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書くことにまつわる様々なこと

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説明するなら描写してくれ、の話

知らぬ間に21世紀では説明と描写は同じものというルールにかわったのかと思ってしまうくらいになっている。 現状調査の意味も含めて極力今日的な小説も読むようにしているのだけど、ドラマやアニメのノベライズみたいな説明の連続で、途中で放り出すこともしばしば。 新刊書店で「読む本がない」と嘆く回数が増えたのも、それが一因のような気がする。 描写の真似をしているつもりの説明が増えたのが、どうした理由によるのか。編集側の指示だとすれば「ここは説明しないと読者がわかりません」みたいなことを

エッセイはこうやって書くと面白くなる(非推奨)

 noteでは小説の類をアップする気がないので、自然と日記や雑文ばかりが溜まっていくことになる。  目的が文章を書く習慣を保持することと、小説を書く際に役立ちそうな手法を試してみることにあるものだから、最終的に公開された雑文の中身はどうでも良いとも言える。  とはいえ自分の書いた文章を他人様の目に晒すのであるから、支離滅裂なことを書くわけにもいかないし、読みやすさもある程度は意識しなければならない。  自分の価値観を押し付けるようなウザったい中身だったり、批評家連が好んで書

ひねくれ者は小説世界をこう作る

 小説を書く、物語を作るに当たって「プロッター」か「パンツァー」か問題は常に書き手を二分する分水嶺だと思うのだけれど、ちょっと目新しい方法を思いついたので、いまウキウキしながら試している。  小説を作る作業を分析したり、考察するといった「どーでもいい」作業が殊の外好きな僕としては、方法論とかいろいろな小説作法を読むことも趣味の一つになってしまっている。  それらを参考にして「新しい理論を作り出すぞ!」「たくさんの書き手の人たちに見つけたものを知らせるぞ!」みたいな前向きな積

書くことを邪魔するもの

 書くことを邪魔する最大の敵。僕にとってはテレビだ。  自分の部屋にテレビなどなかった学生の頃は、食事が済んだら早々に部屋にこもってノートかワープロに向かっていた。  部屋の中でできることなど片手で余るほどしかない。本を読むか、音楽をレコードを聴くか、FMラジオを聴くか、あるいは文章を書くか。  今になって思えば、おかげで娯楽らしい娯楽に鼻面を引き回されることもなく集中できていた。  実を言えばテレビをよく見るようになったのは東日本大震災が起きてからのことだ。  それまでは

【小説の作り方】結局、それはプロットを作っているということだった

 僕にとってプロット作りは鬼門である。  手前味噌だが、アイデアは割と潤沢に出てくる方だと思う。近所を30分ほど散歩していれば「あれはネタの素になるな」というものが二つ三つは見つかる。  だが問題はそれからだ。  小説を書く人はプロッターとパンツァーという言葉は聞いたことがあるだろう。前者はプロットを建ててから執筆を始める人、後者は事前準備なしのぶっつけで書き始める人を指す。  僕は両者の中間ぐらいでいるのがちょうどいいんじゃないかと思っている。凝り性にとってプロット作りは

エッセイ1本に必要な時間

 noteを開くと「*日連続」「*週連続」とやまかしいことこの上ない。  持続できることは素晴らしい能力の一つだとは思う。でもそこには同時に「粗製濫造」という罠が潜んでいる。その罠にかかってしまうことは、多くの人にとって好ましからざるものなのではないかと思う。  上手な文章を書くことと、面白みのあるものを書くことは、結果的にとても近いところにあるものだが、作業としては全然違う。  いろんなものが時間の奪い合いをしている現代社会の中で、自分の書いたものを読ませるのならば、必要

スランプでもなければ、ライターズブロックでもない

 これだけ社会全体のデジタル化が進んでも、相変わらずいきなりキーボードを叩いて文章を書くのが苦手だ。  noteにたわいもないことを吐き出している分にはどうということはないが——筆の赴くままの「随筆」なのだから当然だけど——いざ小説となるとひどい出来の描写や会話が、フォントの綺麗さで誤魔化されている感が強くで気分が悪くなる。  誤魔化されているにも関わらず、水が流れるように上から下、右から左へ文章が進んでいくのがまた気持ち悪い。順調ではないのに順調に見え、その実、ただ水の流れ

小説が芽を出す土壌問題

 いざ自分で書こうとなったときに、過去の読書性向、読書体験は種が芽を出すための土壌になる。  土ごとに何が芽を出すかにも違いが出るのは当然のこと。  純文学の畑で育った人は純文学の成育が得意だろうし、本格ミステリー畑で育った人は本格ミステリーを作るのがいちばん得意なはず。  結局、畑仕事と同じで、実際に野菜を作り始める前の土作り次第で、採れる作物にも相応の違いが出てしまうということなのかもしれない。  こう考えると乱読雑食でやってきた僕の畑の土は火山灰からコンクリートの破片

あらすじを書く

 長い小説を書きたいと思っては二の足を踏むのは自分の飽きっぽさを自覚しているからだ。  緻密なプロットを立てて、計画に則って書き進めていけば良いのだろうが、先が見えているものを書く退屈さに我慢できる自身もない。  計画を立てずに、直感に従って思いつくままに書いていく「パンツァー」と、あらかじめ進捗、工程を定めてから書いていく「プロッター」の二種類のどちらかといえば、僕は確実に前者だ。  プロット作りは好きだけれど、模型作りのような楽しさを味わってるだけで、そこから壮大なジオ

エッセイの名人上手

 書く方面のことはさておき、読む側では小説熱が一巡して、いまは対談やエッセイなどを読むことが増えている。  noteでエッセイというタグをたどると、そこにはとんでもない量のテキストが見つかる。それだけ障壁が低く、ある意味では誰にでも書くことができる気楽な楽しみなのだとわかる。  世の中にはエッセイスト、随筆家という肩書きを持つ人がいて、その中には「エッセイの名手」と呼ばれる人がいる。  エッセイの名手というのは何を持って名手というのかわからないけれど(遠く離れた的を撃ち落と

書くにはパソコンが邪魔

 デスクの真ん中にはノートパソコンがでかい顔でふんぞり返っている。  「オレ様の場所」と主張する感じが、畳を積み上げていないだけで、時代劇の牢名主とさして変わらないような威張りっぷりである。  物理的に実に邪魔だ。  家庭にコンピューターが侵入する以前、ネットなどなかったはるか昔を思い出すと、部屋で何かを書くこともまだまだ牧歌的で、世間一般に対して優越感を持つような甚だしい錯覚を覚えることができるものだった。  僕の部屋とて、あるのは書棚に机、あとはベッドとステレオコンポぐら

そしてまた振り出しに戻る

 さすがに自分の飽きっぽい性格については骨身にしみて分かっている。  何度となく同じことを繰り返すおかげで、自分の飽きっぽさが顔を覗かせ、枝を伸ばし、行き詰まるまでの傾向すら掴んでいて、もはや自分の飽きっぽさを言い訳にすることなどできないところまで行き着いている。  何かにつけ自分は飽きっぽい性格なのだという前提で、飽きっぽさが影響をしない、飽きっぽさを利用してしまえるような方策を考えなければならないのだ。  曖昧な書き方では何の話をしているのかわからないだろう。これは小説

「MVV」は小説制作に応用できるか

 企業勤めをしている人なら「MVV」は見聞きしたことがある、あるいは日頃から何かにつけて目にしているものだと思う。  経営学者のピーター・F・ドラッガーが2002年の著作『ネクスト・ソサエティ』の中で触れた一節を日本の経営者が自社の経営理念を表出するものとして便利に使うようになったシロモノで、「ミッション(mission)」「ヴィジョン(vision)」「バリュー(value)」の頭文字をとったものだ。  経営理念を言語化する難しさは経営者にとっては難しいことも多いようで、M

飽きっぽさに対抗するための方策

 兎にも角にも飽きっぽい性格で、実に困る。困ったところで治る気配もないし、治す努力すらすぐに飽きそうで、これまた困る。  年齢とともに右肩下がりの続く集中力は下げ止まる様子はないし、目だってすぐにしょぼしょぼになる。これではとてもじゃないけど長いものなど書けるはずがない。  何か良い方法はないものかと悩んで、毎日、その時に思いついた場面を書くことにした。 「なんだ、そんなの全然普通じゃん」  そんな声が今この時にも聞こえてきそうな気がする。だが小説指南、小説入門的な意味合い