樹 恒近

気まぐれ更新。池袋生まれの池袋育ち。読書人間かつ文章人間。見た目は健常者の内部障害で障…

樹 恒近

気まぐれ更新。池袋生まれの池袋育ち。読書人間かつ文章人間。見た目は健常者の内部障害で障害者手帳持ち。ウルトラ級の紆余曲折、経験を栄養にして文章書きしてます。物語こそ人生だ。

マガジン

  • トーストの表裏

    多くを考えずに、ただ書き連ねただけの駄文の極み。 役に立たないことは保証済み。保証書はついてません。

  • 読書記録

    個人的な読後連想の記録

  • 書くことにまつわる様々なこと

  • 断片小説集

    脈絡もなく浮かんだ小説の断片を集めました。ここから何かが始まるのか、このままでいるのかわからない、体裁も整えないままのレアな状態。断片だから研がれもせず、丸められもしないままの何かが現れているように思う。

  • 僕の聴いてきた音楽

    80年代の洋楽を中心に、自分を形作ってきた音楽についてのエッセイ

最近の記事

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最初のうちに書くことについて書いておく

最初に自己紹介を兼ねて「書くことについて」書いておこうと考えました。 猫が後ろ足で頭を搔くのにだって意味は(たぶん)あるのだから、なぜ書くのか、どう書くのかくらいは書いておこうと思います。 書き手がどのような人間なのか、最初にわかれば、読むかどうかを決める助けにもなるだろうし。 書き殴りの雑文や雑記がほぼすべてで、たまに、忘れていたかのように創作物を公開することもあるかもしれません。 基本的に日本語の文章は縦書きで読みたいと思っているので、「小説」と名前のつくものを公開する

    • 誕生日

      七夕の今日は誕生日。 まったく自覚も実感もないが、なんと還暦なのである。 ミック・ジャガーが80歳超えてるのが信じられないのと似たり寄ったりの信じられなさだ。 子供の頃、7月といえばやっていた競泳のシーズン突入直後で、誕生日が特別な1日だったことなんて全然なかった。 お誕生会はもちろん、小学校も高学年になってからは合宿で家におらず、プレゼントをもらった覚えもない(きっと何かしらはもらっていたはずだが)。 そんなわけで年齢がひとつ増えることに妙な感慨があったのは19歳になった

      • 珈琲とコーヒー飲料

        ようやく創作期は終わったようで、このところは読書期に移行しつつある。 創作期の間は小説をまったく受け付けなくなっていたのが嘘のように、ここ1週間で小説を8冊読み終えた。 軽いものが混ざっていたのも確かだけれど(書店の売上に貢献著しい「成天」「成信」もこの1週間で読んだ中に入っている)、軽かろうが重かろうが、本来、楽しんで読めた小説にはどこかしら発見があるものだ。 そして今週読んだ小説から発見したものは打ち捨てられた金山から拾える砂金よりもさらに少なかった。 「新刊書店に行っ

        • 週末の早朝、雨

          昼間の疲れで早々に寝てしまった土曜の夜には、なぜか時間を浪費してしまうような悔しさがある。 昨晩はまったくその見本のような夜だった。 昼間、久しぶりのスポーツ観戦で4万人のうちの一人になり、試合の興奮と熱気にすっかり当てられて、崩れ落ちるようにベッドに入ってしまった。 ベッドサイドの灯がぼんやりと部屋を照らすのを眺めながら、ランプを消すのも忘れてそのまま眠りに落ちた。 そして目が覚めた日曜日の朝、4時20分。 カーテンの向こうから雨音が聞こえて初めて、ランプを消さずに眠ってし

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        最初のうちに書くことについて書いておく

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          京都で考えた

          吉田篤弘さんの『京都で考えた』はことさら好きな一冊で、頻繁に読み返している。 大仰ではなく、軽妙でもなく、頭に浮かんだささやかなことから連想が広がっていく浮遊感が心地いい。 本来あるタイトルは記されないまま、短い文章がアスタリスクのみで区切られ、綴られていく。タイトルを隠したことが文章に余白を生んだようにも思える。一人の読者である僕は生まれた余白の間をふわふわと漂うような気分になる。 大きな病気をしたせいもあるのだろうが、年齢とともに体力の衰えは顕著で、集中が続く時間は年々

          京都で考えた

          そして絵画期へ

          工作期が一段落して、さて次はようやく文章期かと思っていたら、絵画期がやってきてしまった。 絵画といってもイーゼルを立てて、筆を握ってキャンバスに向き合うような類ではなく、手を出してしまったのは版画。 木版画は昔から遊び半分で時々彫刻刀を握ることもあったのだけれど、今回は銅版画の応用のようなシロモノだ。 銅版画などと書くと、どこか本格的で、何やら本気モードみたいに見えてしまうが、全然そんなことはない。どこまでも趣味で、遊びの範囲から一歩も出ることはない。趣味の道具に金を注ぎ込

          そして絵画期へ

          【全部嘘日記】 2024.4.30.

           連休の狭間と油断をしていたら月末なのであった。  支払いを済ませなければとスケジュール帳のメモを見ているのにもかかわらず、意識が月末とまったく紐付けできていない。  おかげで昼休みにのんびりと会社を出て、銀行のATMに着いたときには、数台しかないATMに長い列が出来上がっていた。  それでも今日はいくらかツキがあったようで、キャッシュを引き出すまでにはそれほどは待たずに済んだ。  これが商店がひしめく地元だったら、月末の支払いに奔走する店主やらおかみさんやらがATMを占拠

          【全部嘘日記】 2024.4.30.

          【全部嘘日記】 2024.4.29.

          ゴールデンウィーク前半の三連休最後の日。 昭和天皇の誕生日で昭和の日。 自分ではそれほど長い時間が経ったようには感じなくて、40年前の事ですら4〜5年前の出来事のように思えるのだけれど、それはきっと精神年齢が実年齢の1/3ほどしかないせいなのかもしれない。 「勝手に時間ばっかり流れていきやがって」と悪態の一つも付きたくなる。 何かしらテーマを掲げて書くことに飽きてしまって、単なる雑文ですら書く気が失せてしまった。 となればただの日記を書くことが最も簡単で、最も意味があること

          【全部嘘日記】 2024.4.29.

          結局、周りの目は気になるもの

          先日作った文庫本を解体、再利用したメモパッドを見た友達から、自分も作って欲しいと頼まれてしまった。 自分一人で使うメモの量などたかがしれているし、でも作るのは楽しいし(実は文庫本を解体するのがいちばん楽しい)、二つ返事で引き受けた。 一人からは新潮文庫の「シャーロック・ホームズの事件簿」と岩波文庫の「墨汁一滴」の2冊、作って欲しいと頼まれた。 メモを使い切っても、自分でリフィルを作れば表紙は使い回しできるようにしてある。果たして2冊もいるんだろうかと思いつつ、それだけ何かし

          結局、周りの目は気になるもの

          工作期の終わり〜風姿花伝のメモパッド

          工作期も終わりが近づいたのか、趣味の循環は創作期に入る兆候が見えている。 偏西風に流されて移動する気圧みたいに予測がつけばいいのだけれど、法則性も季節性もないみたいで、ある日突然変化の兆候が現れる。 根拠はないけれど、好き勝手に作ったものに妙な愛着を感じたり、変に満足度が高かったりすると、そこで一旦ブレーキがかかるみたいな感じはある。 世阿弥の「風姿花伝」を読み終えて、解体してメモパッドに改造した。中身はサイズに合わせて切ったコピー用紙なのだけれど、妙に格好いい。 A4を四

          工作期の終わり〜風姿花伝のメモパッド

          飽きっぽさのこと

          飽きっぽいのは性格なので、もはやどうしようもない領域に達している。 それにしても飽きる/飽きないには何かしら共通項だとか境界線があるような気がして、自分の中にある見えない基準を観察してみた結果、頭の中に在るものが外部に形として移動するまでに時間がかかるモノ/コトに対して、耐久性が著しく低いような気がしてきた。 読書ならば読み終われば終わる。本の厚みやら何やらで読み終えるまでのおおよその時間は見当がつく。そもそも興味がない分野の本には手を伸ばさないから飽きることもない。 絵を

          飽きっぽさのこと

          風姿花伝〜早朝のメモ書き

           週末だというのに意味もなく早起きをして、6時過ぎから机上に置いたままだった「風姿花伝」を読んでいる。  初めて読んだのは10代の終わり。最後に読んだのは20代の終わり頃で、何度か挑戦してみても面白さも、何かがわかったような感じもなかった(有り体に言えば読みづらい上にちんぷんかんぷんだった)。  そして30年のブランクを経て再度読み直してみたら(しかも週末の早朝に)、どういうわけか書かれていることがスルスルと入ってくる。  脳のシワの隙間に世阿弥の言葉が流れ込んで、細胞膜の

          風姿花伝〜早朝のメモ書き

          地引と強要

          前世紀は情報を持つものが強者となる時代だったが、今世紀もはや四分の一近くなり、どうやら本格的な知識と教養の時代になりそうな予感がしている…………と書いていたつもりだったのだが、変換キーを押したら全然違う物体に変身していた。 「全盛期は乗法をモツ藻のが香車となる次代だったが、今世紀も最早詩文の市近くなり、どうやら本革的な地引と強要の次代になりそうな悪寒がしている」 シンデレラも顔負けの華麗すぎる変身である。しかも日付が0時を回っても元の姿に戻ることもない。変換キーの魔法、優

          地引と強要

          名前のない何か

           普段、自分がやっていることに名前をつけるとしたら、なんと呼べばいいのかとしみじみ考えてしまった。  創作と呼ぶほど高尚ではないが、趣味と片付けられたら少々腹が立つ。とはいえ「モノづくり」と呼べるほど精緻ではないし、高度な技術などカケラもない。それでも「誰にでもできる」と言ってしまえるほど簡単でもない。集合の円に例えるなら、重なる部分どころか円の外側にある何かですらない、どこにも属さない点みたいな趣きがあるのである。  そんな荒野の石ころみたいな名前のない何かは、実はそこら

          名前のない何か

          【全部嘘日記】 2024.4.7.

          気温が上がり、花見にはうってつけの日曜日。 坐骨神経痛で痛む脚を引きずりながら、近所の公園に出かける。 人工林とはいえまあまあの数の木が植えられた公園には、当然ながら桜も少なくない数が植えられている。 この季節にはレジャーシートを広げて花見を楽しむ住人も多い。 そこかしこから聞こえてくるのはどれもこれもたわいのない話ばかり。桜が梅でも木蓮でもきっと似たり寄ったりの話しかしないのだろうが、それをあげつらうのも野暮なこと。桜の下でする四方山話は一味も二味も違うはず。 「桜の樹の

          【全部嘘日記】 2024.4.7.

          都電荒川線

          今日、仕事で出かけた際、四半世紀ぶりぐらいに都電に乗った。 子供の頃は生活の足のように使っていたが、10代も後半に入った頃からはとんと乗らなくなった。最後に乗ったのも写真の額装のために三ノ輪の会社に行った時のはずだ。 古い記憶には今や展示される骨董品となったワックスの染み込んだ木の床の車両に乗った時の様子も残る。 だが今日の都電荒川線は、それが都電だとわからないくらいにモダンで、シュッとした車両になっていた。 昼の車両は座ることはできないが、立っている人はまばらという状態だっ

          都電荒川線