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書くにはパソコンが邪魔

 デスクの真ん中にはノートパソコンがでかい顔でふんぞり返っている。
 「オレ様の場所」と主張する感じが、畳を積み上げていないだけで、時代劇の牢名主とさして変わらないような威張りっぷりである。
 物理的に実に邪魔だ。
 家庭にコンピューターが侵入する以前、ネットなどなかったはるか昔を思い出すと、部屋で何かを書くこともまだまだ牧歌的で、世間一般に対して優越感を持つような甚だしい錯覚を覚えることができるものだった。
 僕の部屋とて、あるのは書棚に机、あとはベッドとステレオコンポぐらいのもので、机に向かって何かを書き留めているときにも、他にあるのはレコードプレーヤーから流れる音楽だけだった。
 視覚から入ってくるのは自分の書いた文字だけで、他に見るものがないから書いたものに向き合う以外にやることがない。意識して集中するというよりも、放っておけばそうなる、といった感じだった。
 いまはデスクの真ん中に陣取ったPCの電源が入っていれば、それだけで何やらは必ず表示されている。ニュースか動画か、誰かが撮った写真か、書いた文章か、何にせよ目に入ってきてしまう。現代社会の宿痾といえなくもないが、自分で書くことと比べれば、読む・眺める・無目的に視覚情報を呑み込む方が楽なのだから、そっちに流れるのも道理。かくしてネットの虜囚となったままで何も書かずに1日が終わる。
 学生の頃には僕もワープロは持っていた。
 当時のワープロは他と完全に分断されていて、とても優れていたとも思うけれど、当時ですら頭に浮かんだことを文字に固定するスピードは手書きの方が圧倒的に早くて、「手書きファースト」だった。
 ラジオは聞こえてくる日本語が邪魔であまり聞かなかったので、音楽はもっぱらレコード。
 アナログレコードの良いのは、23分経ったら裏面にひっくり返さなければならないところ。集中している時間が25分ほどというのが短いのか長いのかはわからないが、飽きっぽい僕にはちょうどいいリズムだった気がする。

 今では最初からキーボードを叩いて書く人がほとんどなのだろうが、そういう人たちであっても、僕の手順にある「手書きのメモ」に相当する作業は無意識にやっているのではないか。それが物理的に外部に書き出されるのではなく、頭の中で処理されているだけで。
 これは想像だけれど、脳内で事前の処理を済ませられる人たちは、脳の右側で浮かんだ支離滅裂・順不同の発想を、左脳で論理的に整頓して、その上で書き出すのではないか。
 ただ、発想というやつは何かの脈絡に沿って「芋づる式」に浮かんできたり、何の脈絡もなく同時多発的に泡のように浮かぶものもあるはずで、そういう別系統のシロモノを頭の中で論理的に制御するというのはかなり難しいことなのではないかと思う。
 雑文ならば浮かんできた順に書き留めていけば良いだけでだから、できなくもないけれど、どこにたどり着くのか、どこで終わるのかは皆目見当がつかないことになりそうである。
 これまた想像だけれど、事前処理を脳内で完結する人は、あらかじめ引いた自分の整理能力の限界線の内側に収まるようにリミッターをかけているのかもしれない。

 手書きのメモの強みは(ややぼやかしたタイトル画像でもわかってもらえると思うが)字が汚かろうが、見た目が悪かろうが、最優先事項はあくまでスピード。そうなると手書きの方が圧倒的に早いし、発想の広がりが見えて楽しくもある。
 パソコンは便利だけれど、便利なことが最良かどうかは時と場合による。
 何かを書くという点では最初の敵はネットとPCのようだ。
(と言ってる間にもLineの着信音が。こちらも邪魔なこと甚だしい)

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