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ミュージシャン『ボブ・ディラン』と『ザ・バンド』について

過去のnoteでの音楽関連の投稿。

『ポール・ウェラー』

『ザ・ビートルズ』

『デヴィッド・ボウイ』

『ジャコ・パストリアス』

『スティーヴィー・ワンダー』

以上5人のミュージシャンを取り上げてきました。(『スティーヴィー・ワンダー』は未完)

今回は『ボブ・ディラン』についてです。(それと少し『ザ・バンド』についても)

年代順の紹介ではなく、Quoraの過去投稿の加筆・訂正です。

質問1.『曲を演奏することは物語を語ることと似ていますか?』

質問ありがとうございます。

注目したのは質問文の「物語を語る」の部分。
以前読んだあるネット記事を思い出しました。

2016年 ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したときの結構長文の記事です。

Subterranean Homesick Blues

『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』5thアルバム

この記事を要約すると、
「古代ギリシャの吟遊詩人」を比較の引き合いに出し、本来「詩」は歌うもので、楽器を弾きながら歌うのが主流だった。

詩が紙に書く「文学」とみなされたのは17世紀のグーテンベルク以降。

「つまりギターを弾きながら自作の詩を歌うボブ・ディランのスタイルは、詩人としてむしろ正統派である」
という理論展開で、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞を擁護する記事です。(当時少なからず批判があったので)

Desolation Row.

『追憶のハイウェイ 61』6thアルバム

上のネット記事は、ほかにもいくつか独自の視点で語っていて面白いのですが、紀元前の古代ギリシャ叙事詩「イーリアス」、「オデュッセイア」などは英雄、戦争、歴史などを語り伝える「物語」でもあったので、

どちらも『ホメロス』

※『ホメロス』は、紀元前8世紀末のアオイドス(吟遊詩人)であったとされる人物を指す。西洋文学最初期の2つの作品、『イーリアス』と『オデュッセイア』の作者と考えられている。

本来「曲を演奏することは物語を語ること」に非常に近かったと言えると思います。

現代の音楽を演奏することが、それに当てはまるのかは、個人の感覚によると思います。

Tangled up in Blue.(ブルーにこんがらがって)

『血の轍』15thアルバム

質問2.『サザンは40年以上第一線で活躍してますが、海外で40年以上と言えば…ポールマッカートニー,ミックジャガー,ポールサイモン,アートガーファンクル…他は誰ですか?』

質問ありがとうございます。

質問者さんも、すでに理解しているとは思うのですが、40年以上ものキャリアを誇る、トップミュージシャンは、自動的にずっとトップの座にいるわけではなく、そのキャリアの長さに比例した挫折やチャレンジを繰り返しています。

またその時代に合わせて変化をし、それがその時代のリスナーの心をちゃんと掴まなければならない。

有名ミュージシャンだからといって、何をやっても受け入れられるのは、むしろポッと出の若手ミュージシャンのときだけだと思っています。(いわゆるチヤホヤおだてられ状態)

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Bob Dylan(ボブ・ディラン)をご紹介します。

『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』2ndアルバム


A Hard Rain's A-Gonna Fall.

「もしディランのアルバムをどれか一枚聴こうと思うなら、ディランが今の自分と同い年の時に作ったアルバムを聴け」 - みうらじゅん

※みうらじゅんさんは、日本有数の『ボブ・ディラン』フリーク。

以下の話も僕が若い時に、テレビで漫画家のみうらじゅんさんが言っていたのを覚えています。

「中古レコード屋に行って、ボブ・ディランの棚でとりあえず自分が見たことのないジャケットのレコードがあったら必ず買う」
というくらいの筋金入りです。もちろん、ここまでのめり込む必要もないですが。

〜ここから本題〜

ボブ・ディランも、いまだに現役です。(キャリアは50年以上)

『ボブ・ディラン』1stアルバム

デビューは1962年3月。このアルバムは同年、アメリカ国内でたった5,000枚しか売れなかった。

しかし彼はレコード店に行って、自分のアルバムが置いてあるのを見て「ただただ嬉しかった」そう。

1965年

Bob Dylan Live at The NewPort Fork Festival.1965.

バックバンドを従えて、エレキギターを演奏。観客から大ブーイング。
しかし、ブーイングはひどい音響とあまりに短い演奏だったことに対するものであり、実際には歓声もあがっていたという説もあります。

1985年

Bob Dylan Blowin' in The Wind.Live Aid.1985.

1985年 Live Aidのトリという大舞台でローリング・ストーンズのキース・リチャーズやロン・ウッドとの共演。
しかし「風に吹かれて」の途中でギターの弦が切れロン・ウッドのギターと交換するアクシデントが発生(ロン・ウッドはエア・ギターとなった)
さらに、モニタースピーカーを取り払われ、ステージ裏では他の出演者が大トリの「ウィ・アー・ザ・ワールド」を練習しはじめるなど最悪のコンディション。
キースやロンともなかなかかみ合わない。
彼自身にとってもマスコミの評価の上でも最悪の結果に終わった。

1990年代はCD-BOX SETがいくつか発売されたり、デビュー30周年記念コンサートが開かれたりと、祭り上げ企画が多かったけど、当時の若いリスナーにとっては過去の人扱い。

実際、新作アルバム、シングルの売り上げ、ともに1960~1970年台に比べ著しく低迷。

2006年

iPod Ad:Bob Dylan - Someday Baby.

2006年 ボブ・ディランの大ファンのスティーヴ・ジョブズが、iPod + iTunesのCMに起用。

『モダン・タイムズ』32thアルバム

アルバム「モダン・タイムス」が30年ぶりに全米No.1を獲得。

『欲望』17thアルバム

『欲望』(1976年)以来30年ぶりのチャート1位となった。
当時65歳は、ビルボード・チャートで1位をとった最高年齢である(この記録は2008年にニール・ダイアモンドに破られるが、『トゥゲザー・スルー・ライフ』(2009年)でディランがさらに更新する)

2016年

『Fallen Angels』37thアルバム

この頃のボブ・ディランのアルバムは、古典的といえるアメリカの歌のカバーが中心に取り上げられている。

Nobel Banquet Bob Dylan Speech at 2016.

2016年 ノーベル文学賞受賞

本人はノーベル賞受賞発表後、2週間もコメントせず、結局受賞を受け入れても、授賞式には出席しなかった。

授賞式では、当時のスウェーデン米国大使アジータ・ラジがボブ・ディランのコメントを代読。

「我々の歌は生きている人たちの世界でこそ生きるものなのだ。でも歌は文学とは違う。歌は歌われるべきものであり、読むものではない。」―ボブ・ディラン

2020年

Murder Most Foul.Bob Dylan.

2020年3月発表の新曲『最も卑劣な殺人』

『ラフ&ロウディ・ウェイズ』39thアルバム

いまだに現役で新曲を発表し続けています。

質問3.『伝説のバンドを紹介して頂けませんか?』

質問ありがとうございます。

ギャグでもなんでもなく真面目な回答で、

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『The Band(ザ・バンド)』

カナダ人4人とアメリカ人1人の5人編成。

オリジナル・メンバーの全員が様々な楽器を演奏でき、『ミュージシャンズ・ミュージシャン』として、今なお多くのミュージシャンから尊敬を集めている。

母体はロニー・ホーキンスと言うアメリカのロックン・ローラーのバックバンドであるザ・ホークス。

1959年~カナダで活動中、ドラムのリヴォン・ヘルム以外のメンバーがザ・ホークスを脱退。

代理として現地カナダでメンバーを募集し集まったのが、のちのオリジナルメンバーである、

ロビー・ロバートソン ー ギター
リック・ダンコ ー ベース
リチャード・マニュエル ー キーボード
ガース・ハドソン ー キーボード、サックス

1964年 バンマスのロニー・ホーキンスと意見が対立し、バックバンドのはずのザ・ホークスが独立。

『リヴォン&ザ・ホークス』名義で、カナダ、アメリカで地道なライブ巡業活動。

ロニーと別れたバンドの苦難に満ちた下積み生活は、
「ヒモと娼婦とアル中と人生の敗北者」相手の演奏を繰り返し、
その日暮らしの流浪の日々であった。

1965年 『リヴォン&ザ・ホークス』は、ボブ・ディランのマネージャーの目に留まり、ボブ・ディランのバックバンドに抜擢。

時期的にちょうどボブ・ディランが、アコギの弾き語りから、フォーク・ロックへ転向しようとしていた時期で、ディランのフォーク・ロックへの路線変更の成功を支えた。
同時に彼らの知名度も高めた。

No direction home ending scene.

1968年 ※この頃『ザ・バンド』に名義を改める

『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』ザ・バンド1stアルバム

1968年 アルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』で単独デビューする。

I Shall Be Released.The Band

ボブ・ディランが作詞・作曲した楽曲。ザ・バンドのバージョンが最もよく知られ、以後多くのミュージシャンにカバーされた。

1966年 ボブ・ディランはニューヨーク州ウッドストック近郊でバイク事故を起こし、重傷が報じられる。

実際には休養という形で、ビッグ・ピンクといわれたウッドストックの隠れ家に籠り、ディランとのセッションが行われ、その音源がロック史上初の海賊版『Great White Wonder』として流出した。

The Basement Tapes Complete Trailer - Full Length Version (Digital video)

『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』ボブ・ディラン&ザ・バンド

海賊盤が出回り始め、闇の一大市場となってしまったのである。
なお、このデモ音源の一部は1975年にロビー・ロバートソンの手により、新たにオーバーダブを加えた改良版として『地下室』の題で公式発表された。

以後『ザ・バンド』としてアルバムを定期的にリリース、ヒット曲も多数、同時にボブ・ディランとの全米ツアーも実現。

1976年 ロビー・ロバートソンがバンド解散、ライブ活動停止を発表。※しかし実際には、ロバートソン以外のメンバーは解散には反対。

The Last Waltz Trailer(1978)

ザ・バンドが1976年11月25日に米国カリフォルニア州サンフランシスコのウインターランドで行った解散ライブ。

『ザ・ラスト・ワルツ』ザ・バンド9thアルバム

1976年 ザ・バンドの解散ライブアルバム。

ボブ・ディラン、ニール・ヤング、エリック・クラプトンなど豪華ゲストが多数参加。

映画『ザ・ラスト・ワルツ』

監督 マーティン・スコセッシ。ザ・バンド解散ライブの記録映画。

解散後はメンバーそれぞれがソロ活動を続けていた。

1983年 ロバートソン抜きで再結成し、ツアーも敢行。

1986年 リチャード・マニュエル自殺。

1993年

The Caves of Jericho.The Band.

『ジェリコ』ザ・バンド10thアルバム

1986年以降CBSとの再契約がまとまってアルバムも制作されたが、なぜかお蔵入り。その後、Pyramidというマイナーレーベルから本作発表。

1987年

Fallen Angel.Robbie Robertson.

『ロビー・ロバートソン』

時間的に紹介が前後するが、1987年にロビー・ロバートソン初のソロアルバム発表。

※ロビー・ロバートソンは、ザ・ラスト・ワルツ直前の強引な解散宣言や、ツアー中止発言などでメンバーと確執が生まれる。
このときドラムスのリヴォン・ヘルムとは絶縁状態となった。

1999年 リック・ダンコの死去まで、この形態での『ザ・バンド』の活動は続いた。

Once Were Brothers: Robbie Robertson and the Band Trailer(2019)

2020年 ドキュメンタリー映画『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』日本公開

"The Band!" 彼らの偉大さはこの一言に集約されている。


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