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コーヒーはメディア媒体になりうる。

 「コーヒーはメディアだ。常に中間にある。でもコーヒーを真ん中において動く世界もあるんだよな。」


今日の朝に呟いたことだ。

 「コーヒーがなんでメディアなの?どういうことや」と突っ込みたい方がいるかもしれない。一応、メディアを専攻している現役学生なので、学生らしいタイトルをつけてみた。

 昨夜は「コーヒー&シガレッツ(2003)」という映画を見た。映画の感想でだが、複数のエピソードを通して、コミュニケーションの形を何のフィルターかけず示している気がした。

 コーヒー&シガレッツの中では、ご飯よりもコーヒーとタバコが重要視される。「タバコは健康に悪いからやめろ!」と怒り気味で話す友人に「私にとっては、これがご飯だ。お前だってコーヒーを飲んでいるじゃないか」という言い返す変哲なおじさんが登場する。お互い言い合っているけど、喧嘩をしているようには見えない。誰かと話す時間、コーヒーを飲み、タバコを吸い続けていくうちに話は盛り上がる。この映画を見ていると、コーヒーとタバコは健康には悪いかもしれないが、精神性を高めてくれる魅力的な嗜好品であることが伝わる。

 これはとても、皮肉な映画だった。個人的にこのようなテーストの映画は嫌いじゃない。「コーヒー&シガレッツ」というタイトルだけ見れば、コーヒーとタバコの良さについて、褒め叩く反時代的な映画のように思われるかもしれないが、決してそうではない。

 登場人物たちの会話の中で、コーヒーとタバコが健康に与える悪影響については、言及される。健康に悪影響を与えるものであるにも関わらず、コーヒーとタバコは他者と関係性を深めるための媒体として機能すし、多くの人々に昔から愛好されてきた。映画ではこの点について強調している。

 映画を見てから、確かノミュニケーションとか、タバコミュニケーションという造語が生まれる背景が理解できた気がした。しかし、ノミュニケーションの場合、アルコールを摂りすぎると、理性を失いまともな会話ができなくなるので、タバコやコーヒーの性質とは少し異なる気がする。そういう文脈においてもコーヒーはとても素晴らしい飲み物だ。コーヒーは知的で、高尚である。しかし、同時にカジュアルでもある。コーヒーは誰にとってもコーヒーであり、それ以上の意味を与えない。

 イギリスのコーヒーハウスといった歴史背景が関連しているからか、過去にコーヒーは知識人の象徴であった。現在もそのイメージは大きく変わっていないだろう。コーヒーは都市に生きるメトロポリタンにとって場合によっては必要不可欠な存在であり、コーヒーを飲むことは、時間や経済、心身ともに余裕のあることを示すのだ。私の場合は、余裕がないくせに余裕があるかのように自分を紛らわしたく、コーヒーを飲む。これもまたコーヒーができることの一つだ。

 結論としてコーヒーとは、人と人の間で存在し、くだらない会話でさえも美化する媒体である。コーヒーが冷めるまでに、黒い液体を飲み干して、白いカップの底が見えてくるまで会話は終わらない。この映画は、私たちが無意識に忘れていた日常を映している気がしてとてもよかった。

 あなたがもしコーヒーとタバコの相性をわかる人ならば、この映画の世界観に深く浸ることができると思います。ただ同時に、時の流れとともにタバコを吸えるコーヒー屋さんが減っている状況に虚しさを感じ始めるかもしれません。

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