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自伝

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#スペイン語

No. 1 外国生まれの日本人

No. 1 外国生まれの日本人

時は中南米、エルサルバドルの首都 サンサルバドル。
青年海外協力隊員だった父はその延長なのか、何故かサンサルで仕事をしていた。(何をしていたのかは不明。。)
そして現地の飛行場建設を手掛けていた兄を訊ねた母。
そこで二人は出会い私が産まれた、というわけです。 

そんな下を噛みそうな名前の国で私は産声を上げたわけですが、当時内戦に突入寸前だった中南米の小さな国。
父は現地に残り母は私も抱えて帰国し

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No. 2 幼少時代

No. 2 幼少時代

ラテン国を行ったり来たりだった父。
その期間、母は日本で生まれた妹と共にここ鹿児島県薩摩郡の父の実家で何年か過ごしたそうです。

現在70歳過ぎの母。
京都市左京区が実家の彼女。
今でも「わたしはシティガールだから」と呟いている。

・母の実家近くにある北野天満宮

そんな母と父はエルサルでお互い一目惚れだったそうですが、初めて父の実家に(結婚後)行った時の様子は今でも鮮明に覚えているとの事。

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No. 3 そして転機が訪れた

No. 3 そして転機が訪れた

楽しく過ごしていた小学6年生のある日。
幼稚園から一緒だったクラスメートたちと小学校を卒業するんだ、と思っていた矢先でした。
父からいきなり「ホンジュラスに引っ越すぞ」と。
クリーミーマミやら日本昔話やら見て育ったふつ~の日本人少女だった私。
いきなりのことで
「ホンジュラスってなに?!」って感じでした。

これまた【エルサルバドル】も言いにくいが【ホンジュラス】も下噛むじゃないか!!
しかもどこ

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No. 4 未知の国で

No. 4 未知の国で

ホンジュラスの地を踏んだ瞬間。
ハッキリ言って思えておりません。。
あまりにカルチャーショックが大きかったのか。
脳がブロックアウトされてしまったのか。。。
恐らく
「ああ、外国人がいっぱいだ」
とでも思っていたのでしょう。

唯一よく覚えているのは新しい家に到着したときのことです。
今まで団地の一室で母と妹と一緒に寝ていたのが普通だった生活から一転。
丸っこく薄茶色の瓦が屋根に重なり合い、
レン

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No.5 初めての学校

No.5 初めての学校

私が小学生の時代(80年代)でも大抵国外には日本人学校があったようです。
ホンジュラスは例外でした。
ホンジュラスへ家族を連れて赴任する日本人も少なく、現地の日系人も少なかったのでしょう。
日本人学校は無く、唯一存在したのは土曜日だけの日本人予習校でした。

どちらにしても、うちの父親は
「外国に住むのであれば現地の学校」
というスタンスだったので、家から歩いて10分程度の学校へ入学。
日本のしっ

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