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★自己啓発★ポエム★

いちど歩いたところを再び歩き、再び歩いたところを三度歩き四度あるき、いちども歩いていないところもたまに歩き、疲れたら眠り、眠ったら起き、起きたらいちど歩いたところを二度も三度も何度も歩き、雨の中にも歩き、風の中にも歩き、おやつを食べ、おやつの紙くずはゴミ箱に捨て、捨てたら身が軽くなり、どこまでも歩けるようになる。しかし歩けないところは歩けない。重力の井戸の底でおやつを食べ散らかしているようだ。まるで、重力だ。いちど歩いたところを再び歩くとき、よく見直すことで新たな発見があることもあり、あらざることもあり、あるように見えてあらざることも多々あり、あるように見えてやっぱりあることも往々にしてあり、疲れたら眠り、眠ったら起き、二度三度眠り、腹が減りおやつを食す。食したおやつの紙くずをゴミ箱に捨て、捨てれば空となり、空は無窮となり、いちども歩いたことのないところもたまに歩くようになれば、無窮はやがて有限となる。歩けば歩くほど、いちど歩いたところを二度三度、四度と歩き、おやつを食べ、再び歩き始めたとき、よく見直すことで新たな発見がある。疲れたら眠り、眠ったら起き、起きたら歩く。歩いたところを歩く。重量のある身体を背負って、歩くとき、どこまでもは歩けないことを知る。しかし歩けないところはもとより歩けない。歩けるところのみ、歩ける。歩けるところは、二度三度歩けるし、そのたびに新しい発見があるときもあるし、ないときもある。自分がどこまでも歩けると思っているのは自分の可能性を無窮のものと思っているからだ。それはまちがいだ。可能性は有限のものとなる。見えざることが多々あるのだ。自分のことについては見えないことがある。他人のことはよく見えているのに、自分が見えない。どれだけ歩いても、いや、歩けば歩くほど、見えない。自分を捨てれば空となり、空は安寧をもたらすものたるのか。おやつの紙くずのなかに無窮はあるか。食べ散らかしてもいいのではないか。そしてまた歩けば、それでいいのではないか。自分のことが見えるなんて、まるで仙人のようだ。仙人のようにあることは人間としてはあらざることと思う。仙人のように見えてやっぱり人間である。そういう人間もよくいる。二度三度眠り、自分の姿を見るといい。寝起きのときがいちばん素直に自分を見ることができる。目がさめて、いちばんはじめに心に浮かんだことが、自分の気持ちである。その気持を好意的に受け止める。歩きたいか、歩きたくないか、歩きたいばあいは、二度も三度もなんどでも歩きたいか。そんなに歩きたくないか。寝起きの気分で決めてくれ。

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