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音楽における愛と歴史

 時に音楽のディープなファンは「ライト層にウケる音楽や音楽家」や「ライト層の拡大に寄与した音楽や音楽家」、はたまたそのような形で拡大した「ライト層の音楽ファンたちそのもの」に対し、違和感あるいは嫌悪感を持つことがある。そして感情が昂ぶったときには、思いつくままにその対象への批判を吐露する。

 ある夜、ぼくは音楽好きの友達と「好きになれない音楽的事象」について電話で語り合っていた(もちろん、こんな堅苦しい言葉遣いを使って話をしていたわけではない)。その中で彼は「日本における“テクノ・ミュージック”の受容」について、エイベックスや小室哲哉などの隆盛を引き合いに出して否定的な感情を述べ始めた。

 彼もぼくも特別“テクノ”を好んで聴くタイプではなかったが、ストイックな性格の彼曰く「J-POPの中に浸透していった“テクノ”は、海外の本流の“テクノ”のエッセンスを剥ぎ取り劣化させており、ライト層のチャラチャラした音楽受容を助長させた」というような話だった(ぼくの勝手な要約だが)。

 彼の嗜好を知っているぼくは、彼の意見(というより感情)に正面から反対はしなかったが、いくつかの事実誤認の訂正や曖昧な部分に関する疑問点を投げかけてみたところ、やはり彼の主張は論理的にも経験的にも同意しかねるように感じられた。深い部分から浅い部分まで反論しようと思えばいくらでもできると思ったが、その時の文脈に沿って提出した、

「それは日本の問題なのか。海外のポップスには本当に“テクノ”がちゃんと息づいているといえるのか。」
「“テクノ”を使ったチャラいポップスは海外にも日本同様に存在しているのではないか。『恋のマイアヒ』についてはどう思うのか。」

といった疑問点に対し、彼からはっきりとした答えは返って来なかった。突き詰めて要約すれば、彼は「“パラパラ”が好きになれない」という感情を、知っている限りのジャーゴンを使って正当化しようと試みていたのではないか。

 この一連の問答を終えてぼくが思ったことは「何かが好きだ」ということと「それの歴史について詳しい」ということは決してイコールではなく、別の問題だということだ。「好きなのであれば、詳しく掘る(ディグる)はずだ」という理屈は限られた条件下にのみ成り立つ方程式のようなもので、特に音楽のような複雑で多面的な文化事象ならば尚更である。

 彼がなぜ“テクノ“や“ハウス”などのジャンル名やジャンルの歴史、“デリック・メイ”や“小室哲哉”といった人物の名前を知識として仕入れることができたのか。それは彼が自分でも音楽制作をやる人間だったからという部分も大きいだろう。しかし、より重要なのは「文字を読むことができたから」ではないだろうか。彼は日本語話者で、日本語で書かれたテクストにアクセス可能な環境で、その果てに“小室哲哉”から“デリック・メイ”にたどり着くことができたのだ。そして、文字と感情の渦に巻き込まれるうちに根本的な事実を置き忘れていたのだ。

 念の為断わっておくが、ぼくは彼を論破したりしたいわけではない。断罪や非難をするつもりもまったくない。彼の、音楽に対する愛情やそのストイックな姿勢に対しては尊敬の念を抱いている。彼はぼくの知らないこともたくさん知っているし、ぼくには真似できないこともたくさん実践している。

 「ある音楽を愛好すること」について、少なくとも「文字が読めないこと」は何の妨げにもならない。あたりまえのことなのかもしれないが、それが真実であることを改めて願った夜であった。

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