樹 恒近
個人的な読後連想の記録
幼少期の個人的な出来事
脈絡もなく浮かんだ小説の断片を集めました。ここから何かが始まるのか、このままでいるのかわからない、体裁も整えないままのレアな状態。断片だから研がれもせず、丸められもしないままの何かが現れているように思う。
80年代の洋楽を中心に、自分を形作ってきた音楽についてのエッセイ
最初に自己紹介を兼ねて「書くことについて」書いておこうと考えました。 猫が後ろ足で頭を搔くのにだって意味は(たぶん)あるのだから、なぜ書くのか、どう書くのかくらいは書いておこうと思います。 書き手がどのような人間なのか、最初にわかれば、読むかどうかを決める助けにもなるだろうし。 書き殴りの雑文や雑記がほぼすべてで、たまに、忘れていたかのように創作物を公開することもあるかもしれません。 基本的に日本語の文章は縦書きで読みたいと思っているので、「小説」と名前のつくものを公開する
今日、体調が思わしくなかったのは、昨日が3月10日で、今日が3月11日だったからだと思う。 13年前の震災で亡くなった方が16,000人。 東京大空襲で亡くなった方が一夜で100,000人。 広島・長崎の犠牲者は214,000人。 人間は自然の20倍恐ろしい。
若いころは多趣味多嗜好、全方位好奇心レーダーみたいな感じでわからなかったのだが、最近になって趣味嗜好の向く方向が一定周期で変化することがわかってきた。 趣味嗜好が収斂してきたおかげで変化が明確になったというわけだ。これも年の功なのか、あるいは迫る残り時間への危機感なのかもしれない。 ノートに手書きすることに浸かっているのは今も変わらずで、時間の隙を見つけてはふと浮かんだアイデアやフレーズをキーワードだけでも書き留めるようなことを続けている。 分析すると僕には(1)創
まとまった時間も取れない毎日が続いているこの頃、日々の隙間を「ノート」で埋める習慣ができた。 鍵カッコ付きであるのは、言うまでもなく現実のノートにペンで書き込んでいるからなのだが、これが単純にnoteと比べてもずっと心地いい。 人の目に触れないという前提の大きさなのだろうが、まとめる必要もないのが良いようだ。 頭に浮かんだことを浮かんだ順に書き留めているだけだから、記憶やイメージの外部保存と意味は同じなのだけれど、中途半端なまま、結論のないまま、断片以下の断片であっ
文体というのは、例えばギタリストが出すギターの音なのだと思う。 もしかしたらジャズ・プレイヤーのトランペットやサキソフォンの音かもしれない。ピアノもきっと同じだ。 だが、決してヴォーカリストの声でも歌い方ではない。 インストゥルメンツであることが肝要なのだ。 キース・リチャーズのギターとはストロークのタイミングやピッキングの手癖だけではなく、弾かないところまで——音にならない空白まで——がキース・リチャーズなのだし、マイルスはいつでもどこでもマイルスだし、セロニアス・モンク
Rabbit, Rabbit, White Rabbit
noteからもドラマやアニメになり、ヒットするものが出てくるのかもしれないけれど、テレビの世界は本当に**でもない連中が多いから気をつけて。 世界は概ね正規分布のように上から2:6:2ぐらいに分かれるけれど、あの世界は1:3:6としか思えない感じだから。 承認欲求も名声も経済的な成功も結構だけど、品位と引き換えにしてまで手に入れるほどの価値はない。 なにより小説や漫画がドラマやアニメの下僕になっちゃったら、素材としての存在理由しかなくなっちゃうわけで。 でもそういうパッケージ
時間があるようでない。極端に忙しいわけではないのに、どういうわけか読書時間が取れない。 活字中毒のような病的なものではないのだが、本を読む時間がないというのはやはり辛い。 そんなわけで昨年来、意識して続けている短編小説集中読書活動はもっぱら入浴中になっている。 特定の作家の短編小説にこだわっているわけじゃないから、風呂で濡れようが、たわもうがお構いなしだ。再読するならはなから買い直すつもりで、古書店の店頭ですっかり日焼けしている1冊100円の文庫本を買っては、お湯に浸かりな
#5 『村上春樹全作品1990−2000 ① 短編集Ⅰ』 / 村上春樹 去年から短編小説を意識的に読んでいて、その一環として村上春樹の短編をまとめて読み直している中の一冊。 村上春樹はデビューから同時代をリアルタイムに読むことができている数少ない作家の一人だけに、短編作品の変化も実感を伴って読むことができる。 #6 『文学のレッスン』 / 丸山才一 聞き手の湯川豊氏のインタビューに答える形式の分、他の著書の旧仮名遣いがなくて、読みやすい。 インタビュー形式とはいえ、実質
まずは書いたものにタグを付けないところから。 承認欲求は昔からあるけど、陽の目に晒す方法がなかっただけ。だから手を替え品を替え、基本は中身を充実させる方向で承認欲求を満たす前段階の強度を上げてきたはず。 お手軽なものには落とし穴がある。必ずある。
知らぬ間に21世紀では説明と描写は同じものというルールにかわったのかと思ってしまうくらいになっている。 現状調査の意味も含めて極力今日的な小説も読むようにしているのだけど、ドラマやアニメのノベライズみたいな説明の連続で、途中で放り出すこともしばしば。 新刊書店で「読む本がない」と嘆く回数が増えたのも、それが一因のような気がする。 描写の真似をしているつもりの説明が増えたのが、どうした理由によるのか。編集側の指示だとすれば「ここは説明しないと読者がわかりません」みたいなことを
「ワタシはケチだから……」というタイトルにしたのは、ちょっとしたエクスキューズで、頭に浮かんだことを雑文で消費してしまうのが嫌だからだ。 書き直しも何もせずに頭に浮かんだことをそのまま書いても、きっと読み流す程度には読めるものになる自信はある。でも、ケチと吝嗇の間をうろついている僕の性格では、どうしたってもったいないなあと思いが先に立つ。 結果、書かずにこっそり溜め込んでいるネタは倉庫に投げ込まれて、気がつかない間にどこかへ消えて無くなっていることが多い。 整理整頓が得意
どうでもいいことが立て続けに頭に浮かぶのは、何をするにしても邪魔になるだけだが、本当にどうでもいいことはどれだけ立て続けに頭に浮かんでも、想像したほど邪魔にはならないものだとわかった。 だからといって真冬の真昼間の幽霊みたいに時と場所もわきまえずに浮かんでこられるのは、やっぱり迷惑なんだが。 浮かばれないから幽霊になっているはずなのに、浮かんでくるというのもまったくおかしな話だ。首尾が一貫していない。 尻尾があるのはあるのは悪魔で、幽霊ではなかったな。 化てもいないまま出て
多様化が進展して、パーソナル性が高まれば高まるほど、共通の概念や最大公約数的な共通の言語は希薄化していく。 ボールをどこに投げても誰かには必ず届く代わりに、どこに投げれば誰に届くのかは全くわからなくなる。 なるほどそういうことなのか。
noteに書くくらいの適当さで良いなら、何についてでも書ける。強がりでも有り余るほど過剰な自信でもなく、本当にそう思っている。 何かを目撃すれば、誰もが何かしらの反応を抱くものだ。まるっきり何の反応もなかったとしたら、そっちの方が危うい(何の反応もないじゃん、ということに気づくという反応がちゃんとあるわけだが)。 厚切りベーコンを見ても、満員電車に並ぶ通勤客の姿を見ても、美味しそうだとか、混んでて嫌だなとか、何かしらは思うわけで、書くこと自体は湯船で鼻歌を歌うくらい誰にでもで
10代の頃から「嫌いなもの、犬と数学、高いところと狭いところ」と自己紹介のようにどこででも口にしてきた。 おかげで嫌われたことも数限りなくあるし、でも好き嫌いのことだから、そこで無理をしても仕方がないと割り切ってもいた。 このところ騒々しくなっていたペットの旅客機同乗の一件で、自分の嫌いなモノが犬と数学なのではなくて、嫌いなのは頭の悪い視野狭窄の飼い主なのだと気がついた(もちろん犬に限らず)。 犬より猫の方が好ましく感じるのは昔からだが、それにも特別な理由はない。無関心では