さは、上位のとても優秀な教師が支えているわけではない。逆に非常に少ない下位であるわけない。
 素晴らしく分厚い知見にあふれる中流、そしてかなり極端に振りきった学習環境経験を持つがゆえの多様性にあふれ、オリジナリティと自分勝手さを重んじる独特の文化圏に属する中流意識によって組織される多数派の小さな努力の結集で支えられていると考えるに至ったわけである。
 一時期一億総中流は単なる悪弊のように言われたが、こと教育に関わる人間として振り返ってみれば、中流の学力と中流の意識が広く染み渡っていることはさほど悪いことではない。
 日本の教職員たちは実はそのメリットをフルに活かして実に粘り強く、解決しようもない課題に取り組んでいるように見える。
 これは若手の教員にも言えることで、そもそも教職を志す時点で自分の経験を元にして、かなり尖った実践に挑もうとしている人間たちがけっこうたくさんいるわけです。少なくとも私が出会った若者たちはそうなんです。良いか悪いかは別にして。
 そういう意味ではやはり日本型学校教育というのは個別性と独自性の現場感覚によって支えられている実感がありありと感じられます。

 やはりそこで京女式のようなマニュアルを信奉する教員は決して自分で考えることはしません。
 考えたがらないから借り物で何とかしようとする。自分で考えないから他人のせいにする。
 そういう人間は他人に指導すること自体を忌避しようとすることで自分の身の安全をはかろうとする。突っ込まなければ突っ込まれない。
 そう考えるタイプが対話や了解を志向する教育において親和性に欠け、一番タチが悪い。

板書は何のため?

 板書は授業を前もってまとめた設計である。そして授業終わりにその授業の成果がわかりやすく後に残るものでもある。
 授業自体を見てくれに落とし込めるためにはこれに勝るものはない。もちろん後から板書を見れば、授業を見渡すことができることにも一理ある。しかし、板書だけで授業の濃さを判断することはやはり早計と(肌感覚70%程度の確度かな?)言わざるを得ない。
 それが一番教師教育の観点からも、教師に指導もしやすく、成果も見やすく、授業としての形を保つ上で資することができるとしても。
 また、子どもにとっても板書を移すという行為は頭の中をまとめることができると同時に活動量が保証されることになるとしても。そしてわかった気にさせられるという効能があるとしても。

 板書をマニュアル化することがこうしたこと全般に資することは理解できないでもない。
 しかもマニュアルには手軽にやってみて捨て去るという効能も込みでの教員の学習効果があることも認める。
 何もない上で議論や思考するには困難が伴うために叩き台としての効能もある。

これら多数のメリットを認めた上での、しかしである。

綺麗な板書の学習効果には胡散臭さが付きまとう

 これは偏見と言われれば、申し開きはできない。ただの時間の論理がある。ここに注力するということは、他をおざなりにした可能性がある。 
 授業中に板書を綺麗にするという自分のことに注力している教員は、目の前の子ども一人一人の動きを見逃している可能性が高いからである。
 どうあっても子どもを一人ひとり見ることができないからそこは捨てる、好みの問題でそれはイラナイというなら、それは仕方ないと私なら思う。授業者の能力と嗜好の問題だから。
 しかし学習効果上、板書にさほどの効果がないことは中高の汚い板書をみればわかりそうな話である。特に大学教員の板書は板書の体すら成していない。

板書はあくまで設計である

 そうした中高大学の論理で言えば、板書は添え物であって本筋とは関係ない。私はそこまで言わないが、少なくとも大事なことへ向かうための準備であって決定事項ではない とは言いたい。
 同時に板書への試行錯誤は、教師自身の試行錯誤そのものであると思う。授業は目の前の子どものための試行錯誤があるからダイナミズムが生まれるのであって、ダイナミズムを産むためのマニュアルというものがあるわけではない。
 つまり意図したモノと結果は違ってもいいだろうということ。なぜか研究授業は意図の範囲内で最良の結論に導くことを是とすることに凝り固まっている。

授業が形として成立すればいい

 この発想は非常に危険である。というか授業をとても貧しくする。
 思い描く形を、それも「カシコいと思われたい無能な人間」が理想とするカタチに無理矢理落とし込めても目の前の子どもたちにフィットする可能性は随分低い。私も経験豊富な自覚があるが、いまだに自分の子どものこともよくわからない。さほど子どもはよくわからない存在である。わかったつもりの人間が一番危険なのはソクラテス以来の決定事項である。
 授業がそうなら、板書もそうだろう。無理矢理意図の内に引っ張り込むことが板書の役割ではない。発問を思考する上での視覚的補助に過ぎないはずの板書が授業づくりの表舞台に登場することは害悪以外の何者でもない。まして板書が授業全体を誘導して良いはずがない。

学びが形として成立していればいい

 トライアンドエラーの発想は、学びの原点であると思う。これは子どもの学びだけではなく、教師の学びにおいても同様である。子どもの板書にも大人の板書にも常にトライアンドエラーの罠を仕掛けておくことは学びのマインドセットづくりにおいて重要だと思う。
 もちろん常にそうした形をやり続ける必要はなく、京女式の板書スタイルが時にはあっても良いとは思う。一番悪いには全く同じ方法しかやらないことを奨励するもしくは結果的にそうならざるを得ない状況を作ることである。〇〇式というのは定型を繰り返すことを強要するスタイルを指して言う。多少の味付けが変わっても基本的に同じ料理に落とし込むことである。
 公文式のように学習習慣を定式化することは個人にとって有益な部分も大きい個別があることは認めれられる。
 しかし授業や板書のようにダイナミズムの塊のような存在にとって定式化することは実は思いつきでテキトーに授業すること並みの学習効果しかないことをわかっておくべきである。思いつきの方が目の前の子どもにダイレクトに対応できる可能性が残る分マシかもしれない。ウデがあればのハナシですが・・・
 問題は子どもの中に学びが成立しているどうかという単純な話である。

子どもが書くことはオリジナリティを目指す

 教員の板書の先に子どものノートに何が残るのか?それを子どもが見直さなかったとしても子どもの知識や技能として残っていくのか?ということに集約されると思う。
 日本型学校教育においては学習に関して何度も同じようなことを繰り返していく。これ自体を否定したり批判したりする記述を見るがそれは無駄というものである。これは学ぶということについてのひとつの準備であるからである。読書を批判するときに本を触るや文字を関わることについて言及するようなもんである。
 義務教育学校という長い時間のうちには、きくこと、かくこと、話すことを人と触れ合うことを交えて学んでいく。
 そのときの板書やノートというのは、元来オリジナリティや個別性が求められていたはずである。それがなぜか良い板書というものが確定され、昔はHPなどで、今ではLINEなどで垂れ流す人間が出てしまった。
 逸れるが、本来人は見たいものしか見ないで必要なものから目を背ける生き物だからあまり見られない、見られたとしてもいいね!が少ないモノの方が実は有益であるということが確定してしまったのではないかと思っている。つまり今の広告AIは人間の本質的な価値の逆を行っていることになる。今でも教育現場は愚直にこの人間にとって耳のイタイ話を人間の本質的価値として獲得させようとしているのである。書きながら今これは意図せず中流教員が強い部分だと気づいた。
 上位の教員の良い板書がいかに中流にとって害悪かということである。下位はそもそもそんなもんに興味がない。良い板書の定式は愚直な人間の本質的価値へのコミットとは合わない、すでに能力を十全に発揮できるエリート専用か誰でも働けるマクドナルド方式のマニュアルかのどちらかである。
 いまさらながら、個別最適化や多様性を板書に重ねて語っている人間は今までの板書が元来子どもが「偽の発見」であったのしても、とにかく新しく知ったことへのワクワクを個別に発露する場であり、ノートはその成果を誇らしげに叩きつける道具であった歴史を忘れている。

 子どもにとっても教師にとっても、主体性の塊であるはずの板書が見せかけの、しかもお仕着せの設計図に成り下がることを指をくわえて見ているわけにはいかない。
 いまこそそうした板書例を徹底的に排除していく瞬間だと思う。


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