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「慣れ」が脳死人間を作る


最近発見したことがあります。
それは「慣れ」は危険だということ。

「慣れ」は私たちを生きやすくするのだと思う。
先の複雑なステップへの移行を潤滑にして、
物事をスムーズに進めてくれるケースも多くあるはず。

私たち人間は、移りゆく時代や波乱万丈な日々に
「慣れ」を取り入れることでうまく適応しようとしているとも言えるかもしれない。

でも「慣れ」が進行しすぎると、
慣れる対象の何かそれ自体を俯瞰的に見つめられなくなってしまう。
ある意味、盲目にしてしまうところがある。
それが現代のつまらない大人を増やしている気がするの。(個人的な見解)

私、本っ当につまらない大人にはなりたくないんです。
でも今確実になりかけてるんです。
頭の固い、どこか諦めたような思考停止人間に。
やばいので考えてたら、とある二冊の本に出逢いまして。
それに刺激を受けてこの結論にいきつきました。

聞いてもらえたら嬉しいです、私の持論。
皆さんはどう感じるでしょうか。


一冊目:命あることに対する慣れの発見



一冊目は「世界一過酷な場所で見つけた命の次に大事なこと」という本。


国境なき医師団で働いた経験のある村田慎ニ郎さんが書かれた本で、
その体験から見つけ出した生きる上で大切な命の使い方六つを、それを見つけるに至った具体的なエピソードと共に解説してくれています。

まずね、限りある命の "使い方" っていう表現が出てきた時点で、私にとっては刺激的なところがありました。

命を "使う" という発想が。
おお〜。ってなった。笑

"どう生きるか" みたいな表現より
"どう命を使うか" って言った方がこう、
言葉のイメージがあやふやでなくハッキリとしているから、より具体的な行動が詰まってるように聞こえるというかねえ。
素敵な表現だなぁと思いました。
とまあこんなのは余談で。

すごく興味深い考え方や学ぶことはいーっぱいあってとっても面白かったのだけれど、
今日はその中でも印象に残ったほんの一部だけ持ってこようと思います。

村田さんが所属する「国境なき医師団」という団体は、
紛争に巻き込まれてしまった方や
自然災害だとか貧困で十分な医療を受けられない環境にいる方に医療を届ける団体です。


よくニュースになるような中東の紛争地だとか、政府が分裂してしまっているアフリカの地域とかで活動しているそう。甚大な被害をもたらす自然災害が起きた時はそこにも派遣されたりね。


本の中でも、実際に紛争地で村田さんが目にしたリアルな体験、出会った難民の方々のお話などが沢山出てきます。結構厳しい絶望的な状況や、残酷な話も出て来ます。


その中でね、何回か繰り返し出てくる表現がありました。それが、

「家はない、学校もない。
でも、命はある。」

です。

なんかさ、私は
特別大変な事件が起こらなければ、
明日も当たり前に私の命はあるだろうと思って生きてんだなと思ったんだよね。

※※これはね、命ある状態が当たり前ではないもいうことをポジティブ変換して
「生きているだけで明日に希望を持つには十分だ」的な綺麗事にしたいわけじゃないの!※※

(それには抵抗ある笑)


なんというか私、
人間がこの世界に存在する意味って別にないよなという持論を膨らましてたんです。
(一応それ自体は全然ネガティブではない)


例えば、落ち葉がそこに落ちてることに意味を感じるかって言われたら、あまり感じられないじゃない。
もっと言えば、この世に空気が存在して、それを構成するのが酸素と二酸化炭素と窒素だってことに訳なんてないじゃない。意味なんてないじゃない。


私たち人間の存在価値ってそれくらいのもので、
たとえこの地球において、人間の思考能力や知性に特別な価値を見出せる考え方があったとしても、
それは我ら人間が勝手に決めた人間にとっての価値。つまり自分らにとっての勝手な付加価値だし、相対的価値にすぎない。みたいな。

今も変わらずこの持論は持ってるけど、
この考え方が果たしてどうかは別として
こんなことを考えられるのってきっと、明日の命がかなりの確率で保証されてるからだよなと思ったんです。この本読んで。

なぜなら
「家はない、学校もない。でも、命はある。」
っていう状況下にいる人達は、

おそらくだけど、今日を生きるのに必死で、人間の存在価値について考えてる暇ないと思うんだよ。多分。直接喋ったことないから分かんないけどさ。だし、その思考にも至らないんじゃないだろか。

生きている時間が有限である意識や、
命がいつ危ぶまれるか分からない状況下だと、
それだけで "生" にある程度の価値を感じるんじゃないか。自然と。

私が人間の存在価値について考え始めたのは
一体いつからだろう。
何がきっかけだったんだろう。
(これ何ヶ月も考えてるけどむずい、いつか言葉にしたい)


でも、本気で心の底から
「生きたい」と思った経験って多分ない。
だからだと思う。こんなことを考えるのは。

(逆に消えたいと思ったことはあるけど笑笑)

それはなぜかというと、
明日も生きているであろうことが大前提だからなんだよね。良かれ悪かれ。


ここ私にとって大発見なの。
頭では分かってたかもしれないけど、
初めて実感を伴って気づけた気がします。
嬉しいです。


私は「生きている」こと、
息をしている自分、命ある自分に慣れすぎていたと思うんだ。

事実としてそういう流れというか
からくりがあるのは確かだよなって。

二冊目:世界のカラクリに対する慣れの発見


二冊目は寓話です。
「アルケミスト」という本。


ものすごく簡潔に言うと、
羊飼いの少年が旅をして宝物を見つける物語です。

旅をする中で
超人みたいな感じで出てくる老人に出会ったり、
詐欺に遭ったり、恋をしたり…。
色んな経験をする中でふと老人の言葉を思い出して何かに気付いたり、
それと共に彼の感情も変化しつつ、
少年が何か教訓を見つけていくような冒険物語。

最終的に宝物見つけるのかな、分かんないけど。
まだ読み終わってないから爆笑
いや、もうあと少しです!4/5くらい!

でももう、ここまで読んだだけで十分なくらい、
色々刺激になることや、面白い発見になった瞬間が多かった。

色々と思ったことや吸収したことは沢山あるんですけど、その中の一つがここで使えるので言葉にしてみます。

あのね、物語の序盤でその超人的な位置の老人が言うんです。(魔法使いみたいな感じのイメージで良いかと)

————————————————————

「誰でも若い時は、自分の運命を知っているものなのだ。まだ若い頃は全てがはっきりしていて、全てが可能だ。夢をみることも、自分の人生に起こってほしい全てのことに憧れることも恐れない。

ところが、時が経つうちに、不思議な力が自分の運命を実現することは不可能だと、彼らに思い込ませ始めるのだ。
その不思議な力は否定的なもののように見えるが、実際は運命をどのように実現すべきかお前に示してくれる。そしてお前の魂と意思を準備させる。」

————————————————————


えーーーー🥹
やばくなああああい?🥹
何これうわああああああああっ(一瞬息止まる)

って感じでした、ここを読んだ直後の私は笑。

この "不思議な力" が
「慣れ」だと思うんだ!

中学高校(前半)の時の私ってね、
まだ見ぬ未知の未来に対してちゃんとワクワクしていたんです。

でも、ここ数年で社会の仕組みや人間について考えまくった結果、もうこの世界について大体わかって来たような感覚がしてきたの。(≒「慣れ」)

きっと知らないことなんて沢山あるのにね。
どうしてこうなっちゃうんだろう。
抽象化して構図を当てはめたら、全部今知っている何かのパターンに当てはまる気がしてさあ。

結局、
「人間ってこういう生き物か」
「この世界はこういう仕組みなのか」
みたいに落ち着いてしまう。

もしかしたらそれは間違いではないのかもしれないけれど、
それがこの世界を良く知ったということにはならないのかな。ならないんだろうな。

きっとこの感覚を元にして
何か新しい価値観を生み出すなり新たな視点を見つける発見をするなり、
具体的にはまだ分からないけど、何か次の段階に進まなきゃ行けない気がする。
そうじゃなきゃつまらない感じがする。(まだ不確かです)

ちょっと余談でした。戻ります。
そう、最近の私は本当につまらなくて。
自分が大人になっていくのをひしひしと感じて。

成長するにつれて思考が発達して、
日々を生きる中で周りの人や世の中の正しさに疑問を抱き、モヤモヤしたり憤りを感じたり失望したりする機会が増えて

そんな世界に私が存在し続けるために、
心が激しく動かされる弊害を避けるために、

希望を求めてそのカラクリや本質的な原因、具体的な解決の道を分析して模索して、
自分が思う正しさと照らし合わせて真理を見つけようとひたすら客観的に分析していたら、

その構造的な理解が、
意識的に守りすぎた自分の理性が、
そうやって世界を消化することに対する慣れが、
心の躍動によって得られる美しい刺激さえ受け取れなくしてしまった

のではないかと。

足りねえ。何かが足りねぇ!
と思っていたところ、この本に出会いました。

これは余談ですが、この本を読んでるとね、
大人になることは必ずしも悪いことじゃないんだなと思わせてくれるのよ。

この世界を知って理解することの弊害(脳死になること)だけに目を向けるんじゃなくて、それを上手く利用することも出来るという選択肢があることを教えてくれたというか。


この冒頭の部分だけじゃなくて、
冒険の最中に出てくる少年の様子だとか一つ一つの表現にそう思わせてくれるものが隠れている。


色んな人に読んでホスィ。
どんな人がこの物語をどんな風に受け取るのか、
興味あるなあ。

「慣れ」が脳死人間を作る


経験を積み、色んな世界を見て、
幾千ものパターンを経験・認識した結果、
それに慣れて、全体像が分かった気分になる

そしてその気分が、
頭をクリエイティブモードにしなくなると思う。
つまり、人を脳死(思考停止)にすると思う。

例えば、歳を重ね生きていく中で
税の仕組みを知り
保険の仕組みを知り、
文化の対立を知り、
会社の構造を知る。

この社会のカラクリやシステムを知って、
情勢やら政治やら社会福祉やらの具体的な社会問題がどうやって起きているのかを理解すると、

その全体像を把握した気分で満足してしまって
ある種それを受け入れたモードに入り、
それ以上先の思考が進まずに脳死で日々を送る大人が多いように感じている(個人的な見解)

この構図による脳死は、もっと小さな規模で
身近に沢山起こり得ると思う。
今からその体験談を挙げてみる。

もっと具体的な例を挙げてみます


スポーツなんかではこれがプラスに働くと思う。
慣れて感覚を掴んで、脳死でボールを蹴ったり理想的なフォームでバットを振れるようになれば、
もっと他のことに意識を向けられるからプレイヤーとしてのスキルが高くなるはず。


だけどその「慣れ」が
クリエイティブであり続けなければならない対象のものに対しては働きすぎないように、
気をつけなきゃいけない。

例えば音楽。
私音楽が大好きで、
聞くのも演奏するのも好きで、良くピアノで弾いたり弾き語りして楽しんでるんだけど、

一時期、自分が聞き慣れないレアなコード進行を見つけてワクワクするのが好きで。
何か魔法にかかった様な気分みたいになれるの。
その音楽を聞いてるだけで別世界に飛んでいける様に感じて。
ほら、例えば映画の中で、空から壮大な自然を映してる時に流れる映像のバックミュージックみたいな。その映像に連れてってくれるような感動があるの。伝わるかな

そんな音楽を聴きながら、
私もこんなマジック生み出してみたいと思って
曲を作ってみようと思った時期があったの。
そう思い始めてから、世の中の音楽を分析しながら聴くようになった。


そしたらね、
今までは聴く度に感動があった大好きな曲も、
音楽理論や知識としてストックされたパターンに当てはめて消化する作業になってしまって、
全然ワクワクしなくなった時期があったの。
もう超つまらなかった。

人間に対しても、全体把握から来る慣れが脳死に繋がってしまうことは起こり得るように思う。


私には好きな人間が一定数いる。
新しい世界を見せてくれるインフルエンサーだったり、
私にとって刺激的な思考を持っていたり尊敬する友達だったり。

でもさ、その人達の思考とか行動には
いつも想像できない、未知な部分がある。
それが彼らを面白くさせている。私にとって。

あり得ないけれど、
もし彼らのことを10割理解できたなら
私は「好き」という感情を失うかもしれない。
つまり、未知な部分があるから面白いと思える。

誰かと自分の違うところじゃなくて、
同じところや理解できるところだけに注目して、それに慣れてしまったら、
私は今感じてるような魅力を彼らには見出せなくなるのではないかと思ったの。
んまあ、恋人関係とかだったら違う種類の魅力がまだあるかもしれないけど。

そして、これはまた違う切り口だけど
もし好きな人達だけに囲まれて生きていたら、
きっと私はその刺激に「慣れ」てしまう。

好きじゃない人間がいるからこそ、好きな人間の価値が見出せる。
分からない世界があるからこそ、分かる世界の居心地が良い。
という考えになってきました。

好きな人間に慣れてはいけないんだと思う。
私の中で何かが終わってしまう気がする。


(※ちなみにここで言う好きじゃない人間=嫌いな人間ではありません。

数いる沢山の人間の中でも、一緒にいるだけでただただ会話がクソおもろいだの、興味深い思考回路や価値観を持っているだの、この人ほんと人間できてんなぁとついつい尊敬するだの、趣味が共通だの、人生のゴールが似てるだの、どんな形であれ私がこの人間好みだっ!って言いたくなる人間=好きな人間です。

その他大勢に関しては基本的にプラマイゼロの感情かもしれないっす。そんな気がします。※)

もうこれ以上例要らない気はするけど、思いついたので書いちゃいます。一人暮らしもこの構図に当てはめられる気がします。


私、一人暮らしする前は
一人暮らしがしたくてしたくてたまらなくて
最初に引っ越した頃はもう
一人!自由!!!って感じで最高すぎた。

でも最近、毎日うちでゴロゴロしてたら
飽きてきた自分がいる。
慣れてしまった。
慣れた結果その価値を実感しづらくなった。
一人で暮らしていることに脳死になっている。

一人じゃない沢山の人間に囲まれた環境を体験するからこそ、
一人でいる環境の価値が高まる。
慣れちゃいかん。


結論

——今から先十年間の私へ——

「慣れ」には注意して。

私が本当の意味で存在し続ける為に、
脳死なつまらない大人にならないよう
常に柔軟な思考をアクティブに働かせられるよう

つまらなさや思考の停滞を感じた時には、
今あなたを取り囲む「当たり前」や「日常」から一度離れることで、
その価値や本質に気づけるようにしてください。

よろしくおなしゃっす。

2024年初頭の私より

ひとりごと

最近は刺激を求めてインプットに走ってます。
色々考えて色々学んでます。
でも何か自分を揺るがすような、思考に革命が起きるような新しい価値感、世界になかなか出会えません。

くそう。つまんないぜ!

議論してえ。
もっっっと思考動かしてえ。
刺激が足りねえ。足りねえ!!!

誰か日常のモヤモヤ聞かせてや。
人間同士の交流の末起こった、
理解不能な消化できない現象について語ろうや。
あんたの持論聞かせてや。
(関西イントネーション)

私は思考することよって、私が存在することに意味を感じているのかもしれないな。
(まだこれを裏付ける根拠が足りないので仮説です)


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