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すべての道は帰り道

 私は世界の中にいる。


 あらゆる活動や行為に欠かせない前提となっているこの条文は、人との会話の中で口にする必然性こそきわめて少ないが、内省においては何度となく繰り返し確認せざるをえないような不安定さを抱えている。


 「私が世界の中にいる」という時の「世界」が“私”を含んでいるのか、あるいは含んでいないのか。こういう細かい揚げ足取りのような追究がどこかで大きな意味を持ってしまうのが、哲学と呼ばれる作法が身に沁みてしまった人にとって宿命のようなものである。


 「この世界」が〈私〉を含むか含まないか。この問いは〈私〉にとっては答えにくいものだが、〈私〉以外の人にとってはむしろ答えやすい。答えやすいといっても、含むか含まないか、のどちらかを「答え」として出すといったものではなくて、ただ単に〈私〉以外の人からすれば、その人が〈私〉を知っている場合ならば、当然この世界の一部として姿を現しているであろうし、もし〈私〉を知らない場合ならばその世界に〈私〉は含まれないであろう、というだけの話である。


 同じ問いに対して〈私〉からではなぜ答えにくいのかといえば、〈私〉が生きている内は問いに対して無関心でいられるのだが、〈私〉が死ぬとなると途端に事態はややこしくなるからである。


 〈私〉の死とともに〈この世界〉は終わる、というのが聞いたところによると数少ない真実のひとつらしいのだが、先にいったように、私以外の人からすれば〈私〉が生きているか死んでいるかはさしたる問題ではなく、〈私〉が死んだとしても依然としてその世界は続いていくのだろうし、知り得た〈私〉が忘れられる時までは「その世界」に〈私〉は含まれていられるであろう。


 この時、世界は〈この世界〉と「その世界」の2つに別れてしまい、一方は存続し、もう片方は終わりを迎えてどこかへゆく。ここで、それまであえて触れることを避け、見て見ぬふりをしてきた「機能不全」、世界を単数として取り扱うことで成り立っていた近代以降における一切のコミュニケーション一般の「機能不全」が明白なものとして立ち現れるのである。


 ハイデガーがまさにその「機能不全」からの回復のためにはじめた「時間」についての議論が、技術や芸術、または道具一般などの立ち振舞や意味合いの話へと横滑りしていったのには、そうした切迫も大きな理由の1つである。

 

 〈私〉が持ちうる能力やアイデアが〈この世界〉を超えて(つまり、〈この世界〉以外の場所、例えば「その世界」などで)作用することはなく、また、別の言い方をすれば、その働きかけは〈この世界〉の中のどこかに必ず宛先を持つ、ということになる。

 ある想像やアイデアが、いかに「その世界」、または〈この世界〉において実現不可能なようであったとしても、少なくとも〈この世界〉においては予期せぬ仕方でのエフェクションが約束されており、問題はやはり先の機能不全、〈この世界〉と「その世界」をつなぐ回路の場所の問題に限定されてくる。


 自らが発揮される居場所を探しているのは人の体や心だけではなく、彼らの技術やアイデア、手仕事や作品たちも同じように居場所を探している。あるいは求めている。しかも、その場所が不在である可能性があらかじめ取り除かれているのであれば、その道程は「帰り道」だといって問題ない。


 その帰り道を辿る足跡は、プラトニックな文学的表現を用いて「運命」と呼んでも構わないであろうし、足跡を逆説的な質量と感じる心があるのであれば「重力」と呼んでも差し支えないであろう。


 どうやってここまで来たのかはわからないが、とりあえず帰巣本能“だけ”は避け難く持ち合わせてしまっている。体を構成している物質も、心の働きを構成している記憶も、〈この世界〉も「その世界」も合わせて今現在のところは、まだ世界としての表層を保っている。



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