【感想】すずめの戸締まり
この世界に、私はたまたま生きている。そこに運命も、理由も、意味もない。私はただ在るだけで、それが特別なことなんて何もない。
昔はそれが怖かった。自我がなかったときのことは思い出せず、ただ見ている景色が私の精一杯だった。それでも、生まれてはじめて「死」に直面したとき、途端に身体が震えた。この景色が終わること、自分が無くなること、どこにいくのか、どうなるのかもわからない"それ"が、私にもいつか待っていることに、自然と涙したのだった。
「私、死んじゃうのかな」
もう寝る準備を終えた母に尋ねたことがある。「死なないよ」と母は答えた。母も死んでしまうのか、と聞いた。
「死なないよ、私も、あなたも」
そんなことを言われて(そこまでかっこつけてはないけど)、抱き締められて眠った。その言葉は嘘だってこと、わかっていた。けれど、それが何だって言うんだろう。その夜をその言葉で乗り越えられた、それだけで十分だ。
・ ・ ・
「すずめの戸締まり」を最初に見たのは、去年の11月頃だった。オール明けのテンションで見て、映画館の隅でボロボロ泣いた。友達に心配された。
絶対に二回目も見に行こう。そう決めてから半年経ってしまった。公開が終わると聞いて、見に行かなきゃいけないと思い、決行。
感想を挙げ始めればきりがないし、どう言えばいいかわからないところもたくさんある。だからたぶん、この作品は私にとってずっと残っていく作品なんだと思う。最初に見たときの感想に書いたみたいに、それはまるで火傷のように、ずっと傷跡は残っていくのだろう。
たまたま生まれた命を使って、私はこの世界を生きている。少しでも崩れてしまえば無くなってしまうことは、もう幼くないからわかっている。だからいつ死んだって変わらないと、言うこともできたはずだ。
いついなくなってしまうかわからないけれど、私たちは常に密かな約束を交わす。「いってらっしゃい」「いってきます」、「ただいま」「おかえりなさい」。そうやって小さな約束を持って外の世界に出ていく。
はじめて映画を見たとき、鈴芽や草太が忘れ去られた土地に残された声を聞くところが印象的で泣いてしまった。どんな場所にも、そこにいた人たちの記憶は残り続ける。そこには幸せな記憶も、悲しい記憶もあるはずで、それに耳を傾けるのが閉じ師の仕事なのだろう。
そして、3.11のあの日、多くの小さな約束が果たされることがなかった。「ただいま」と「おかえり」が言えなかった人がたくさんいる。続いていくはずの日常が、途端になくなってしまった。
災害に関わらず、私たちの周りには理不尽なことが横たわっている。因果応報という言葉があるけれど、災害のような事柄に誰のせいもない。誰のせいでもない理不尽なことに、私たちはただじっと耐えるしかない。
それでも、その理不尽なことに抗えないとしても、生きていくしかない。だから祈る。気持ちを言葉に乗せて、本当にならなくとも願う。
"明日"の鈴芽の言葉は、祈りのようなものだろう。本当になる保証なんてどこにもない。それでも言わずにはいられない。
死ぬのも怖くないと言った鈴芽が唯一怖がったことは、大切な人である草太がいなくなることだった。旅の途中、鈴芽はたくさんの人と出会う。その出会いは小さな約束を作り、鈴芽の背中を押していく。
何かと、または誰かと巡り会うこと、それは決して楽しいことばかりではないけれど、この世界に生きていく上できっと大切なことだ。そしてモノや人は変わっていくけれど、今、そのときにもらった言葉は変わることがない。成長して捉え方が変わることはあるだろう。でも、確かにそのときもらった言葉は、祈りのように心に残り続けるのだ。
・ ・ ・
私の母の言葉も、きっと祈りのようなものだ。
本当じゃないとしても、当時の私には安心できる言葉だった。誰にでも平等に訪れる死を理不尽だと言うのは、たまたま生きているだけの私にはおこがましい意見だろうか。それでも怖いから、それを受け入れるためにあのときの私には必要な言葉だった。
私の存在に、運命も、理由も、意味もない。それでも私は誰かと出会い、言葉をもらう。そして、何もなかったはずの私は、その祈りを受けとるようにして生きていく。そうやって生きた人生にはきっと、意味が生まれ、ここにいる理由ができ、これは運命だったと言えるようになるのかもしれない。
それがわかるまで、ゆっくり歩いていくつもり。道中に素敵な作品と出会えて、本当によかった。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?