そして絵画期へ
工作期が一段落して、さて次はようやく文章期かと思っていたら、絵画期がやってきてしまった。
絵画といってもイーゼルを立てて、筆を握ってキャンバスに向き合うような類ではなく、手を出してしまったのは版画。
木版画は昔から遊び半分で時々彫刻刀を握ることもあったのだけれど、今回は銅版画の応用のようなシロモノだ。
銅版画などと書くと、どこか本格的で、何やら本気モードみたいに見えてしまうが、全然そんなことはない。どこまでも趣味で、遊びの範囲から一歩も出ることはない。趣味の道具に金を注ぎ込むのは趣味ではないのだ。
なんというかアンビバレントな書き方ではあるけれど、金を使わずに存分に楽しむことが趣味というか、本家本元の本物とイコールにはならないけれど、趣味を言い訳にしてニアリー・イコールくらいに近づけること自体が楽しみになっている。
だからもちろん銅版なんて使わないし、プレス機も使わない(そもそもプレス機など買う気もなければ置く場所もない)。銅版の代わりは百均で売ってるP.P板だし、プレス機の代わりは空っぽになったジャム瓶。ニードルの代わりはカッターや安全ピン、磨いて尖らせた釘。
あれこれ試して代用できるものが見つからず、仕方なくインクだけは版画用のものを買ったけれど、それ以外は当たり前に家にあるものばかりだ(買うにしても百均程度で済んでしまうものばかりで、「版画用」などというものは全く無い)。
ポール・オースターの訃報が届いて、『シティ・オブ・グラス』を書棚から引っ張り出して久しぶりに読み、新潮文庫のカバーに使われている絵がドライポイント技法で描かれたものだと気づいて「ちょいとやってみるべか」と何故かいい加減などこぞの訛りで思いついたのがきっかけだった。
趣味はどこに入り口のドアを設えているか、予想もできない(落とし穴の可能性も十分にある)。
そこからいくつかの試作を経て、今度はモノプリントなる版画の概念に出くわしてしまった。
要するに再現性のない一点物の版画技法のことなのだが、そもそも版画(=印刷)は再現性があることが版画たる所以なのに、絵画のような再現性のなさがポイントとは、そもそもが矛盾している。そこのいい加減さというか、曖昧さに興味が湧いた。
で、その場の勢いと直感だけで作ったのがこんなシロモノである。
確かに手法としては版画と全く同じで、かつ再現性は全くないというもので、自分の感覚だけで自由に作れるというのに、途中から言うことを聞かなくなる面白さがある。
この辺は自分が作った登場人物がいうことを聞かずに勝手に動き出すのと似ている。
遊びとはいえ、創作の端っこにぶら下がっている程度には「お仲間」の内かもしれず、そう考えると創作するということには何かしら通底するものが絶えずあるのかもしれないと、また同じことに気づくのだった。
言ってみればこういう曖昧さは、河川の汽水域に似てるところもあって、僕はどうも混じり気なしの淡水とか海水域みたいなど真ん中には興味が湧かないところがある。
モノプリントという概念はまさに絵画と版画の汽水域という感じもする。
川であれ海であれ、人は平気で溺れるから注意しないと。
(人の5倍ぐらいは軽く泳げるけれど、昔から河童の川流れと言うこともある……と書きたいところだが、自分を河童と言ってしまえるほど描く技術があるわけでもなく……世の中は難しいなあ。
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