樹 恒近
多くを考えずに、ただ書き連ねただけの駄文の極み。 役に立たないことは保証済み。保証書はついてません。
個人的な読後連想の記録
脈絡もなく浮かんだ小説の断片を集めました。ここから何かが始まるのか、このままでいるのかわからない、体裁も整えないままのレアな状態。断片だから研がれもせず、丸められもしないままの何かが現れているように思う。
80年代の洋楽を中心に、自分を形作ってきた音楽についてのエッセイ
最初に自己紹介を兼ねて「書くことについて」書いておこうと考えました。 猫が後ろ足で頭を搔くのにだって意味は(たぶん)あるのだから、なぜ書くのか、どう書くのかくらいは書いておこうと思います。 書き手がどのような人間なのか、最初にわかれば、読むかどうかを決める助けにもなるだろうし。 書き殴りの雑文や雑記がほぼすべてで、たまに、忘れていたかのように創作物を公開することもあるかもしれません。 基本的に日本語の文章は縦書きで読みたいと思っているので、「小説」と名前のつくものを公開する
工作期も終わりが近づいたのか、趣味の循環は創作期に入る兆候が見えている。 偏西風に流されて移動する気圧みたいに予測がつけばいいのだけれど、法則性も季節性もないみたいで、ある日突然変化の兆候が現れる。 根拠はないけれど、好き勝手に作ったものに妙な愛着を感じたり、変に満足度が高かったりすると、そこで一旦ブレーキがかかるみたいな感じはある。 世阿弥の「風姿花伝」を読み終えて、解体してメモパッドに改造した。中身はサイズに合わせて切ったコピー用紙なのだけれど、妙に格好いい。 A4を四
飽きっぽいのは性格なので、もはやどうしようもない領域に達している。 それにしても飽きる/飽きないには何かしら共通項だとか境界線があるような気がして、自分の中にある見えない基準を観察してみた結果、頭の中に在るものが外部に形として移動するまでに時間がかかるモノ/コトに対して、耐久性が著しく低いような気がしてきた。 読書ならば読み終われば終わる。本の厚みやら何やらで読み終えるまでのおおよその時間は見当がつく。そもそも興味がない分野の本には手を伸ばさないから飽きることもない。 絵を
週末だというのに意味もなく早起きをして、6時過ぎから机上に置いたままだった「風姿花伝」を読んでいる。 初めて読んだのは10代の終わり。最後に読んだのは20代の終わり頃で、何度か挑戦してみても面白さも、何かがわかったような感じもなかった(有り体に言えば読みづらい上にちんぷんかんぷんだった)。 そして30年のブランクを経て再度読み直してみたら(しかも週末の早朝に)、どういうわけか書かれていることがスルスルと入ってくる。 脳のシワの隙間に世阿弥の言葉が流れ込んで、細胞膜の
前世紀は情報を持つものが強者となる時代だったが、今世紀もはや四分の一近くなり、どうやら本格的な知識と教養の時代になりそうな予感がしている…………と書いていたつもりだったのだが、変換キーを押したら全然違う物体に変身していた。 「全盛期は乗法をモツ藻のが香車となる次代だったが、今世紀も最早詩文の市近くなり、どうやら本革的な地引と強要の次代になりそうな悪寒がしている」 シンデレラも顔負けの華麗すぎる変身である。しかも日付が0時を回っても元の姿に戻ることもない。変換キーの魔法、優
普段、自分がやっていることに名前をつけるとしたら、なんと呼べばいいのかとしみじみ考えてしまった。 創作と呼ぶほど高尚ではないが、趣味と片付けられたら少々腹が立つ。とはいえ「モノづくり」と呼べるほど精緻ではないし、高度な技術などカケラもない。それでも「誰にでもできる」と言ってしまえるほど簡単でもない。集合の円に例えるなら、重なる部分どころか円の外側にある何かですらない、どこにも属さない点みたいな趣きがあるのである。 そんな荒野の石ころみたいな名前のない何かは、実はそこら
気温が上がり、花見にはうってつけの日曜日。 坐骨神経痛で痛む脚を引きずりながら、近所の公園に出かける。 人工林とはいえまあまあの数の木が植えられた公園には、当然ながら桜も少なくない数が植えられている。 この季節にはレジャーシートを広げて花見を楽しむ住人も多い。 そこかしこから聞こえてくるのはどれもこれもたわいのない話ばかり。桜が梅でも木蓮でもきっと似たり寄ったりの話しかしないのだろうが、それをあげつらうのも野暮なこと。桜の下でする四方山話は一味も二味も違うはず。 「桜の樹の
今日、仕事で出かけた際、四半世紀ぶりぐらいに都電に乗った。 子供の頃は生活の足のように使っていたが、10代も後半に入った頃からはとんと乗らなくなった。最後に乗ったのも写真の額装のために三ノ輪の会社に行った時のはずだ。 古い記憶には今や展示される骨董品となったワックスの染み込んだ木の床の車両に乗った時の様子も残る。 だが今日の都電荒川線は、それが都電だとわからないくらいにモダンで、シュッとした車両になっていた。 昼の車両は座ることはできないが、立っている人はまばらという状態だっ
今日、体調が思わしくなかったのは、昨日が3月10日で、今日が3月11日だったからだと思う。 13年前の震災で亡くなった方が16,000人。 東京大空襲で亡くなった方が一夜で100,000人。 広島・長崎の犠牲者は214,000人。 人間は自然の20倍恐ろしい。
若いころは多趣味多嗜好、全方位好奇心レーダーみたいな感じでわからなかったのだが、最近になって趣味嗜好の向く方向が一定周期で変化することがわかってきた。 趣味嗜好が収斂してきたおかげで変化が明確になったというわけだ。これも年の功なのか、あるいは迫る残り時間への危機感なのかもしれない。 ノートに手書きすることに浸かっているのは今も変わらずで、時間の隙を見つけてはふと浮かんだアイデアやフレーズをキーワードだけでも書き留めるようなことを続けている。 分析すると僕には(1)創
まとまった時間も取れない毎日が続いているこの頃、日々の隙間を「ノート」で埋める習慣ができた。 鍵カッコ付きであるのは、言うまでもなく現実のノートにペンで書き込んでいるからなのだが、これが単純にnoteと比べてもずっと心地いい。 人の目に触れないという前提の大きさなのだろうが、まとめる必要もないのが良いようだ。 頭に浮かんだことを浮かんだ順に書き留めているだけだから、記憶やイメージの外部保存と意味は同じなのだけれど、中途半端なまま、結論のないまま、断片以下の断片であっ
文体というのは、例えばギタリストが出すギターの音なのだと思う。 もしかしたらジャズ・プレイヤーのトランペットやサキソフォンの音かもしれない。ピアノもきっと同じだ。 だが、決してヴォーカリストの声でも歌い方ではない。 インストゥルメンツであることが肝要なのだ。 キース・リチャーズのギターとはストロークのタイミングやピッキングの手癖だけではなく、弾かないところまで——音にならない空白まで——がキース・リチャーズなのだし、マイルスはいつでもどこでもマイルスだし、セロニアス・モンク
Rabbit, Rabbit, White Rabbit
noteからもドラマやアニメになり、ヒットするものが出てくるのかもしれないけれど、テレビの世界は本当に**でもない連中が多いから気をつけて。 世界は概ね正規分布のように上から2:6:2ぐらいに分かれるけれど、あの世界は1:3:6としか思えない感じだから。 承認欲求も名声も経済的な成功も結構だけど、品位と引き換えにしてまで手に入れるほどの価値はない。 なにより小説や漫画がドラマやアニメの下僕になっちゃったら、素材としての存在理由しかなくなっちゃうわけで。 でもそういうパッケージ
時間があるようでない。極端に忙しいわけではないのに、どういうわけか読書時間が取れない。 活字中毒のような病的なものではないのだが、本を読む時間がないというのはやはり辛い。 そんなわけで昨年来、意識して続けている短編小説集中読書活動はもっぱら入浴中になっている。 特定の作家の短編小説にこだわっているわけじゃないから、風呂で濡れようが、たわもうがお構いなしだ。再読するならはなから買い直すつもりで、古書店の店頭ですっかり日焼けしている1冊100円の文庫本を買っては、お湯に浸かりな
#5 『村上春樹全作品1990−2000 ① 短編集Ⅰ』 / 村上春樹 去年から短編小説を意識的に読んでいて、その一環として村上春樹の短編をまとめて読み直している中の一冊。 村上春樹はデビューから同時代をリアルタイムに読むことができている数少ない作家の一人だけに、短編作品の変化も実感を伴って読むことができる。 #6 『文学のレッスン』 / 丸山才一 聞き手の湯川豊氏のインタビューに答える形式の分、他の著書の旧仮名遣いがなくて、読みやすい。 インタビュー形式とはいえ、実質