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「ゆらゆらと石原純」のおはなし

蓬莱橋畔

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 蓬莱橋渡り口に石原純の文学碑がある。
「五百五十間のながい木 橋が/ゆらゆらと揺れる。たよりない人生の一路のように。」
 大正一四年理学博士石原純は島田町「蘭契会」主催の夏季講習に招かれた。約400人の聴衆を前に三日間「原子の構造」について語った。それはアインシュタインの相対性理論に基づくもので、当時の最先端の理論であった。石原はまた歌人としても、著名であった。「滞在中の一夕、主催者蘭契会会員に誘われて蓬莱橋畔に晩涼の一ときを楽しまれた。理学者でもあり歌人でもあった先生が、翌朝書画帳に書かれたのが此の『大井川即吟』であった。」(清水真一『島田文学碑巡り』)。


科学者そして歌人


 石原純は明治一四年東京本郷で生まれる。厳しい生活環境の中で東京帝国大学理論物理学を卒業。29歳で東北帝国大学助教授として招かれる。早くから量子論を研究しており、翌二年間のヨーロッパ留学ではアインシュタインと共同研究をするなど、まさに当時のヨーロッパ物理学会が「相対論の一般化の試みがまだ混乱した状況にある時、この中に参入したのである。」(西尾成子『評伝石 原純』岩波書店)。帰国後、日本最初の量子論、相対論の研究により理学博士となる。一方、歌人としては、「アララギ」創刊時から有力同人として活躍し、物理学者として歌人として揺るぎない地位を築いていた。


原阿佐緒(あさお)


 原阿佐緒(明治二二年~昭和四四年)が石原の自宅での歌会に参加したのは大正六年であった。その頃の阿佐緒は女流歌人として世に知られた人物だった。歌人石原の乾いた魂は阿佐緒のすべてを求め激しく求愛する。阿佐緒はその激しさから逃れようとする。大正10年二人は共に暮らし始める。石原41歳、阿佐緒34歳であった。石原には妻と5人の子供があった。二人の恋愛は「帝大教授と美貌の女流歌人の恋」とマスコミに報じられ阿佐緒は「アララギ」を破門、石原は大学教授の職を追われる。阿佐緒はマスコミに「妖婦による日本物理学会の損失」と揶揄されながらも、大正デモクラシーの中で「新しい女」として歌を詠み続ける。
 しかし、昭和三年阿佐緒は黙って家を出る。破局が訪れる。


多情多恨

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 その後二人の運命は分かれる。スキャンダルを負う阿佐緒は酒場仕事を転々とする。歌人阿佐緒は忘れ去られ故郷に帰るが晩年、阿佐緒の抒情的な歌は再評価される。

 石原は、社会が戦争体制に突入する中、雑誌『思想』(岩波書店) に、反ファシズムの論陣を張る。
「ファシズムの襲来にあたって、科学的精神の擁護に鋭い言論活動を展開しました。」(鹿野政直『近代日本思想案内』岩波書店)と日本思想史にその名を残す。妻子のもとに帰った石原は昭和二二年、交通事故の後遺症によって世を去る。
 蓬莱橋畔に立ったその時が、石原と阿佐緒の最も幸福な時であった。それはまた幸福と破局にゆらゆらと揺れる、頼りない人生の一路であった。


(地域情報誌cocogane 2017年12月号掲載)

[関連リンク]
地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)

石原純大井川即吟詩碑(静岡県島田市南二丁目地先 蓬莱橋トイレ横)


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