映画 ジョーカー にみる他者受容の限界 ~君はアーサーと友達になれるか?~

※ 本記事は、「心の優しい人」は読まないでください。

 少し前、「ジョーカー」という映画が流行った。私も、「2回見ました!」という後輩に勧められて、劇場に足を運んだ。本作は、バットマンの映画「ダークナイト」に登場する悪役のスピンオフ的な映画である。

 社会の底辺にいる主人公アーサーが、社会に不満を募らせていく中で、ついに殺人を犯す。しかし、それが同様に社会に不満を抱える貧困層に支持される。一方彼は、コメディアンになりたいというあこがれがあった。しかし、尊敬するコメディアンのマレーが、アーサーを笑いものにするために番組に招待したため、アーサーはマレーを銃殺する。アーサーは警察に捕まるものの、アーサーを英雄視する暴徒によって救出され、歓喜に踊る、というストーリーだ。

 なかなかすごい内容の映画であるが、面白いのはその後の社会の動揺だ。それは例えば、次のような記事にも見て取れる。
大ヒット問題作『ジョーカー』共感と酷評がまっぷたつのワケ」   

 記事も指摘するように、「生きづらさ」を抱えている人はアーサーに共感するし、そうでない人は「胸糞の悪い映画だった」と酷評。当時のTwitterでは感想が賛否両論で面白かったのを思い出す。なんにせよ、見た人の内面をエグり出すという意味で、名作映画であることは間違いない。ちなみに、推薦してくれた後輩は、「誰にも共感できなかったので、この映画をどうとらえていいのかわからない。」と言っていた(笑)

 私の職場にも「アーサー」がいる。同期のB氏である。高学歴でプライドは誰よりも高いが、仕事は全くできない。ミスを認めず、上司には虚偽の報告をし、バレそうになると病休でほとぼりが冷めるまで逃げる。臭いはキツいし、鼻をかんだティッシュを私物の座布団の下に隠してためる。口は出すが行動はせず、少しでも自分を批判する人は「敵」認定し、口汚く罵る。一方、自分の問題を指摘しない、甘やかしてくれる人にはどこまでも甘え、夜に長文の鬱メールを送ったりする。要するに、いるだけで皆が迷惑するような人である。

 私はB氏が嫌いである。同期ということもあるが、割と厳しい指摘もしてきたし、バカにしてきた。B氏をアーサーとするなら、私はマレーであろう。実際、劇中でマレーがジョークを飛ばすシーンが何回かあるが、どれも本当に面白い。思わず吹き出してしまったものの、周りの鑑賞者は一切ウケておらず恐縮したことがあった。

 なんにせよ、私は劇中でB氏に撃ち殺されたのだ。これはなかなかショッキングな体験で、しばらく落ち込んだし、自分の他者との向き合い方を反省した。私にとっては共感できる映画ではなく、千何百円か払ってお説教を受けた、という感じである。

 さて、前回の投稿では、「相手の箱の中をみる」努力の大切さを提示した。このような思想は、理念ではなく、実践でなければ意味がない。人間関係とは、机上の問題ではなく、常にいま・ここで起きている事象であるからだ。しかし、箱の中をみても、まったく理解できない、むしろそれどころか、嫌悪しか湧かず、絶対に受け入れられないということが分かった場合、我々はどうするべきなのか。「箱の中をみようと頑張りましたが、やっぱり無理でした」と、簡単に言ってしまうと、ムルソーの死刑を認めるのと変わらない。今回の問題は、「我々はアーサーとどう付き合うべきか」ということである。

 心の優しい人はこういうであろう。「もし内心嫌だと思っても、それを相手に伝えるのはかわいそう。表面上は優しく接して、うまく付き合うのが大人だし、そうすべき。」

 このような技術を我々は「社交辞令」と呼ぶ。

 社交辞令!?社交辞令がこの課題を解決できるのか!?君はこの映画を本当に見たのか?アーサーと同じマンションの住人で、シングルマザーのソフィーは、アーサーと廊下で社交辞令を交わした結果、アーサーの妄想で恋人であると思い込まれ、ついには家に無断で上がり込まれるに至る。もしあなたがアーサーと接する上で「心の優しい人」であるのならば、次は「犯罪被害者」という属性が加わるだろう。

 私の職場の人がB氏にどう接しているかみてみると、すべて「拒絶」か「社交辞令」であり、「受容」はいない。「社交辞令」を採用している人は2種類いる。本人の前だけでいい顔をし、裏ではボロカスに悪口を言う嫌な奴のパターンと、本当に心が優しいために断れず、一人で困って、抱え込んで耐える人のパターンである。

 どちらのパターンにせよ問題だ。本人は良かれと思って優しく接しているが、それゆえに周囲への害悪を増加させていることに気づいていない。それはちょうど、野良ネコがかわいそうだからと餌をやるものの、自分で責任をもって飼うわけではなく、それにより狂犬病が発生するなど公衆衛生上の問題を引き起こしても、善人面する連中と同じである。最後まで面倒を見られないなら、責任が持てないなら、手を出してはいけない。

 心の優しい人、または映画を見て「アーサーに共感した」、という人に問いたい。

「君はアーサーと友達になれるか?」

 ここで私は、「そもそも社交辞令は、状況によっては拒絶に他ならず、優しさではない」ということを次の2点から指摘したい。

 まず、社交辞令とは、使いどころが限られている技術である。人間関係とは、「どの深度で相手と付き合うか」ということを常に互いに探り合い、調整しながら合わせていくという高度な営みである。片方が「より深めたい」と思った際は、さりげなく探り、相手の反応から「進めるか引くか」を判断する必要がある(「恋」がまさにそうである。)。そして、お互いがあまり「そこまで深めたくない」と考えており、合意できている場合で、なお良好な関係を維持したいという際には「社交辞令」は無限のパワーを発揮する。しかし、目指す深度が異なる場合には、「社交辞令」は「拒絶」と同義なのだ。

 また、心と表現が一致していないということは、自分にとっても相手にとっても本来的には「不誠実」な態度である。「優しく、かつ不誠実」というものが存在しうるのか。違和感がある。もしそのようなものが存在しないとしたら、それはやはり、社交辞令は優しさではないからだ。我々が誠実でありたいのであれば、「心から受け入れる」か「心から拒絶する」か、どちらかしかないのである。

 しかし、アーサーを心から受け入れられる者がどれだけいるのか。結局、我々はアーサーを拒絶するしかないのである。これについて、ツァラトゥストラはこう言った。

「愛せなければ通り過ぎよ。」

 さて、相手の箱の中をみることは大切であるが、それは一筋縄ではいかないことをご理解いただけたと思う。しかし、次の疑問が残る。つまり、「理解できない者」「共感できない者」「嫌悪している者」を拒絶することに問題はないのだろうか。このような者を結果的に社会から排除することは、許されることなのであろうか。

 次回は、これらについて、J.S.ミルの自由論やドストエフスキーの思想に触れながら、その問題を明らかにしつつ、きれいごとではない、実践的な解決策を模索したい。本当にどこに着地するのか分からないが…。

(以上)

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