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アメリカ黒人音楽入門③偉大なる『スティーヴィー・ワンダー』❶ ~1978

スティーヴィー・ワンダーについては、デヴィッド・ボウイやジャコ・パストリアスのように時系列でおすすめ曲や音楽活動の歴史を紹介していこうと思っていたのですが、
「活動歴が長すぎる」という事実、「ほぼ捨て曲なし」と言う事実。
何よりも1960年代以降の現代アメリカ黒人音楽の歴史と密接に絡みすぎているので、いろんな角度で今後記事を書いてみたいと思っています。

まずはスティーヴィー・ワンダーの音楽活動歴をざっくりと駆け足で振り返ります。

『神様がくれた耳』

この本に掲載されている話ですが、全文引用させていただきます。(一部改訂)

アメリカの学校で理科の授業中実験に使っていたマウスが逃げ、どこに隠れたのかわからなくなった。
女性の教師はみんなに探させたが、見つからない。
そこで、全員に席を着かせ、自信たっぷりにこう言った。
「これだけ探して発見できないのなら、あとは、モリス君にお願いしましょう
途端に、「ちょっと待って、何でアイツが?」という声があちこちから起こった。
教室はざわめき、一人が「モリスは無理です」と手をあげて言った。
実はモリスは目が不自由です。
教師は答えた。
「なるほど、確かに目が不自由です。だからモリス君には無理だと、みんなは思うかもしれません。でも、先生は知っています。
モリス君は目が不自由でも、神様から素晴らしい能力をもらっています。
聴力です。
それをいかせば必ずマウスを見つけてくれると、先生は信じています。モリス君、お願い出来ますか?」
そして、モリスは期待に応えてマウスを捜し出した。
彼は日記に、こう書き残した。
「あの日、あのとき、僕は生まれ変わった。先生は僕の耳を神様がくれた耳と言って褒めてくれた。僕はそれまで目が不自由なことを、心の中で重荷に感じていた。でも先生が褒めてくれたことで、僕には大きな自信がついた」
このマウス事件から数年(原文では十数年)、モリスは神の耳を生かして音楽の道に進んだ。
シンガーソングライターとして、彼は鮮烈なデビューを果たす。
スティビー・ワンダーという名前で!

1962年 モータウンと契約。当時11歳。

当時のプロデューサー、クラレンス・ポールにより、『リトル・スティーヴィー・ワンダー』と言うステージネームをつけられる。

この時の契約内容には、スティーヴィーの年齢を考慮したものとして、
「印税収入は彼が21歳になるまで基金に蓄えられる」という条項があり、
それまでは週給として2ドル50セントの支払いであったとされる。

1960年代の好きな曲

Fingertips.Little Stevie Wonder.1964

13歳での1位獲得は現在でも史上最年少の記録である。

Place In The Sun.(陽の当たる場所)1966

名曲だけど、スティーヴィーのオリジナル曲ではありません。(外部の作家による作詞・作曲)

My Chrie Amour.1969

60年代の曲では一番有名な曲だと思います。

1970年

モータウンから自作のプロデュース権を獲得し、音楽出版会社「タウラス・プロダクション」を設立。
自身の新たな音楽を模索していた時、当時開発されたばかりのモーグ・シンセサイザーに感銘を受ける。
以後、スティーヴィーはシンセサイザーを駆使し、ほとんどの楽器を自分で演奏してアルバムを作るスタイルを確立してゆく。

1971年

スティーヴィーも21歳になり、基金としてプールされていた印税収入を自由に使えるようになった。

スティーヴィーは早速モーグシンセを買い込み、マルコム・セシル、ロバート・マーグレフと3人でニューヨークのスタジオにこもって、以降の4枚分のアルバムに収められる事になる数十曲をこの時に一気に作った。

1972年

『心の詩』14thアルバム

このアルバムからの大ヒット曲はないが、スティーヴィーが独自のサウンドを構築し始めた記念碑的作品。

モータウンの様々な制約から解き放たれ、逆にモータウンとは自身に有利な形で再契約。
スティーヴィーは、表現の自由を手に入れた。

Superwoman.

のちに革新的でありながら、大ヒットを連発する名作アルバム群を連続リリース。
その前の実験作的なアルバムからのシングル曲。

もうすでに名曲。

『トーキング・ブック』15thアルバム


Superstition.(迷信)

アルバム『トーキング・ブック』のセッションに参加したジェフ・ベックへ、返礼のためにこの曲を書いたが、スティーヴィーのマネージャーが反対したことにより、スティーヴィー自身が先にレコーディングしてリリース。

Cause We've Ended As Lovers.Jeff Beck.(哀しみの恋人たち)

そのお詫びとして、1975年のジェフ・ベックの『ブロウ・バイ・ブロウ』に「哀しみの恋人達」を提供している。

またこの年は、ローリング・ストーンズの北米ツアーの前座を務めるなど、ロックミュージシャンとの共演が多くなり始めた。

Superstition live on Sesame Street.1973

『迷信』をテレビ番組『セサミ・ストリート』でライブ演奏。

1973年

友人の運転する車に同乗した際に交通事故に遭う。この事故の後遺症で一時味覚と嗅覚を失うが、その後のリハビリで、ほぼ完全回復。
この体験により慈善活動や平和活動に目覚め、後の1980年代には南アフリカのアパルトヘイト政策に反対する歌、公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング牧師を讃える歌を発表する。
日本の全盲の中学生との交流がきっかけで仙台市立加茂中学校を訪問し、歌ったこともある。

『インナーヴィジョンズ』16thアルバム

グラミー賞最優秀アルバム部門・最優秀録音部門受賞。
以後黒人音楽を無視しがちなグラミー賞を3年間総なめにする、圧倒的実力と実績。

Higher Ground.

Living For The City.(汚れた街)

Don't You Worry Bout a Thing.(くよくよするなよ!)

Don't You Worry 'Bout A Thing.Incognito

1992年 インコグニートによるカバー。

このアルバムでは、ほとんどの楽器をスティーヴィーが演奏。
特に「"Living For The City"汚れた街」、「ハイアー・グラウンド」そして、

Jesus Children of America.(神の子供たち)

「"Jesus Children of America"神の子供たち」の3曲は、完全にスティーヴィー1人での多重録音。

1974年

『フルフィリングネス・ファースト・フィナーレ』17thアルバム

グラミー賞の最優秀アルバム賞と、ベスト・ポップ・ボーカル(男性)部門を受賞。

You Haven't Done Nothing.(悪夢)

全米1位を記録。サビのコーラスはジャクソン5が担当。

そしてこれは、政治的背景のある曲です。

1973年3月 ウォーターゲート事件発生。

He's Misstra Know it All.(いつわり)

この『He's Misstra Know it All(いつわり)』は、リチャード・ニクソン大統領へ当てつけた曲と言われる。(ニクソンはウォーターゲート事件の中心人物)

『悪夢』はさらにニクソン大統領を鋭く批判する曲。
You Haven't Done Nothing.(直訳『お前は何もやってない』)

1974年8月9日 ニクソン大統領辞任。

Creepin'

シングルではないけど、個人的に好きな曲。

It Ain't No Use.(愛あるうちにさよならを)

こちらも個人的に好きな曲。

1975年2月のグラミー賞授賞式では、最優秀アルバム賞受賞後のスピーチで、この賞を、前年に亡くなったデューク・エリントンに捧げると発言した。

1976年

『キー・オブ・ライフ』18thアルバム

アナログ盤2枚組+4曲入りEPでリリース。

1976年10月後半から1977年1月前半まで1位を13週連続独走し、一度はイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』に首位を明け渡すものの、その後再び首位に返り咲くほどの大ヒット。
グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤー他4部門を受賞。

EPも含めて全21曲収録。

I Wish.(回想)

Wild Wild West.Will Smith ft.Dru Hill.Kool Mo Dee.

ウィル・スミスの1999年のヒット曲「ワイルド・ワイルド・ウエスト」では「回想」がサンプリングされている。
そして『Wild Wild West』のPVにもスティーヴィーが出演。

Sir Duke.(愛するデューク)

この曲は、1974年に亡くなった伝説的ジャズマンであるデューク・エリントンへのトリビュート曲である。
歌詞にはカウント・ベイシー、グレン・ミラー、ルイ・アームストロング、エラ・フィッツジェラルドといったジャズマン達が登場する。
ギターは後にグラミー賞を受賞するマイケル・センベロ。
アルトサックスを演奏しているハンク・レッドは、質屋に入れていた愛器を80ドルで出してアルバムのセッションに臨んだ。

As.(永遠の誓い)

ハービー・ハンコックがキーボードで参加。

As.George Michael,Mary J.Blige.

ジョージ・マイケルもカバー。

Another Star.

ジョージ・ベンソンがギターで参加。

Isn't She Lovely.(可愛いアイシャ)

スティーヴィー自身の娘である『アイシャ』の誕生祝いとして書いた曲。シングル・カットはされなかったが人気曲の一つ。(シングルではないのに、超有名曲)

Isn't She Lovely.Sonny Rollins

ソニー・ロリンズ『イージー・リヴィング』でカバー。

Isn't She Lovely.David Sanborn

デイヴィッド・サンボーン『タイムアゲイン』でカバーされた。(探せば他にもカバーはあるはず)

Pastime Paradise.(楽園の彼方へ)

この曲は1995年に、

Gangsta's Paradise.Coolio feat.L.V.

『楽園の彼方へ』をサンプリングした曲。というかほぼ同じ曲。
そして大ヒットを記録。

Gangsta's Paradise.Coolio ft.L.V.& Stevie Wonder.Live.Billboard Award 1995

クーリオとビルボード・ミュージック・アワードで共演。

ラップ/ヒップホップの『サンプリング』と言う、音楽使用権に関わる難しい問題(しょっちゅうトラブルになっている)にもめちゃめちゃ寛容。

1978年

Pops,We Love You.Marvin Gaye,Diana Ross,Stevie Wonder,Smokey Robinson.

モータウンの創立者ベリー・ゴーディの『父親』ベリー・ゴーディー1世が亡くなり、その父親に捧げる曲としてリリース。タイトルにある"Pops"はベリー・ゴーディー1世のニックネーム。

当時のモータウンお抱えの作詞家、作曲家が作成。

モータウンのスターシンガー4人ダイアナ・ロス、マーヴィン・ゲイ、スモーキー・ロビンソン、スティーヴィー・ワンダーがメドレー形式でデュエット。

軽快な普通のポップス曲で気軽に聴ける良曲。しかしヒットはしなかった。

こうしたモータウンの『企画シングル』にも、気軽に参加。

1970年代の音楽への影響力という点では、スティーヴィー・ワンダーがダントツ一番。
ロック・ミュージシャンたちもスティーヴィーの曲を聴き込んでいた。
何より、一般的な人気がすごかった。

思ったより長くなってしまったので、ここで一区切り。

スティーヴィー・ワンダーの1980年代以降の音楽活動歴は、また次回に投稿します。

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