第2章 ホンモロコは何を繋ぐのか?ー時空編
1.はじめに
おはようございます。こんにちは。こんばんは。IWAOです。今回は、前回の続き、ホンモロコについてです。前回は、ホンモロコの分類、タモロコとの系統、進化の過程、棲み分けなどについて記述しました。ここでは,ホンモロコの生態、人の利用について記述していきます。
2.構成
今回のテーマは、ホンモロコの「生態」と「歴史」です。3〜5章でホンモロコの生態について書いていきます。3〜4章が、ホンモロコの生態になり、5章がホンモロコと他の生物との関係性です。5章まででホンモロコが琵琶湖の生態系の中でどのような位置付けがされるのかが分かる構成となっています。7章以降がホンモロコの歴史で、こちらは、「人間とどのような関係性をつくってきたのか?」ということがテーマです。ただ、琵琶湖の漁業が、どのようにして行われていたのかの解説をしたら、ホンモロコの利用がイメージしやすくなると思ったため、ホンモロコの歴史の前に琵琶湖の漁業の歴史を紹介します。この時空編では、ホンモロコの生物としての一面だけでなく、ホンモロコがどのようにして人に利用されていたのかを紹介していきます。よろしくお願いします。
*歴史史料も使用しますが、史料のモロコが、ホンモロコと同じであるとは限りません。ここでは、ホンモロコの可能性がある、含むという意味で使用させていただきます。
*魚のイラストは、うぱさんによって提供してもらいました。
3.ホンモロコとエコトーンー琵琶湖と内湖
まず、ホンモロコの生活環について解説します。ホンモロコは、琵琶湖とその周辺河川に棲息しています。主に琵琶湖の水面近くを遊泳しており、秋から冬に琵琶湖の深層部へ潜って越冬し、春から夏の3~7月に産卵のために琵琶湖の内湖へと遡上し、水面近くの抽水植物に産卵します。琵琶湖とその周辺水系を隈なく利用していることが分かります。
ホンモロコの生態で一番注目されるのは、「産卵」になり、「産卵」をテーマにホンモロコはどのような生態をしているのかを見てみると、ホンモロコが、テーマを変えて多くの物を「繋ぐ」存在であることが分かります。
ホンモロコの産卵のキーワードは、「内湖」という場所と「季節」という時期の2つです。ホンモロコを含めた多くのコイ科は「春~夏」の時期に産卵します。産卵場は、春~夏の時期に一時的に水位が上昇する移行帯である「エコトーン」です。そして、そのエコトーンには、ヨシやヤナギのような抽水植物が茂っており、内湖の多くがそのような環境を創出しています。
では、ホンモロコを含めたコイ科魚類は何故、春~夏にエコトーンで産卵するのでしょうか?その理由は、「稚魚の育成」に最高だからです。春~夏は、梅雨を含め、雨が多く降る時期になり、水位が上昇しエコトーンができます。エコトーンは、水位が低く、抽水植物が茂っているため、「エサ」と「隠れ場」の2つが稚魚に提供されます。隠れ家は、抽水植物が茂ることで、その中に隠れれば、天敵から見つかりにくくなります。エサの場合、水位が浅いために日光が当たれば底にまで届き、植物プランクトンが大繁殖し、それをエサとする動物プランクトンも繁殖しやすくなります。そして、それらを食べるのが、ホンモロコの稚魚たちになります。エコトーンとは、天敵から身を守ることができ、エサが大量にあるため、コイ科魚類にとっては天国のような場所になります。
そして、内湖は、ホンモロコ達にとっても良い環境になります。その内湖が、琵琶湖ほど広くも深くもなくともエコトーンを提供し、浅くてそこそこの広さのある湖だからです。また、ホンモロコの産卵や活動についても研究は多いです。次の章から何が分かっているのかを紹介していきます。
4.ホンモロコの産卵と繁殖戦略
ホンモロコは、先程の説明で、内湖で産卵すると説明しましたが、内湖の抽水植物以外にも産卵することが分かっています。それは、内湖へと流入する「河川」です。亀甲氏らによる調査で、西の湖の流入河川である山本川と蛇砂川では、「砂礫」に大量の産着卵が確認されています。ここで、注目されるのは、調査区間内で抽水植物植物があるにもかかわらず「砂礫」に産卵しているということです。(*蛇砂川では、抽水植物に産着卵が確認されています。)
ホンモロコは、何故、砂礫に産卵したのでしょうか?この理由は、「水温」がトリガーになっていると言われてます。ホンモロコは水温が10.5℃になると産卵するとの報告があり、流入河川では、その水温に達したために産卵したのではないかと考えられています。水温が高いと卵の発生が早く進み、その分、成長も早まるためです。
別の調査では、琵琶湖北東部の流入河川である益田川、ここでは、「改修済み」河川であるにもかかわらずホンモロコの産卵が確認されているということです。この丁野木川で、卵や稚魚を採取しDNAの種判別にてフナ属が中心となりつつもホンモロコが、2番目に多く(14.4%)と確認されました。ホンモロコがどこで産卵されたのかの基質を調べた所、60%がヤナギ属の根から採取されました。丁野木川の支流である益田川においても同様の調査を実施した際、同様の結果になりました。この益田川の場合の注目すべきポイントは、コンクリートや鉄矢板で人工護岸は施されていたという点で、ホンモロコの生態を考えれば、この状態では産卵できないのではないかと思われます。しかし、水路の近くには、蔓植物やヤナギの樹木があり、それらを代用しました。蔓が、水中や水面に伸びるもの、護岸の隙間や破損部から木の根(➡︎河畔木)が水中や水面にまで伸びており、それらを産卵基質として利用しているからです。採卵された卵全体のうち、60%(n=351)は、ヤナギ属またはクワ属の河畔木から見つかっており、ホンモロコの場合は、ヤナギ属の河畔木から見つかっています。
先ほどの砂礫での産卵も合わせて考えた場合、ホンモロコは、植物を基本としつつもそれ以外のものも産卵のために使用しており、非常に応用性が高い産卵をしているのではないかと思われます。
ホンモロコの生態、特に、産卵に関しては京都大学を中心とした研究機関から大変注目される発見がありました。それは、産まれた所へ帰ってくること、つまり、「回帰」を行うということです。
西の湖に隣接する水田で1ヶ月育てた稚魚を内湖に流下しました。(*稚魚には耳石に特殊な色素を入れて標識しています。)6〜8月では内湖、10〜11月は琵琶湖沿岸、翌1〜2月には放流された場所から平均20km離れ、水深30〜90mの沖合で、そして、翌3〜6月で琵琶湖沿岸部や他の内湖では、流下した稚魚はほとんどが見つからず、流下した内湖でその多くが採取されました。そして、雌雄ともに「全ての個体が成熟」していたことが確認されました。この調査結果は、ホンモロコは産卵場である内湖から琵琶湖沿岸、沖合の深場、そして産まれた内湖へと回帰することを示す結果になります。この回帰の注目される所は、サケ・マス科のような回帰が、「コイ科でも」行われることを初めて示したということです。
別の調査(*2013年実施)でも、ホンモロコでも同様の実験を行い、耳石に標識のある個体が回帰を行うのかが確認されています。それに加え、ニゴロブナの場合、耳石のストロンチウム同位体比(*場所によって値が違い、水などを摂取することで、体に蓄積される)を調べた所、耳石の中央部は出生の水田い近い値を出し、回帰していることが示唆される結果になりました。ホンモロコに限らず、産卵場に回帰する生き物がいること示唆されます。
5.ホンモロコの生態系の位置付けー物質を繋ぐ
ホンモロコは、内湖を中心とした沿岸部で産卵します。その沿岸部に来る彼らの生態をから、ホンモロコを利用する生物がいます。つまり、ホンモロコには天敵がいるということです。
ホンモロコは、最大でも10㎝の魚であり、特段大きいというわけではないため、ホンモロコを利用する生物は、多くいます。ホンモロコの仔稚魚の捕食を調べた実験では、水槽に、コイ、ニゴロブナ、(*共に未成魚)、ホンモロコ、ブルーギル、ビワヒガイ、トウカイヨシノボリの6種でホンモロコの仔稚魚と共に入れた所、全てで捕食が確認されました。つまり、ここの6種は、ホンモロコの天敵になるということです。ビワヒガイとブルーギルでは、昼と夜での捕食数が有意に違うなどと「いつ」食べるのかという捕食行動の違いも明らかになるなどと各生き物で行動に差があり、面白い調査結果になりました。
この調査の中で、1番注目してほしい結果があります。「ホンモロコ」による「ホンモロコ」の捕食です。つまり、共食いが行われているということになります。ホンモロコは、サケ、マス、ウナギのように産卵は1回限りではなく、産卵期間全体で、産卵する時と産卵しない時があり、産卵する時期に複数回産卵を行うというパターンを持っています。つまり、産卵をしない時は、体を休めており、その時にホンモロコは仔稚魚が発生する産卵期で利用しているということです。(*ホンモロコは、ブルーギルの稚魚を捕食することが確認されています。)
ホンモロコを利用する生物は、魚のような水生生物に限らないことも分かっています。その生物は、ハシブトガラスです。ホンモロコは、水位とほぼ同じくらいの所で産卵し、その勢いにのってホンモロコが、陸上に乗り上がるほど勢いが強いものになります。そのホンモロコをカラスが咥えている所が見つかりました。実際、ホンモロコの産卵場所に行く所が目撃されています。そもそもカラスは、水鳥ではないため、ホンモロコを利用するという行動が非常に注目されます。このことから、ホンモロコは、陸上の生き物に対しても捕食の対象と見られていることから、エサ生物として利用され、陸上の生態系にも物質や栄養を供給する存在であるということが言えるのではないでしょうか。
6.琵琶湖の漁業とはどのようなものか?
ここからは、人との関係性、特に「歴史」をテーマにします。琵琶湖では、人が現れてから魚は利用されており、その中心は「漁業」になります。琵琶湖で漁が行われていたのが実際に確認されるようになるのは、縄文時代からになり、その代表格は粟津湖底遺跡で、ここから魚骨が出土します。縄文時代以降から、継続的に漁は行われており、それは、歴史史料や考古資料から読み取ることができます。琵琶湖での漁業の歴史を通して、よく利用されている魚は、コイ、フナ、アユがその代表格として挙げられます。特にコイやフナは、縄文時代から主要な魚類として利用され続けており、下の図のように粟津湖底遺跡で出土した生物を個体数からカロリー換算して熱量を求めた場合、魚類が陸上経由で得る熱量を上回ることが分かります。琵琶湖とその周辺環境では、水産資源がいかに重要なのかが分かります。
琵琶湖の魚の中でも一番利用され、ブランド品としても価値が高いものとされたのが、「フナ」になり、歴史史料でも琵琶湖のフナの価値を特別なものと称しており、『延喜式』の中でも登場します。
7.ホンモロコ史ー時間を結ぶ
では、人とホンモロコの歴史とはどのようなものになっていたのでしょうか。まず、ホンモロコが最初に確認されたのは、考古資料で粟津湖底遺跡(*縄文時代中期)から咽頭歯が1点見つかっており、他にもモロコ類と推定される咽頭歯が数点出土しています。縄文時代の漁は、産卵のために浅場にやってきて、抽水植物に産卵するコイ科の魚たちの生態を利用する形で行われていたと考えられています。コイやフナの体長を咽頭歯から復元した場合、ある程度の大きさに山ができ、稚魚サイズにあたるものは、あまり見つかっていません。よって、大型の個体を選択的に食していたのではないかと考えられ、ホンモロコも同じような漁と利用がなされたと考えられます。また、歴史史料として最初に確認されるのは、鎌倉時代の『名語記』からです。
歴史史料においてもホンモロコのことを指す記述があり、そこから当時の日本人に認知されていたことがわかります。モロコというものを分類した史料では、石モロコ、須呉毛呂古(*スゴモロコ)、田モロコなどとあります。確かに、これらは外見的な見た目は同じに見えます。しかし、系統的に見た場合、モツゴとスゴモロコは属レベルで違います。西洋の生物学が日本で本格的に普及する前に、どのように生き物が、見られて分けられていたのかがわかる記述です。
ホンモロコについて詳細に記述された史料の代表格が、人見必大によって編纂された『本朝通鑑』と寺島良安によって編纂された『和漢三才図絵』の2作になります。これらは、江戸時代の一般人向けの百科事典になります。
「江州」や「坂本」、「粟津」などといった地名があることから、モロコというと滋賀の魚というイメージがあるほど、有名な魚だったのではないかと考えられます。『本朝通鑑』には、朽木氏(*)がモロコを献上しているとの記述があります。これは、時の権力(*編纂された時代から江戸幕府か?)に対してホンモロコが、上納される対象であることを示しており、権力との関係を繋ぐための需要な産物であったと思えます。
朽木氏とは?(*この一族であるかは、まだ未確定です。)
宇多源氏の流れをくむ近江の豪族。佐々木信綱が承久の乱の功によって近江国高島郡朽木荘の地頭職を与えられた後、その曾孫義綱がここを領して朽木氏を称するようになった。
ホンモロコの1番の利用法は、「食用」です。先ほどの歴史史料でもあるように、食べて利用すること、その味が非常にいいことが記述され、ホンモロコの美味しさを昔から味わっていたことが示唆されます。特に、江戸時代に藤居重啓によって制作された初めての琵琶湖の生物図鑑ともいうべき『湖中産物図証』では、ホンモロコとはどのような生物かの形態の特徴について詳細な記述があるだけででなく、挿絵も付いています。そして、『湖魚考』という史料においてもホンモロコの説明があり、そちらの文献も共通して「味がいい」「おいしい」ということの説明は抜けていません。また、江戸時代の初期に編纂された『料理物語』という史料でもモロコの料理法について「汁。鮓。なます」のみでも記述があります。
『和漢三才図絵』で市場で売られていること、『湖中産物図証』では京の雛祭りで出されること、そして、『本朝通鑑』で時の権力に献上されていることを考えれば、ホンモロコは当時の身分に関係なく多くの人に利用されていたことが示されると思います。
琵琶湖での漁業も時代が現代に近づくにつれ、道具やその手法がより進化して細分化されます。江戸時代の漁具の中には、モロコが巻頭につくものもあり、モロコを獲るのに特化したものが開発されたのではないかと考えることも考えれます。江戸時代の堅田の漁民が、モロコを獲っており、どのような漁具を使用して獲っていたのかの史料が残されています。なお、堅田の漁民は、江戸幕府から「湖上一円」での操業を認められており、琵琶湖全体での漁業活動が幕府によってお墨付きを得ていた非常に強い漁民だということです。
また、琵琶湖の伝統的な漁法というとヤナが代表格に挙げられます。そのヤナでもホンモロコが実際に獲られているのが、確認されています。マーシーさんがその様子をあげており、8:00あたりで解説されてます。この様子だと、長い年月を通してヤナでホンモロコを獲っていたのは、自然なことではないでしょうか。
8.文化を作るホンモロコ
ホンモロコが、食用としての利用価値が高い生き物であることは、ここまでの記述で分かる内容ですが、食用とまた別の面でも注目される利用法があり、それはナレズシになります。つまり、飯や塩などで発酵させるものです。滋賀県は、日本全国で見た場合でもナレズシの利用が多く、その魚種も多いです。ナレズシというとフナですが、モロコも当然利用されています。ナレズシの事例を研究した柏尾氏の調査では、フナが109件と最多だったが、モロコは16件と6番目の多さだったことが分かっています。
もろこのナレズシ、モロコズシについても歴史史料に記載があります。まずは『康正三年記』が挙げられます。この山科家の権力の立ち位置から考えた場合、天皇などにホンモロコが食されていたのではないかと思われます。また、澁谷氏の研究でも『名飯部類』という江戸時代に編纂された料理本で、モロコズシの記述があり、そこでは、作り方が書かれています。
*『康正三年記』とは?
山科家の諸日記で、山科家は藤原北家の末裔である四条家の庶流で、藤原実教の養子教成が祖とされている家系から発生した。この山科家は、代々内蔵頭を世襲し、天皇へ衣服を提供した御服所、天皇の朝夕の御膳を共進し、節会などの酒肴などを出す御厨子所を支配していた。
モロコのすしが、滋賀県ではどのように分布しているのかを現在ある資料で調査をしたところ、琵琶湖を中心に全域に展開しているものの産卵も多い南湖に偏りがあることが確認されています。モロコの場合、塩漬け、飯漬けのどちらでも作られ、発酵期間を含め、いつ作るのかという時期も幅広いです。塩漬けの場合、春~秋に作られ、発酵期間が1~5日のもの、3カ月以上のもの、飯漬けの場合、春~夏、冬で1~10日から6か月以上のものと短くも長く発酵させて作られていることが分かります。
そもそもナレズシは、何のために作られ、食されるのでしょうか?主にハレの日で、正月や年越し、その他祭りの日が中心となります。(*日常生活の場で食べられることもあるそうです。)滋賀県でも、ハレの日で利用されることは共通しているものの「春祭り」でよく食べられる所は、全国のナレズシの中でも違う点になります。これは、モロコズシでも共通しており、守山、野洲の若宮神社、堅田では春祭りで食されることがあります。その上、栗東市の菌神社では雑魚ズシのが捧げられ、その中にモロコが含まれていることが確認されています。
モロコの利用は、祭りのナレズシだけではなく、その利用のあり方は、多くあります。草津市の下寺町で毎年4月9日に開かれる小祭りでは、直会で焼きモロコが提供されることが、守山市杉江町の小津神社では毎年5月15日に開かれる祭りで、モロコのナレズシと焼きモロコが、神饌として供えられます。
スシと祭りの関係から、ホンモロコがただの食の対象で見られていたわけではないことがありますハレの日や祭りでの供食ということも考えれば、地域の信仰に土着しており、民俗的に決してきれない存在、構成員であると言えます。
ホンモロコは、祭り以外での利用も当然あり、それは、「和歌」「俳句」になります。実際にモロコを読んだ歌もあり、文学史において有名な正岡子規、高浜虚子などが歌を残しています。モロコ(諸子)は季語となり、春を指しているそうです。ここで紹介した歌は、釣りが中心となっており、季語であることも考えた場合、春に遡上してきたモロコを釣りで楽しむ様子が読み取れるのではないでしょうか。
現代でもホンモロコは利用されているのですが、そのあり方は変わってきています、まずは「養殖」になりますが、原産地である滋賀県以外でも幅広く行われています。埼玉県、鳥取県が先行しており、関東地方での生産が多いと言われています。ホンモロコの利用で注目されるのは、養殖だけではありません。それは、「大嘗祭」になります。2019年に生前退位が行われ、現在の天皇へ都道府県の特産物を納める行事がおこなわれ、その中にホンモロコがありました。
ここまでの記述では、ホンモロコの扱いについて、スシ、歌、祭り、養殖などと幅広く扱いました。然分布域である滋賀県だけでないことから、ホンモロコが、広い言葉で日本の「文化」を構成す重要な存在であるといえるのではないでしょうか。
9.まとめ
今回は、ホンモロコの生物的な面だけでなく「歴史」や「文化」の面にも注目した内容になります。
「生態」という面で考えた時に注目するのが、「回遊」と「天敵」です。「回遊」では、琵琶湖とその周辺環境というものをライフステージにあわせて上手く活用していることが分かります。ホンモロコが琵琶湖と川、内湖を利用することから、それらはただ存在しているだけでなく、有機的に繋がり、様々な環境を提供する場であることが分かります。私は、冬に琵琶湖の底で越冬し、産卵の時に遡上する生態から、地上の物質を琵琶湖の底へまたは琵琶湖の底にある物質を上へと送る役割もあったのではないかと考えています。「天敵」では、ホンモロコというのは、上位の存在、烏のような地上からの天敵が狙いつつも、ピラミッドの位置で見た場合、プランクトンなどを食べており、食べられ、食べる側であり、生態系ピラミッドの位置では中間的な存在であり、物質を繋いでます。琵琶湖と河川、内湖という地理を生態系ピラミッドでは物質を繋ぎ、これらのことから、ホンモロコは「空間」を繋ぐ存在であると言えます。
ホンモロコは、人間においても大切な存在で、古くは縄文時代から現代にまで繋がっています。一番の利用は食ですが、食べるだけではないことも分かります。特にスシの場合、食って満足するだけでなく、地域の文化や民俗を構成する存在になっていることが明らかになったはずです。人が生きる糧だけでなく、人間社会においても利用され続け「時間」上でのつながりを示すものでもあります。
生態系で利用のされ方や琵琶湖水系の利用は「空間」でのつながり、人との歴史・文化の利用は「時間」でのつながりを示しており、ホンモロコは、「空間」と「時間」の2者を広く深く、長く結びつける存在になっていると思います。皆さんには、何を繋ぐ生物として見えましたか?
次回は、ホンモロコの置かれている現実についてです。現在、ホンモロコの置かれている状況というのは、決していいものとはいえません。それは、ホンモロコが危ないということになりますが、同時にホンモロコそのものが危ない状況を作っています。何故、こういうことになったのか、それを考えていきましょう。
*おまけー博物館資料を守る意義とは?
今回のブログを書いている時に、奈良県立民俗博物館の資料の収蔵に関する知事の発言が物議を醸しました。収蔵スペースがないことを理由に収蔵資料の一部を廃棄する方針という内容です。この発言は、当然世間から非常に強い批判を受けました。博物館は、お宝や珍獣だけを見せ物にする場ではなく、資料を集め、研究・発信する場だからです。その収集したものをなくすというのは、研究する機会そのものを自ら放棄することと同義です。
今回は、ホンモロコの歴史を取り上げ、スシや祭りから民俗的な面も書き、実際の漁具についても調べました。ホンモロコ以外でフナ、コイなどと琵琶湖に生息する魚も利用され、そういう民具の多さは、生き物との関係と歴史の深さを示すはずです。つまり、民具は、地域での生き物の利用のとその歴史を示す証人です。
生物多様性を守る目的の一つに「文化」があります。文化というものは、あるときに突然できるものではなく、歴史が積み重なってできており、生物の利用も同じです。食などの生物による利用や文化を楽しみ、後世に繋いでいくことを考えた時、「どう利用してきたのか?」を調べて知ることが第一歩になります。その時に、残せる資料が残っていないという現実を作っていいのでしょうか?残っているからこそ、研究が始められ、新たな発見につながり、生物との関係がどうあったのか、それを理解し、今後の関係性を模索する一助になるはずです。
今後は生物多様性の保全というものに歴史が深く関わると考えられます。歴史・考古の研究者の中では、生物の利用について研究されてる方も多いです。つまり、生物は生物、歴史は歴史でテーマを超えた研究調査が行われることが予想されます。生物と人の歴史を研究する時、生物利用に一番関わる資料は、利用において最前線で利用された民具が候補になるはずです。そう考えた場合、奈良県知事が「価値がない」と発言したことは、今の尺度でしか見ていないばかりか、今後どのような研究が求められているのかを想像できてない浅い考えだということが、如実に表れたのではないかと言えます。
今回の奈良県の知事の発言を含め、博物館の意義を理解していない所か、ただのお宝展覧会のような場でしかないと勘違いしている政治家が、文化財行政に関わることに非常に危機感を抱きます。博物館資料の意義を新めて考えてほしいとばかりですし、こういう人間を博物館含めた行政に関わらせてはいけないと思います。
10.参考文献・引用資料
*イラストを提供されたうぱさんのリンク先
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