「多様化の言葉」に隠れる「Z世代」
「Z世代」を初め最近思う雑事について書いておこうと思う。
もちろん、ここ「note」には「Z世代」の人はいるだろう。
別に「Z世代」を悪いと言っているわけではない。非難はしない。
わたしの目に映り、わたしが「解釈」した「Z世代」である。
彼らが好きな言葉は、「多様化」とか「プライヴァシー」である。
確かにネットの発達により、伝達方法は「多様化」した。
それとともに、いろいろな分野において「多様化」が進んだ。
例えば、最近スカートを履いた若い男性を見る。もし、わたしが、彼に「スカート」は一般的に「女性」が履くものじゃない?
と質問したとしよう。きっと彼はこういうだろう。
「今は多様化の時代ですから、こんなの当たり前ですよ」
と。
わたしに言わせると、それは解答になっていない。
なぜ?なのかという疑問に対して何も答えていないからだ。
「多様化」という「言葉に隠れて」しまうのだ。
「多様化」と言えば、何でも許されると思っている。
テレビを観ていると、大学教授と呼ばれる人が、先ほどの彼のような理解しがたい恰好をしていたりしている。大学教授は学者である。芸能人ではない。耳にイヤリングをしていたり・・・。
わたしに言わせると、職業らしさ=衣装・ファッションというところがあると思う。
簡単に言うと、「品位」「品格」というものが欠如しているのである。
こういう人たちも「多様化の犠牲」であり「多様化というミノ」を着た人たちなのであろう。
もちろん、「多様化の功績」もある。
「性同一性障害」の人が、その病と新しい「性が認知」されるようになった。これはこれでよいと思う。
わたしの妻が、「Z世代」を、
「何でもありの世代」なのよ、
という。
「なるほど!」と思うが、俗に「知識人」と呼ばれている人までが「何でもあり」何てありうるのだろうか?
次に話は変わるが、ブログにおける「いいね!」のことだ。
これは、わたしに言わせれば、ある記事が良いから「いいね!」をした訳ではない。ある記事を書いた人が人気者で数多くの「いいね!」が付いているなら、自分も「いいね!」を付けて、その仲間入りをしたい、つながっていたい、ただそれだけのことである。
例えれば、お土産をもらえばお返しをするし、お中元、お歳暮をもらえばそのお返しをする感覚と同じだ。
「いいね!」をもらった人は、お返しに付けてくれた人に「いいね!」を付けるかもしれない。
ブログの世界は馴れ合いの世界だと思う。
憤りを感じてしまう。
そのブログも「Z世代」のものではないか。