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京都で考えた

吉田篤弘さんの『京都で考えた』はことさら好きな一冊で、頻繁に読み返している。
大仰ではなく、軽妙でもなく、頭に浮かんだささやかなことから連想が広がっていく浮遊感が心地いい。
本来あるタイトルは記されないまま、短い文章がアスタリスクのみで区切られ、綴られていく。タイトルを隠したことが文章に余白を生んだようにも思える。一人の読者である僕は生まれた余白の間をふわふわと漂うような気分になる。

大きな病気をしたせいもあるのだろうが、年齢とともに体力の衰えは顕著で、集中が続く時間は年々短くなる一方だ。
ただでさえ時間に余裕のない毎日を送っている上に、体力がついていかないのだから、長い文章を書くことはとても難しい。
たとえ短くでも、日々書き連ねて行けば、やがては大きな川のようになると頭ではわかっていても、生来の飽きっぽさと気の短さがそうさせてくれない。
となれば、吉田篤弘方式というのは存外悪くないのかもしれないと感じている。
ただ、noteでそれをやろうとすると、邪魔なものが二つ。
最新のものがいちばん手前にきてしまうことと、タイトル。テクノロジーは時々余計なことばかりする。

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