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『インストール』綿矢りさ/押し入れとコンピューターから、いつかは「オトナ」へ



最近の個人的な趣味:『現代小説クロニクル』

私事だが、先日、金原ひとみ『蛇にピアス』の感想をこのブログに挙げた。その流れで今回は、綿矢りさの『インストール』について書きたい。同じ著者の『蹴りたい背中』はどうしたのか、という方もいるかもしれない。金原、綿矢の二人が芥川賞をダブル受賞したときの作品がそれぞれ、『蛇にピアス』『蹴りたい背中』だった。残念ながら今手元には『インストール』しか用意できなかったのだ。だが、読んでみれば、著者が高校生の時の文藝賞受賞作だそうで、まあ、面白い!。

はしがきの最後に、私が以上の二作品を手元で読んでいる資料『現代小説クロニクル』をおすすめして本編に移りたい。1975~2014までの各時代を代表する小説が、短篇、中編と様々に収録された文庫シリーズ。講談社文芸文庫から出ている。是非手に取っていただきたい。

”無駄”な青春に説明は不要。”しゃらくせぇ”

今作を読んだ感想、それは第一に面白い、第二に瑞々しい!であった。いつものようにゼロ年代批評などを持ち出して語るのは、作品の持つ魅力を捉えていないどころか無粋ですらある。でもやっぱり感想を書きたいので、筆と気分のまま自由に羅列していく。

キラリ光る感性

「女子高生、十七歳、肉体みずみずしく、良くも悪くもマスコミにもてはやされている旬の時季である。(…)私、女子高生として、旬は旬なりの決断を下さねばならない。」
「明日に備えるために今日の夜を少し削るみたいな生活と、明日と今日に区別をつけない今みたいな生活と、どちらを選んだ方が人生をより濃く、より能率的に生きられるのだろうか?(…)どちらを選んだ方が、幸せ?」

『インストール』綿矢りさ

主人公「私」のこの若さ故ともいえる悩みや自意識がなんと魅力的だろうか。読者も、彼女のつぶやきが「ありがち」なものだからこそ共感できること請け合いである。学校に馴染めない、母親が怖い、無個性な自分を取り繕いたい、etc…主人公の一つ一つの言葉が、ああ、分かる、そうかもしれない、と思わせてくれるのがこの作品のポイントだと感じる。それにしても瑞々しいこと!。変な混ざり気のない、純粋な自意識というものを感じる。これに比べると、作品の大人たちは「若さ」を失ったように描かれているが、その影を照らしうるほど眩しい感性がここにはある。

苦い顔の子供

「私」に比べて「かずよし」は小学生とは思えない、大人びた様子である。「私」に対しても敬語を崩さず、何度「穏やかに」笑ったか分からない。こいつ、ほんとに小学生か。何より、「チャット嬢」のバイトを引っ提げてくるのが彼である。とんでもない小学生がいたものだが、彼が気難しくなるのにも理由があった。「かずよしくんは弟か妹か、どっちが欲しい?」。そんなことを新しい継母に聞かれるのでは無邪気でいるわけにもいかない。「若さ」を持て余した「私」と、「大人」びた言動の「かずよし」。この二人の凸凹コンビにはずっと仲良くして欲しいとしみじみ感じてしまう。

「押し入れ」を開けず、娘の部屋で寝る母親/「幸福??」の「場」

少しだけ真面目な読解を試みる。物がなくなった「私の部屋」と、コンピューターが隠された「他人の家の押し入れ」。この対比が作品の本筋となる。やさぐれた「私」にとって後者が小さな「居場所」となっていくわけだが、ここで一見邪魔者扱いされていた「母親たち」に注目したい。

「私の部屋」には鍵をかけ、「押し入れ」にはコンピューターを隠している。どちらも親の目を盗むという意図があったわけだが、物語終盤、実は双方の親がそれぞれ、ちゃんと異常を察知していたことが判明する。「私」の母親は娘のいじめを心配して「泣いて」しまい、青木ママは、楽しいならそれで良いんですと「蒼白」の顔で立ち去る。親たちは不安の中で子供たちを見守っていたことが明かされるのだ(「私の母親」は事態を理解できてはいないが)。

ここでもう少しだけ話を広げたい。「押し入れ」でのひそかなアルバイトを支えていたものは、実は親たちの気遣いであった。これは子供の生活を守っていると言っていいだろう。考えてみるに、不登校の女子高生とコンピューターをいじる小学生の、ひそかな楽しみというのは、「家庭」という「日常」に支えられているからこそできるものだった。そのような「支える」構造、「支えられる」空間というものは、親に限ったことではないだろう。「押し入れ」、「私の部屋」、「自宅」、さらに「教室」、「マンション」。自分が今どこを居場所としているか、その外枠のようなもの、境界面を意識してみると、案外自分を見守ってくれる存在が見つかってくる。

そしてそれは、外殻という「形」がはっきりしていなくても、たしかに存在するものなのだ。「私」にいつも忠告を与える謎の友人光一や、「かずよし」のメル友(風俗嬢)の「みやび」など、緩やかなつながりの中で「場」として機能する居場所。「私」と「かずよし」の関係性もまた、奇妙な二人の娯楽の「場」と一体のものであり、「押し入れ」ひいては「コンピューター」という実体すら、その本質ではない。

「無駄」で「何も変われない」、実益的とは言えないかもしれない、だけど疲れたら立ち寄りたい、そんな、現代人が忘れがちな「場」がここにはある。

コンピューターを覗き込む=世界が交差する地点

「エロの世界は、大人にぶっつけられる前に自分から飛び込んでいったら、怖くないものなんだ。」

同上

ここで注意しておきたいのは、「押し入れ」はその言葉が一般的にイメージするような「引きこもり逃避」的なものではない、ということだ。「私」と「かずよし」は、サラリーマンや浪人生、ひいてはストーカー気質の男など、匿名でこそあるものの、お互い見知らぬ「人間」を相手にチャットをして、たびたび「戸惑ってしまう」のだ。匿名性ゆえの罪悪感も抱けば(身元を彼女らは偽っている)、罵詈雑言を浴びせられへこたれもする。その経験を通すことで、「昔からの私を知っている、生身の人間達」を大切にしたいと思い直すのだ。

ただ、繰り返すようだが、「意味のあること」「成長すること」を目的にして取り組むのではない。「そこから広がる私の知らない世界」が「おもしろそうだった」ので始めてしまっただけなのだ。だからいつか現実に戻らなければいけない。「僕男の子の赤ちゃん欲しいな」って言えるようになって、「学校に行く」ようにならなければいけない。初めから決まっていたところに落ち着くしかない。

学校を休んで「ネット」で見知らぬ人とチャットをする、未成年二人で「オトナ」の風俗を代行する。そんなことをしていた「私」と「かずよし」は、実は一瞬だけ、今自分たちがいるべき世界を飛び越えていたのだ。「現実」と「ネット」、「大人」と「子供」を敢えて交差させること。「現実」と「大人」にいつか歩いていくにしても、その過渡期の一瞬が束の間の宿り木となること。そんなささやかな物語が示されていたのではないだろうか。

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