30年日本史00606【鎌倉前期】親鸞と浄土真宗 他力本願
その後親鸞は法然の元に弟子入りし、高い評価を受けるようになりますが、「承元の法難」で師・法然に連座して越後国(新潟県)に流罪となりました。その後、法然が許されて四国から京に戻ると聞き、再会を願ったものの、豪雪地帯の越後から京へ戻ることが出来ないうちに法然は病死してしまいます。
建保2(1214)年、親鸞は東国での布教活動のため、家族や門弟を引き連れて越後を出発し、常陸国吹雪谷(茨城県笠間市)へと向かいました。そこに建てた「稲田の草庵」を拠点に精力的な布教を行い、主著「教行信証」を著したといわれています。
その後、再び京にのぼって布教に取り組んだ親鸞は、弘長2(1262)年11月28日に89歳で死去しました。親鸞の死をみとった末娘の覚信尼(かくしんに:1224~1283)は、遺骨を大谷の地に納め廟堂を建てました。鎌倉末期にそこに「本願寺」が建てられますが、その後本願寺は複雑な歴史を辿り、現在は東本願寺を本山とする「真宗大谷派」と、西本願寺を本山とする「浄土真宗本願寺派」に分派しています。前者は大谷暢裕(おおたにちょうゆう:1951~)氏が、後者は大谷光淳(おおたにこうじゅん:1977~)氏がそれぞれ門主を務めており、いずれも親鸞の子孫です。
さて、親鸞の教えは「南無阿弥陀仏」と唱えることで極楽往生できるという点では法然と共通していますが、親鸞は法然が示した以上に教義を大きく体系化したため、その教えを「浄土真宗」として浄土宗と区別するようになりました。
親鸞によると、我々は「阿弥陀如来の力」(他力)にすがるべきであって、自分の計らい(自力)で極楽往生を目指すべきではありません。これを「他力本願」と呼び、本願寺の名称もそこに由来しています。
「他力本願」というと、努力を放棄して他人の力をあてにするといった悪い意味を想像してしまいますね。事実、昭和43(1968)年に倉石忠雄(くらいしただお:1900~1986)農林大臣は、
「現行憲法は他力本願だ、やはり軍艦や大砲が必要だ。こんな馬鹿馬鹿しい憲法を持っている日本はメカケのようなもの」
などと発言しました。
この発言にはいくつものまずい点がありました。「戦力を保持すべき」という持論を唱えること自体の物議はともかく、米国に頼ることを「妾」に例えるという点が問題視されました。そして本願寺からは「他力本願という言葉の使い方が違う」との抗議を受けることとなりました。
その後も、昭和56年に鈴木善幸首相が「わが国の防衛は他力本願ではだめ」と発言したり、平成14(2002)年のオリンパス株式会社の広告に「他力本願から抜け出そう」と書かれていたりしています。その都度本願寺は抗議をしていますが、なかなか真の意味が伝わらないようです。
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