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【七十二候】「桜始めて開く」【第十一候】

遅れながらの桜シーズン到来!!


桜の開花の遅れが全国的に言われている中で、

今年初めての桜はたまたま立ち寄った京都御所でした!!

(案の定、外国人観光客でいっぱいでした!^^;)


そこからしばらく経ち、昨日になっても滋賀でお花見をしました🎶

ここは知る人ぞ知る滋賀の「船遊び」スポット!

何度見ても味わいが尽きないような、

色々な顔を見せてくれるのが「桜」ですよね!!^ ^

「桜始めて咲く」(さくらはじめてさく)


さて、二十四節気「春分」の【次候】に当たります。

(【初候】は「雀始めて巣くう」でした。)


例によって書籍から引用させていただきます。m(_ _)m

その春に初めて桜の花が咲くころ。
古来、人は桜を愛で、数々の歌を詠んできました
(新暦では、およそ三月二十五日〜二十九日ごろ)

『日本の七十二候を楽しむー旧暦のある暮らしー』より

候の名前は、読んで字の如くで分かりますね。


日本人がずっと桜を愛でてきたことは、

歴史を貫いて数々詠まれてきた和歌から読み取ることができます!(^ ^)

「山桜」と「ソメイヨシノ」の違い


続けて、同じ書籍からの引用をさせていただきます。m(_ _)m

山桜と染井吉野
いまやお花見の桜といえば、染井吉野がほとんどですが、実は比較的新しい品種で江戸時代につくられたものそれ以前は桜といえば、山あいにほんのりと咲く山桜のことでした。花は一重で、紅を帯びています。吉野山の山桜がつとに有名で、歌に多く詠まれています。

同上 続き

この二つの桜の違いについては、

以前にも取り上げた小林秀雄が、複数の書籍において論じています。

そのうちの一つの書籍『学生との対話』から、

本居宣長について論じた一節を以下に引用させていただきます。m(_ _)m

諸君は本居さんのものなどお読みにならないかも知れないが、「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」という歌くらいはご存知でしょう。この有名な歌には、少しもむつかしいところはないようですが、調べるとなかなかむずかしい歌なのです。

小林秀雄『学生との対話』「講義 文学の雑感」より

ここで引用されているのは、本居宣長を代表する歌であり、

靖国神社の遊就館の展示の最初に掲げられていることでも有名です。

(「大和心」については、以前にも大々的に取り上げました!)

その歌で詠まれているのは「染井吉野」ではなく「山桜」についてです。

先ず第一、山桜を諸君ご存知ですか。知らないでしょう。山桜とはどういう趣の桜か知らないで、この歌の味わいは分るはずはないではないか。宣長さんは大変桜が好きだった人で、若い頃から庭に桜を植えていたが、「死んだら自分の墓には山桜を植えてくれ」と遺言を書いています。その山桜も一流のやつを植えてくれと言って、遺言状には山桜の絵まで描いています。花が咲いて、赤い葉が出ています。

同上 続き

本居宣長は、とにかく桜が好きだった。

そして、そこでいう桜とは山桜のことだった。

山桜というものは、必ず花と葉が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです。今日の日本の桜の八十パーセントは染井吉野だそうです。これは明治になってから広まった桜の新種なので、なぜああいう種類がはやったかというと、最も植木屋が結託して植えたようなもので、だから小学校の校庭にはどこにも桜がありますが、まあ、あれは文部省と植木屋が結託して植えたようなもので、だから小学校の生徒はみなああいう俗悪な花が桜だと教えられて了うわけだ。宣長さんが「山桜花」と言ったって分らないわけです。

同上 続き

「俗悪」「低級」とはなかなか辛辣なご指摘のようにも思えますね。^^;


これは最晩年に『本居宣長』という大著を書き上げた小林秀雄が、

宣長の真意に迫ろうとして導き出した結論として受け止めるべきでしょう。

(宣長は「漢意(からごころ)」批判を鋭く行っていたのでも有名です。)


また、『考えるヒント』という書籍には次のように書いてあります。

しき嶋の やまとこころを 人とはば 朝日ににほふ 山さくら花」の歌も誰も知るものだが、これも宣長の琴歌と思えばよいので、やかましく解釈する事はないと思う。散り際が、桜のように、いさぎよい、雄々しい日本精神、というような考えは、宣長の思想には全く見られない。後世、この歌が、例えば、「敷島の大和心を人問はば、元(げん)の使(つかい)を斬りし時宗」などという歌と同類に扱われるに至った事は、宣長にしてみれば、迷惑な話であろう。だが、この歌が日本主義の歌でないとしたら、どういう事になるか。不得要領な単なる愚歌ではないか。明治の短歌復興にともない、そういう通念が専門歌人を支配するようになった。これはおかしな話であろう。

『考えるヒント』「さくら」より

繰り返し、武士道精神的な意図は宣長にはなかったことを指摘しています。


「荒魂」(あらみたま)と「和魂」(にぎみたま)の違い


ただもちろん、桜の散り際が美しいのは一般に認められてきたことです。

小林秀雄と対談した数学者の岡潔もこのように述べています。

私は今の自分をどちらかといえば真我的な人だと思っている。私は死ねばそれきりなどと思っていない。私は日本的情緒の中から生まれてきてその通りに行為し、死ねばまたそこへ帰っていくものと思っている。私はまた日本民族の将来が心配でしようがない。身辺のことよりもよほど心配になる。この二つが備わっているからどうにか真我的な人といえると思うのである。
それで私はどう教育されたかをいおう。
私は祖父に、ただ一つの戒律を守らされた。
「自分を後にして、ひとを先にせよ」。自分で守るように仕向けられたのである。ただ一つであるが厳格であった。それが私の小学校へはいる二年前から中学四年のとき祖父が死ぬまで続いた。
私はまた父から「日本人が桜が好きなのは、散りぎわが潔いからだ」と教えられた。そして日本歴史からとって実例をいろいろ話してもらった。

岡潔『一葉舟』「人という不思議な生物」より


さらに、「武士道精神」を表す象徴としての意義も無視できません。

昔より花は桜木、人は武士といふ。
我が国に咲き誇る花は、色とりどりに、美(うる)わしい中で、桜を以て花の中の花とし、日本精神は各方面に様々に見事に発揮される中に、武士道を以てその精華とするのである。
何故に桜を以て花の中の花とたたえるか。
それは時到り風吹けば、何の未練も少しの猶予もなく、潔く散りゆく美わしさを喜ぶのである。
何故に武士を以て日本人の尤も日本人なるものとするか。
それは時艱難に遭遇して君国の大事に及ぶや、何等かえりみるところなくして、一途に命を致すからである。この義烈の気象を喚び起す事なくしては、日本精神を説いて千言万語を費すも、畢竟(ひっきょう)無用の戯論に過ぎぬ。

平泉澄『武士道の復活』より ※旧漢字旧仮名遣いは改めました。


「日本精神」と言って一言ではとても尽くせない内容を含みますが、

「大和魂」紫式部が言った当時の平安の雅(みやび)の気風も、

時代が乱世に降って「武士道」が磨かれていったことも、

両方ともが「荒魂」と「和魂」として言及されるべきなのでしょう。


それぞれが「男性性」と「女性性」として、

性別を問わず各個人の中にも認められることと同じように思います。


「桜」「花」を詠んだ和歌の数々


さて、例によって『古今和歌集』より何首か引用致します。m(_ _)m

渚の院にて桜を見てよめる
世の中にたえてさくらのなかりせば 春の心はのどけからまし    在原業平朝臣

『古今和歌集』巻第一 春歌上 53番

※「渚の院」…河内国の交野の郡にあった文徳天皇の離宮。後に惟喬親王領となる。⇨伊勢物語八二段。


「桜の花はいつ咲き始めるのか?」

「満開はいつ頃か?」

「雨が降ったら散ってしまわないだろうか?」

「いつまで見続けることができるだろうか?」

なんて考えてたら、ずっとそわそわしてしまいますよね。笑

桜のことばかり考えてしまい、

春の長閑(のどか)さから遠ざかってしまうという正直な気持ちです。


花ざかりに京を見やりてよめる
見わたせば 柳桜をこきまぜて 宮こぞ春の錦なりける   素性法師 

『古今和歌集』巻第一 春歌上 56番

※錦といえば秋の紅葉を人は思うが、春の錦もあったのだった、という発見の歌。


ワッと風景が目に飛び込んでくるような勢いのある歌ですね!!(^ ^)


桜の花のもとにて、年の老いぬる事を嘆きてよめる
色も香もおなじ昔にさくらめど 年ふる人ぞあらたまりける    紀友則

『古今和歌集』 巻第一 春歌上 57番

※第三句に「桜」が物名(もののな)式に入れてある。


桜の花の色も香りも昔も今も変わらないけど、

人は歳をとれば見た目が変わっていくものだ。


ここからさらに思うのは、


歳を取るごとに、桜に対する思い=受け取り方も変わっていくはずだ!


ということです。


だからこそ、長いようで短い人生を謳歌(おうか)するためにも、

桜花(さくらばな・おうか)を毎年しっかり味わっておきたいですね〜♪(^O^)


掛詞(かけことば)、伝わりましたかね?笑

お後がよろしいようで!!m(_ _)m


今回は「桜」が話題とだけあり、書くことが多過ぎました。。。(^◇^;)

引き続き「散りぎわの美しさ」まで、しっかりと見届けて参ります!!

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