教育における主体性の正体 #6 権力と規律

 だいぶこの話が長くなりそうなので、前段に結論への意図を書いておきます。自分が行き先を見失いそうですから。 
 現時点の学校教育で明確に評価の対象となっている主体性は現状の「やる気」という見方でよいのか?
 そして主体性を高めることが学習効果と成員平等に連動するためにはどうなる必要があるのか?という2つの視点から突き詰めてみようということです。というわけで、

権力と規律の関係

 続けて一つ決定的に言えることは、教師の権力性の弱まりが学級崩壊を引き起こすわけはないということです。これは経験則上かなりはっきりと言い切ることができます。
 学級崩壊を見た場合、権力性が弱まっている教室での作動を予期すると結果を見誤ります。というか権力的に振る舞ったり、宮台の言う汎人称権力みたいなものを振りかざしたりする方が学級崩壊へとより近づいていきます。
 こうした人間がよく権力性を隠蔽しようと努力したり、自分は権力的ではないことを宣伝したりしようとします。
 バレると「つもり」という言葉で自分は悪くないことを他者に理解させようとするんですね。用法としては「そんなつもりはなかった」とか「放置するつもりはない」とかです。自分の意図を(自分で)否定することによって結果的にそうなってしまった、つまり権力の責任によってこうした結果をもたらされたことを決定づけようとするわけです。おそらくこの種の人間は権力がどの範囲でどのように生成され作用するかを考えたこともないハズです。問題は作動様式ではなく、「考えたこともない」ことなんです。
 規範を打ち壊してしまう集団づくりに必要なのは権力に無理解で無関心な権力に取り込まれやすい人間が権力を行使できる立場から自身の道徳観を撒き散らかす無自覚さなんです。そもそもクラスルームで発動できる権力など多寡が知れています。武力行使できるわけでもなければ罰することができるわけでもありません。いまだに中高ではその権力発動をしてるようですが。基本的に小学校と中学校と高校では学校文化に決定的な違いがあります。それは実は権力性への向き合い方にも大きく違いがあります。
 これは不登校に対する考え方にも影響してきます。そもそも高等学校が入学の段階で選抜されています。それなら私立の小中学校も・・・と思うでしょうが選別のされ具合と規律の対する考え方が高等学校の場合は決定的に違います。高等学校には基本的な教育義務がありません。大学のように単位不足の場合は退学にしてしまえばよいだけです。慶應の学長ではないですが教育を集金システムかなんかと勘違いしています。教育にお金がかかることと集金相手を誰にするかは基本的に別の話です。受益者負担にしたければ慶應も一銭も補助金や助成金をもらわなければ良いだけで、慶應ブランドだけ喰っていく自信があるなら自分たちだけで沈没すれば良いだけです。この学長は今年のダボス会議でも相当ズレたことを言っていたので、まあ教育を知らない人なんでしょう。
 それたけど、中学校は高校や大学のような自己責任と違って可視化された権力性を抱き合わせた教育を非常に重視します。物心両面というと言葉は悪いですが、言い得て妙です。丸刈りにしたり、言葉責めにしたり、いじめや非行に対して見て見ぬフリをしたりします。もちろんプラスに働く面があることもありますがそれは権力の有り様について理解した上での使用である場合に限られます。使用者とても意識せず権力の流れの中に巻き込まれてしまうことがあるので注意が必要です。「知らない、言ってない」とか「そんなつもりはない」とかいう人間には向いていません。
 その点、小学校は基本的に権力関係について割と敏感ですし、(割とです。もちろんそうでない人間もいます。)そもそも社会的な規範について非常にルーズな存在である小学生には相当上手く使わないとあまり効き目がありません。そもそも理由なく他人を殴ったり、公共物を捨てたり、他人に物を隠したり、授業中遊んでいることを堂々と親に言ったりする人たちなのです。全てに悪気はありません。自分の都合でしか主張しません。教師の権力的な枠組みから離脱することなど訳もないことです。これを教育的な枠組みに取り込んでいくためにさまざまな工夫やルールづくりが必要になってきます。この小さなリベラルな単位を持ってコモンとするのがクラスルームの役割です。ここに権力の操作、強化や除去や強弱といったもの、があるわけです。
 こうした要因に対して訳知り顔で謎ルールとか、隠れたカリキュラムとか、ズレとか異議申し立てとかいう人間はクラスルームの構造と大人の側の働きかけの仕組みがぼんやりとしかわかってない証拠です。
 しかし前にも述べたようにその中で権力の行使具合について深く考えていくことは可能です。

 ここまで明らかにしたことを使って、規律を守りながら、正しい方向の活動量を保ちながら、如何に効果的に教師の働きかけの権力性を弱めることができるか?=主体的な取り組みの深まりなのではないか?を考えていきます。続きます。


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