「令和の日本型学校教育」の発想と今の教育現場が混ざり合うとどうなるか?

 「令和の日本型学校教育」関連の通知を読んでいて思うこと。目指す方向がこれまでの公教育の解体であるということ。さりとてそれは公教育の解体ではないということ。なぜなら公教育を前提に話が進んでいるから。

 禅問答のようでありながら、そういう見方をすれば非常にしっくりくるわけです。そしてそのように「よめ」ばそのために必要な前提が見えてくるわけです。実はこの必要な前提というのははっきり論じられているわけではないということです。もっと言えばそれに対する合意がなされていないということです。その合意が誰に必要なのかといえば実は「教員」たちなのです。
 なぜなされていないかといえば、その合意がおそらく一番難しい。文科省や関連団体、教育委員会や大学の教員の共通認識の根底にあるのは教職員に合意を徹底させることは無理筋であると思っていることであり、同じ思いを私も抱いているのかもしれないなと書きながら思い直したんです。

 それは何を意味するかと言えば、いくら公立学校の教育スタイルの解体を通知したところでそれは解決しない実践課題の無限ループの議論であるので結果的に何が起こるかについてはよくわからない。ゆえに起こった事象に対して微調整を繰り返し行うことでその行方を見守るのが良いだろうと諦めにも似た感覚であるということ。それが「今の日本の教育政策の基本方針」なのではないか?

 ではなぜそう感じるのか?現場が合意できない以上効率的に作動しないシステムとしての「令和の日本型学校教育」は結局真面目に考える必要にないということになってしまう。そうした塊を指して「抵抗勢力」とか「既得権」とか名付けて攻撃する手法もあるだろうし、知に竿さして角がたつ手法、情に棹さして流される手法、なんとか共同・協働・恊働を模索していく手法といろいろある。それが正解探しではなく選択なのだとしても現場にいる以上、そして教育を一応真面目に考える以上、選択をしなければならない。そして選択するために友敵理論に基づき、友と敵を選別しなければならなくなってしまうのだと考える。それは好き嫌いではなく、人間性の問題ではなく、教育における能力と考え方の方向性によって決まるのではないだろうということ。その見極めが仕事上役立つかどうかはさておき忌憚なく言語化しておきたいと思う。
 学校現場の塊をどう見るかというハナシ。友敵理論そのものは枠組みとしては、そして子供を相手にする学校という場においてはどうなんだというハナシなんですが。伏魔殿として側面を持つ職員室を少し触れておく試みをしようということです。

教育現場にたまる澱(おり)

 これは私も含まれているのでしょう。定年制度が伸びたことは教育現場にとっては予期せぬ外圧です。その影響はこれから徐々に教育現場を蝕んでいきます。確実に。その害悪を表すに妙なのが沈殿物を表す「おり」なのかもしれません。それは邪魔な存在ではありますが、ワインのように渋みを出すためには必要なもの、しかし一旦巻き上げるとこれほどメンドーなものはないものということです。言い得て妙。
 職員室におけるこの層はこれまでも少数存在していました。定年後も職員室に隠然たる存在感を持っている人たちでした。今は4、50代もさほど多くなくなっているのでこれらの層も加えて良いのかもしれないと思います。
 職員室を世代でくくる時、私の中には明確に区分がありました。それは年齢ではなく過激派かどうかということなんですよね。そういう職場としての優しさがあったせいでそうした人間が職場内にいることがフツーだった。そのせいでその影響を受けた人間が細々と受け継がれていき、職員室内で過激に振る舞うことはこれまたフツーのことだった。ただの経験譚でありますが。気づかないだけで結構フツーの人を振る舞っています。フツーじゃない私みたいな人間の方がフツーだったりします。さてこの澱のような人材は60歳を越えた定年の後に学校現場にどういう影響を及ぼしてしまうのか?ということです。

 森永卓郎さんは公務員が60歳を越えて7割の給与が保障されること自体に批判的でしたが、正直言って同意できません。生活を保証する必要がないとか民間は3割のところもあるとか言っていましたが問題はそこではない。
 
 そうしたことはそれまでの経緯が考慮されるという日本社会型の雇用の流れの中で守られてきた約束を一気に反故のするという意味では究極の悪手です。民間には民間の約束事があった。約束とまでいかなくても会社が潰れれば終わりというのは確認事項です。
 公務員は潰れない代わりに・・・があった。その一つが給特法なんです。そもそも社会福祉法人とか補助金とかいう発想は憲法に定められた公金の私的流用を防止する約束を逃れるための方便です。こうした約束事の一種に日本の教育公務員が特例法で保全された身分があったはずです。
 これを反故にする代わりに・・・というのが今のこの流れです。

 私が危惧するのは今行われる働き方改革が職員室の各々の層にどういう影響を及ぼしてしまうのか?その行き先が令和の日本型学校教育とどうマッチングして何を形作っていくのかということなのです。

 この澱グループは私も含めて令和の日本型学校教育からは明確に外れていきます。というか交れずに常に不適切な状況を生み出すことになってしまう。なぜなら最も正しく昭和の日本型学校教育というものを理解しているからです。平成の30数年間というのは、日本の教育において「平和ボケ」した時期だった。なんの改革もなく、新しい成果もなかった。しかし非常に安定した時期だったといえる。そのある意味での困難な時代を徹底した自己研鑽だけで過ごした教職員にとってこれから来るただとっ散らかしただけの混沌は極めて退屈な形式に過ぎない可能性がある。もちろん個人的かつ人生経験上ただ「見過ごす」という技も身につけているこの層は意味不明なことには関わらず自分の領分を守っていくという技も身につけている。
 意味のわからない人間の尻拭いをさせられること確定のような管理職には見向きもしない。コスト的にも割に合わないことは真っ当な人生を歩んでいればわかることです。

 つまり課題と噛み合わないことこの上ない可能性が高いということになってしまいます。個人の事情に駆られて働くことはあまり望ましくないのではないかという意味を込めてこの層は一定数が退職金をもらった後に、つまり60を過ぎると、離脱することになりますという予言をしておきましょう。ちなみに潰れない代わりに教員は途中で昇給が停止することが決まっています。それは入職時伝達されていないので知らない人間の方が多い事実です。

抵抗勢力化するミドルリーダー

 この層が今の教育現場を支えているのですが、実はこれが困った学校管理職の予備軍になっているのではないかという仮説があります。とにかく忖度にまみれた事勿れ人間です。モノの行方をよくわかっているが故の行動です。
 一番ややこしいところは理想のためならなんでも犠牲にしかねない危うさです。これはミドルリーダーというなんの保証もないまま管理職が仕事や責任を押し付けることを正当化してしまっていることによるものです。
 やる気があるんだかないんだかよくわかりません。それに伴って言っていることもよくわからないんですよね。仕方がない。実はこの層は机上の空論はよく知っているくせに経験の伴ったきちんとしたロジックを知らないことが多いです。いわゆる授業を「引き出し」の多さと勘違いしている輩です。授業の引き出しはいくらたくさんあっても役には立ちません。なぜならオールマイティーな技というのが授業ではないからなんです。そうしたことにも理解ないまま自説にこだわり抜くことから言ってることとやっていることがズレてくるんです。わかっていないことを認めることができない小賢しいことになっていることが多いですね。

 実はこのことにもロールモデルがあって小学校では昭和時代、数少なかった男性教員の行末というのは、管理職か労働組合に幹部か、ずっと担任業務を押し付けられるかという三択しかなかったそうです。その前述2つは明確に今のミドルリーダーの位置付けに近い感覚があります。
 残念ながらこれらの人間の先行きはあまり明るくありません。単純にこの先に令和の日本型学校教育に向き合うには知識と能力が足りないんですね。そして管理職という失敗できないポジションにつくことで神経をすり減らしていくことになってしまいます。

教育をわかった気になっている若手教員

 これはいつの時代にもいましたね。私もそうだったので今思えば恥ずかしい。もちろん訂正を続けながら教員も続けていくのでしょうけれど。今の教育現場は失敗が許されにくくなっています。ゆえにその乏しい知識だけでは令和の日本型学校教育にはなかなかコミットできない。でも教育はわかっているつもりだからどんどん自分のやりたいようにやっていく。それこそ後述するようにうまくいっているうちは良いのだが、一度失敗すると助け合いは機能しない。自分勝手に物事を進めてきた人間の末路なんてそんなもんです。
 これからの初任者は担任を持たせないとか補助をつけるとかいうワケのわからない対策がとられるようですが、そんなことをすればダメな若手はよりダメに、尖った若手はより孤立していくという未熟な部分をより熟成させていくことになることは必定です。
 言いたいことを自由に言えない状態の監視下におかれることがどれだけ次の世代の教員を育てることに不向きであったかに気づくのはもう少し後のことになるようです。

働くけれど教育のことは考えない層

 この層が今学校の中で一番多いですね。とにかく労働として毎日が完結していけばそれで良い。メンドー事がなく1学期が終われば良い。教育の充実よりもプライベートがうまくいくことの方がよほど重要である。自分の事情が完結するためには同僚がどうなろうと知ったことではない。
 この人たちにとって新しい学習指導要領も令和の日本型学校教育もどうでも良い。それを頑張ってやって肩代わりしてくれる人は自分の近くにいればそれで良い。
 格好だけ形だけが整っていればそれでいいという考えの人たちです。どうすればこの人たちと協働できるのかが今の一番の悩みです。

公教育に幻滅して離脱する人

 本来この人たちにもっと令和の日本型学校教育と向き合って欲しかったです。しかしその困難さを肌感覚でわかってしまった。そして学校教職員集団にも絶望してしまったということです。
 この両者はその人をNPOや企業、留学や海外青年協力隊などに転身させるのに十分なプレッシャーを与えてしまったのでしょう。
 私が関わる間もなく消えていってしまわれます。
 ただおそらくその困難さがわかっている人間こそが教育の仕事に最も向いているという事ができるんだろうと思いますがね。

結果的に成長「してしまう」子ども

 そしてこうした問題の中で最後に主役級の役割を果たすのが、クラス内で授業さえやられていればあとは勝手に成長してしまう「ように見える」子どもたちなんです。そんなに難しいことを考えたり、実践したりしなくてもそこそこの子どもというのは育っていってしまいます。
 もちろん注意深く見れば、子どもの仕上がり具合は全く違うのですが、普通の人にはその学習集団の一員としての子どもという評価はできません。それどころかめちゃくちゃな担任の元にいる子どもの方を指して自由にのびのび育っているとか言われる始末です。
 また子どもの感覚も当てにはなりません。自分の感情が評価のモノサシになっているからです。それでも「満足」を持って育った結果に関しては尊重されるべきなのかもしれませんが、そこに学習指導要領や令和の日本型学校教育の狙いというのは一切活かされてはいないし、なんなら勘定に外側に捨て置かれてしまいます。勝手に育っちゃう子どもがそこに関わる大人の見極めを難しくしてしまうということです。

これらとうまくやっていくための「ぼっち」戦略

 これが友敵理論にならずに敵だらけになってしまったという結論。
 正直私はこれらの教育を取り巻く大人と何を合意形成していけば良いのか?どのように合意形成していけば良いのか?よくわかりません。
 今のところは徒党を組まずに自分で考え、自分で結論を出していくようにしています。変に仲間を作ると間違った方向に引っ張られたり、無理やり考えを合わせていかなければならなくなったりするからです。
 とにかく今「令和の日本型学校教育」に関わる多くの法令や通達や解説は現場では全く機能していません。機能しそうな先行きもありません。それでも適当な大学教員がこれから大変なことになりますよ。と脅すことに関しては少し真面目に受け答えしていけるだけの実践をしていこうと「ぼっち」は考えています。残念ながら今の忙しい教育現場はそんな喪黒福造のような戯言にきちんと受け答えはしません。散々馬鹿にして罵り倒して終わりです。私は過激ですが、教育がわかったふうな若者は過激を通り越して無知の暴論です。日本語にすらなっていません。そんな人が大学教授の戯言に出会った日には「お前の母ちゃん〇〇」並みのアホなことを口に出してしまうんですよ。諌める気もなくなります。これとは組んだらアカンよな。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?