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30年日本史(毎日投稿)

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2022年元日から始めた連載。「人間って面白いな」と思えるような、登場人物の個性に着目した日本史講座を目指しています。受験対策になるかどうかは微妙ですが、旅行がより楽しくなるはず…
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2023年8月の記事一覧

30年日本史00608【鎌倉前期】藤原定家 式子内親王との恋歌

30年日本史00608【鎌倉前期】藤原定家 式子内親王との恋歌

 この頃、定家と式子内親王(しょくしないしんのう:1149~1201)との間で頻繁に歌を送り合うようになったとみられています。式子内親王は後白河法皇の娘ですが、母・藤原成子の身分が低く、賀茂斎院(かもさいいん)に選ばれ、賀茂神社で不遇な生涯を送りました。
 賀茂斎院とは、皇族女性から選出されて賀茂神社での祭祀に奉仕する人をいいます。俗事を避けて清浄な生活を送る必要があり、恋愛や結婚はご法度です。

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30年日本史00607【鎌倉前期】藤原定家 新古今和歌集の編纂

30年日本史00607【鎌倉前期】藤原定家 新古今和歌集の編纂

 実朝の公家志向や和歌への憧憬については既に述べました。義時・政子にとっても実朝が朝廷とパイプを持つこと自体は理想的なことだったと思われますが、実朝の都への思いは義時らの予想をはるかに上回っていました。
 建永元(1206)年から新古今和歌集を用いて本格的に和歌修行を始めた実朝は、承元3(1209)年7月、思い切って新古今和歌集の選者である藤原定家に自身の詠んだ和歌を書き送ります。
 ここで天才歌

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30年日本史00606【鎌倉前期】親鸞と浄土真宗 他力本願

30年日本史00606【鎌倉前期】親鸞と浄土真宗 他力本願

 その後親鸞は法然の元に弟子入りし、高い評価を受けるようになりますが、「承元の法難」で師・法然に連座して越後国(新潟県)に流罪となりました。その後、法然が許されて四国から京に戻ると聞き、再会を願ったものの、豪雪地帯の越後から京へ戻ることが出来ないうちに法然は病死してしまいます。
 建保2(1214)年、親鸞は東国での布教活動のため、家族や門弟を引き連れて越後を出発し、常陸国吹雪谷(茨城県笠間市)へ

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30年日本史00605【鎌倉前期】親鸞と浄土真宗 肉食妻帯の禁

30年日本史00605【鎌倉前期】親鸞と浄土真宗 肉食妻帯の禁

 法然の次は、親鸞の生涯について見ていきましょう。
 法然が浄土宗という新たな宗派を開いたと自覚していなかったのと同じく、親鸞もまた「浄土真宗」という宗派を開いたという意図はありませんでした。「浄土宗」「浄土真宗」とも後世に名付けられたものです。当時はこの二宗派は厳密には区別されておらず、「念仏宗」などと総称されていたようです。
 親鸞は承安3(1173)年4月1日に日野(京都市伏見区)で産まれま

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30年日本史00604【鎌倉前期】法然と浄土宗 承元の法難

30年日本史00604【鎌倉前期】法然と浄土宗 承元の法難

 元久2(1205)年頃、延暦寺・興福寺は朝廷に訴えを起こし、法然の活動を取り締まるよう要求しましたが、朝廷はこれに応じず、事態を静観していました。
 ところが、建永元(1206)年12月頃、事態は大きく動きます。法然率いる浄土宗の活動が、後鳥羽上皇に仕える女房らの耳にまで届き、関心を持った女房らは遵西(じゅんさい:?~1207)と住蓮(じゅうれん:?~1207)という法然の弟子2名が鹿ヶ谷で開い

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30年日本史00603【鎌倉前期】法然と浄土宗 一念か多念か

30年日本史00603【鎌倉前期】法然と浄土宗 一念か多念か

 建永2(1207)年2月。後鳥羽上皇の命により、法然や親鸞(しんらん:1173~1263)といった浄土宗の僧たちが流罪となりました。この事件を「承元の法難」といいます。「承元」と改元されたのはこの年の10月なので、本来は「建永の法難」と呼ぶべきなのですが、「承元の法難」の名で知られている事件です。
 ここで、法然と親鸞の生涯について紹介しておきましょう。
 法然は、長承2(1133)年4月7日、

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30年日本史00602【鎌倉前期】牧氏の変*

30年日本史00602【鎌倉前期】牧氏の変*

 時政と牧の方の独裁がエスカレートする中、いよいよこの二人を謀略で葬ろうという計画が出てきます。
 元久2(1205)年閏7月19日。「牧の方が娘婿の平賀朝雅を将軍位に就けようとしている。そのため実朝の命を狙っている」との情報が入ってきました。どこまで本当か分かりませんが、平賀朝雅は頼朝の養子ですので、将軍職を継ぐ資格があるという論理だと思われます。
 吾妻鑑は、「牧の方が実朝の命を狙っている」と

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30年日本史00601【鎌倉前期】畠山重忠の乱 恋ヶ窪の伝説

30年日本史00601【鎌倉前期】畠山重忠の乱 恋ヶ窪の伝説

 畠山重忠が死んだところで、彼をめぐる伝説について紹介しておきましょう。東京都国分寺市に「恋ヶ窪」という地名があり、そこに重忠にまつわる恋物語の伝説が残っているのです。
 畠山重忠は、本拠地である菅谷(埼玉県嵐山町)と鎌倉とを行き来する生活を送っていました。その鎌倉街道の宿場町であった恋ヶ窪宿で、重忠は夙妻太夫(あさづまだゆう)という遊女と恋仲になります。
 ある日、重忠は頼朝の命で西国へと旅立つ

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30年日本史00600【鎌倉前期】畠山重忠の乱 重忠の最期

30年日本史00600【鎌倉前期】畠山重忠の乱 重忠の最期

 元久2(1205)年6月22日。時政は
「謀反人を鎮圧するため集合せよ」
と言って、御家人たちを由比ヶ浜に集め始めました。畠山重保もそこにやってきましたが、三浦義村たちが自分を取り囲むのを見て、初めて
「謀反人とは自分のことだったのか」
と気づきました。重保はやられまいと奮戦しますが、多勢に無勢で、討ち取られてしまいます。
 続いては父の畠山重忠を討てとの命令が下りました。菅谷館にいた重忠のもと

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30年日本史00599【鎌倉前期】畠山重忠の乱 馬を背負う*

30年日本史00599【鎌倉前期】畠山重忠の乱 馬を背負う*

 さて、畠山重忠はどういう人かというと、「気は優しくて力持ち」を地で行く人物だったようです。
 その武勇を示すエピソードとしては、義経が平家と戦った一ノ谷の戦いでの伝説的挿話があります。このとき、畠山重忠は義経率いる奇襲軍に参加していたのですが、義経たちが鵯越の崖を駆け下りたとき、重忠だけは名馬「三日月」が怪我をすることを恐れて、馬を背負って崖を駆け下りたというのです。さすがに後世の創作でしょうが

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30年日本史00598【鎌倉前期】畠山重忠の乱 牧の方の暗躍*

30年日本史00598【鎌倉前期】畠山重忠の乱 牧の方の暗躍*

 畠山重忠の子である重保(しげやす:?~1205)もまた、平賀朝雅の突然の昇進に苛立っている御家人の一人でした。
 元久元(1204)年11月4日。畠山重保と平賀朝雅は激しい口論を起こしました。具体的にどのような口論だったかは伝わっていませんが、おそらく重保が朝雅を侮辱したのでしょう。
 時折りしも、翌11月5日に時政と牧の方の間に産まれた唯一の男子である北条政範(ほうじょうまさのり)が急死しまし

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30年日本史00597【鎌倉前期】三日平氏の乱

30年日本史00597【鎌倉前期】三日平氏の乱

 2代将軍を葬った時政の勢いは止まりません。自分に従う御家人を重用して、反対派を粛正しようと画策し始めます。
 この時政とつるんで権勢を振るったのが、牧の方(まきのかた)です。牧の方は北条時政の後妻で、時政との間に一男三女をもうけ、時政に取り入っては自らに都合のよい人事を発令させようとしていました。
 その牧の方が重用したいと考えていたのが、娘婿の平賀朝雅(ひらがともまさ:?~1205)です。

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30年日本史00596【鎌倉前期】北条時政の伝説

30年日本史00596【鎌倉前期】北条時政の伝説

 さて、北条時政が初代執権の座に就いたわけですが、この時政とはどのような人物だったのでしょうか。
 まず北条氏の出自については、平忠常の乱を鎮圧した平直方(00356回参照)を祖先に持つ一族だと記録されています。しかし、これは北条氏が自称した話であって史実ではないでしょう。この時代、自身の系譜を捏造して長い歴史を持つ家系だと自称するケースはよくみられることでした。
 北条氏は伊豆国北條(静岡県伊豆

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30年日本史00595【鎌倉前期】実朝の公家志向

30年日本史00595【鎌倉前期】実朝の公家志向

 建仁3(1203)年9月7日に征夷大将軍に任ぜられた千幡は、10月8日に北条時政邸において元服の儀を行いました。名は後鳥羽上皇の命名により「実朝」と称せられました。
 元久元(1204)年12月には、京から後鳥羽の寵臣・坊門信清(ぼうもんのぶきよ:1159~1216)の娘に当たる信子(のぶこ:1193~1274)を正室に迎えました。実朝は12歳、信子は11歳です。北条時政としては、将軍と朝廷の結

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