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幕末最強組織・薩摩藩は秦氏系?⑫ ~天皇家と島津家~ 

前回、「長州藩は毛利藩で、毛利の始祖は秦氏だった」と書きました。
明治維新を主導したのは主に長州藩と薩摩藩(薩長連合)。
そして薩摩の藩主・島津家も秦氏説がありました。

薩摩藩の軍事力は群を抜いています。
1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いと言われた『関ヶ原の戦い』で、徳川家康率いる「東軍」と、石田三成率いる「西軍」が死闘を繰り広げました。島津家はこの合戦で「西軍」に加勢。

西軍の敗戦が濃くなった際、島津家は、徳川家康の眼の前を正面突破。
赤鬼と恐れられた井伊直政や、猛将「本多忠勝」など、名のある武将の包囲網をくぐり抜けて鹿児島に帰国。その後島津家は、西軍でありながら取り潰されず、それどころか領地が安堵されるという特別待遇を受けます。

島津家が西軍についたのは、情報収集能力の欠如が原因でした。
この反省から薩摩藩は、各地に密偵を送り、情報能力の強化に努め、独立王国を模索するようになります。同時に領民の教育に努め、身分にとらわれず、優秀な人材を登用する基盤を育成。また海外との密貿易で財を成し、軍事力を拡大しました。

260余年もの後に、「幕末最強組織」となった薩摩藩は、倒幕に成功。のちに日露戦争で、世界屈指の戦力を誇ったロシアのバルチック艦隊に勝利した、海軍を作り上げたのも、薩摩藩出身者。
今回は、そんな最強藩である「島津家は秦氏系か?」の謎解きです。


・島津家の始祖2つの出自説

薩摩藩の藩主である島津家。島津一族は鎌倉時代に発祥した大名家で、「島津に暗君(愚かな君主)なし」と言われるほど、有能な当主を送り出した名家。明治維新では、薩摩藩として名を挙げ、西郷隆盛といった人物を輩出。
(※西郷隆盛は、江戸城無血開城をはたし、王政復古のクーデターを成功させた主要人物。)

島津家の家紋「丸に十字」ですが、キリスト教の十字架に酷似したシンボルは、戦国時代、日本にやってきたイエズス会の宣教師たちに、島津家はキリスト教徒か?と勘違いさせたと言います。

島津家家紋「丸に十字」

島津家の家紋は「丸に十字」。島津氏初代・忠久が、戦いの恩賞として源頼朝から賜ったものと伝えられるが、この頃は丸がない「十字」だった。
島津家のシンボルは、ヘブライ王直系・イエス・キリストの十字架に酷似。

島津家の始祖は、島津忠久で、その出自には2つの説があります。
一つ目は秦氏の子孫で、2つ目が源頼朝の庶子説。

島津忠久の母は、丹後内侍。諸説ありますが、丹後内侍は2回結婚し、一度目は、秦氏系貴族との結婚。その後離婚し、源頼朝の側室になります。
(一度目の結婚で島津忠久が生まれたとしたら、島津家初代は秦氏の子孫。現在、島津忠久の父は、秦氏系という説が通説。)


+ ⑴島津の始祖は秦氏? ~秦の始皇帝の末裔説~

丹後内侍が京都で二条天皇に仕えていた頃、惟宗 広言(これむね の ひろこと)と通じ忠久を産みます惟宗広言は貴族で歌人で、秦の始皇帝の末裔。惟宗氏は秦一族の分家筋。833年に陽成天皇から惟宗(これむね)という姓を与えられますが、その前身は秦氏でした。

惟宗広言の官位は従五位下・筑後守で、鎌倉の武士らと比べて高い地位でした。その後、丹後内侍は離婚し、源頼朝に仕える安達盛長と再婚。

忠久が生まれた摂津の国(現・大阪府)の住吉は、京都の太秦と並ぶ、秦氏の本拠地。島津忠久は九州の薩摩国・大隅国・日向国(現在の鹿児島県・宮崎県)を領土とし、鎌倉時代から明治に至るまで、島津家は、おおよそ700年間南九州を治めます。
忠久は陰陽道に詳しかったようで、鎌倉幕府で、鬼気の祭(きけのまつり)など、さまざまな儀式を執り行いました。

九州の大大名は島津家でしたが、四国の覇者・長曽我部氏も、秦氏の末裔。
対馬を治めた宗氏も、秦氏系。いずれも秦氏系が活躍しています。

古代、秦氏が多く住んだ大阪府住吉にある住吉大社。
源氏物語でも、須磨に流された源氏の君が、住吉の神に導かれ、明石の姫と出会う。

+ ⑵島津の始祖は源頼朝の庶子? ~源氏の末裔説~

丹後内侍は惟宗と別れ、鎌倉に戻り、安達盛長の妻となりますが、同時に頼朝の側室となり、忠久をみごもったともされます。島津家によって編さんされた『島津国史』や『島津氏正統系図』では、「忠久」の父は、惟宗ではなく「源頼朝」となっています。ちなみに現在の歴史学会では「島津忠久の父は、(秦氏系)惟宗広言氏」という説が有力。

歴史を紐解けば、薩摩藩の始祖も「秦氏の末裔」の伝承がありました。
  

源頼朝が強く崇敬していた鎌倉の鶴岡八幡宮
  

・付け足し:天皇家と島津家の太いパイプ

島津家と皇室のつながりは太いです。
昭和天皇の正妻、香淳皇后(こうじゅんこうごう)の生母は島津公爵家の令嬢。香淳皇后にとって島津家は母方の実家です。

令和天皇は香淳皇后の孫なので、島津家の血を遠く引いています。
昭和天皇の五女、清宮貴子内親王も、島津本家の分家である佐土原島津家に嫁ぎました。

島津家の始祖・島津忠久は惟宗氏の息子。惟宗は秦の始皇帝の末裔で、秦氏の分家筋。島津との婚姻を通して、天皇家に秦氏の血脈が入りました。

現在、秋篠宮皇嗣家の佳子さまのお相手候補も島津家で、(島津一門の)玉里家と呼ばれる旧公爵家の御曹司が、縁談の有力候補と報道されています。

「島津に暗君(愚かな君主)なし」と言われるほど、有能な当主を送り出した名家ですが、子孫もまた秀でた人物が多いのが島津家の特徴。
さきほどの昭和天皇の第五皇女、島津貴子(清宮貴子内親王)の夫は、島津 久永(しまづ ひさなが)氏。この方はソニーの取締役で理事長をつとめました。他にも、有名企業の社長や大学の理事となる人物を、数多く輩出しています。身分の関わりなく領民に高度な教育を施した島津家は、自らの子弟の育成にも熱心でした。

現在の島津家第32代当主・島津修久は武術を修め、裏千家の茶道をたしなむ文武両道タイプ。そして元鹿児島県公安委員長で、島津興業の代表取締役会長。私はこの方の血縁関係を調べた際、そのすごさに言葉を失いました。

〈島津家32代当主・島津修久の血縁関係〉
①徳川宗家第18代当主の徳川恒孝のはとこ
(※徳川宗家は、徳川家康を始祖とする徳川将軍家をさす)
平成天皇のはとこ
③第79代内閣総理大臣の細川護煕(ほそかわ もりひろ)首相のいとこ
(※細川護煕首相は自民党)

※(島津修久の)妻の伊津子は西郷隆盛の曾孫。この二人の結婚の仲人は大久保利通の嫡孫・利謙がつとめました。
大久保利通の子孫が自民党の人気政治家、麻生太郎議員。島津家は古くから大物政治家である麻生家との付き合いがありました。

島津家は天皇家や大物政治家、徳川本家とも縁続きで、高い教養と財力を持つ人々。
明治維新後の日本の政治は、長州藩と薩摩藩によって主導されました。
それは現在も続き、政財界と強固なコネクションでつながり、昭和天皇の皇后の(母方の)実家にあたる島津家は、隠れフィクサーとして影響力を持ち続けています。


〈参考サイト〉




本だけでなく、実際に現地に行ったりして調べていますが、わからないことが多いです。だからこそ魅かれる縄文ミステリー!縄文の謎解きははじまったばかりです。(*ᴗˬᴗ)⁾⁾💕ペコリン