カミュの異邦人に読む分断社会の希望 ~相手の箱の中をみるということ~

 先日、カミュの「異邦人」(新潮文庫)を読んだ。カミュは、ノーベル文学賞作家らしい。内容はというと、世間でいえばちょっと不思議ちゃんの男ムルソーが成り行きで人を殺してしまい、裁判にかけられるも、感覚が普通の人とかけ離れているため、ろくな自己弁護もできずに死刑になるという話だ。殺人の動機を聞かれ、「それは太陽のせいだ。」と答えるところが有名らしい。

 この作品について色々調べると、「不条理」という言葉がキーワードのようだ。確かに、自分としては筋の通った言動をしているつもりでも、周りには通じず、どんどんと泥沼にはまっていく様子は絶望的であり、不条理であり、そのような社会の恐ろしさが描かれている。

 「異邦人」については、須賀原洋行氏が漫画化(講談社まんが学術文庫)しているが、そのあとがきが面白いので紹介したい。「しかし、いつの間にか、我々は社会に安住し、下手をすると、その構造の中に埋没していく。社会通念、宗教などによりかかって、皆と同じ方向を向いて生きる。そのほうが他者たちと話が通じやすいし、平和に暮らせるからだ。だが、ムルソーはとことん我のみを起点にして他者たちと関係する。まるで、目や口や耳などの穴が開いている身体という箱の中に入って、一方的に社会を観ているかのように。」「自由な個人になるのは、一見、伸び伸びと気楽に生きられるような気がするが、それは社会に守られてのことであって、本当に個として社会と対峙したら、悪い流れにはまった時には、どんどん自分が社会から疎外され、最後は完全に押し出されてしまいかねない。社会は、箱の中にいるその人自身など見ようとはしてくれない。」
(那須原氏の本作品の紹介はこちらも参照いただきたいhttps://gendai.ismedia.jp/articles/-/59873)

 那須原氏はこの作品を、個と社会との関係でとらえている。そして、身体を穴の開いた箱にたとえ、その箱の中に人格が入っているという二元論的な人間像を定義した上で、社会はその箱の中身(人格)に興味を示さない、という点を指摘している。

 この評論を読んで、思い出したことがある。大学生の時、私は自身の出身高校の国語系の部署で4年間アルバイトをしていた。部長の先生からはよく大目玉を食らったものだが、その中のひとつについて書いてみたい。

 当時3年生。冬の寒く、乾燥した日であった。少し体を動かせば、どこを触るにも静電気が起きて、痛い。特に、職員室から廊下へ出るドアのノブが鬼門で、開けようとすると毎回のように強烈な電撃を食らうため、みな困っていた。そこで、ある日ついに、事務員の誰かが「静電気除去シート」なる便利グッズを購入してきて、ドアノブに貼り付けた。

 お昼ごろ、私も安心してドアノブを握ってみたところ、予想に反して、いつもどおり静電気を食らってしまう。私は先生たちに、「このシートダメですね!バチっときましたよ!」と言った。すると、ある若手のA先生は「そうだね、僕もさっき触ったらジワっときたよ。」と言った。A先生の言うことがよくわからなかったので、私は「あぁ~」と相槌を打ったところ、部長が突然「いとよ!今のはなんだ!」と激怒した。

 私はなぜ部長が怒っているのか全く理解できなかったので困惑していると、部長はこう続けた。「さっき、いとよは『バチっときた』と言った。それに対してAは『ジワっときた』と言った。にもかかわらずなぜその違いについて問いたださずに、『あぁ』と流すのか。」と。それに対して私は「感じ方は人それぞれなのであるから、いちいち議論をする必要はない。なぜ怒られないといけないのか。」と言ったが、部長はさらに激昂され、「お前は何もわかっとらん。もしAが病気で感覚がおかしかったらどうするのか。お前は実存ではない!」と言い、別のS先生に「いとよがいかに間違っているかを指導するように。」と指示した。S先生はいろいろと話してくださったが、そもそもの自分の置かれた境遇の「不条理」さへの怒りや困惑に頭が占領され、どのような話をされたのかはあまり覚えていない。

 あの時、なぜ私が怒られたのか、それは数年間私の中では謎であった。しかし、「異邦人」を読み、須賀原氏の解説を読んだ際、その理由がやっとわかった。部長が私に対して注意をしたのは、私が「相手の箱の中に興味を持たない」「相手の箱の中をみる努力をしない」というその姿勢・生き方である。非常に些細なやり取りの中でではあるが、部長は、私の中に、ムルソーを死刑へと追いやった社会と同じものを見出したのである。

 読者諸君からみたムルソーはどのような人物だろうか。私としては、彼は確かに、少し変わっているかもしれないが、それは表現が不器用なだけだ。母の死にいろいろと思いを寄せているし、普通に女に欲情をするし、おいしいものを食べたいという欲求もある。個々の行動を取るに至った彼の考えやきっかけは、それを知っている我々からすると理解不能というわけではない。

 私はそこに、ある種の「希望」を感じる。一見すると理解不能な相手であっても、しっかりと向き合い、その背後にある考えを探ることにより、単に「理解不能」と排斥したり、「人それぞれ」と思考停止することなく、相手に共感をすることが可能となるのではないか。そのためには、相手の箱の中に興味を持ち、箱の中を見ようとする努力が必要である。「実存」というあり方にはいろいろな考えがあると思うが、神が死んだこの社会で、他者とのかかわりにおいて、そのような姿勢で臨める人間こそが「実存」なのである。

 読者諸君は、相手の箱の中に興味を持っているだろうか。箱の中を見ようと努力しているだろうか。私は、心がけているつもりではあるが、やはりなかなか難しい。現代のような分断社会を生きる上では、そのようなあり方が大切とはいえ、どうしても興味を持てない相手もいるだろう。それについてはまた後日、映画「ジョーカー」の感想とともに考えてみたい。(投稿しました!

 ちなみに、A先生の「ジワっと」というのは、通常の静電気の鋭い一撃というよりは、除去シート全面からまんべんなく静電気が襲ってきたという感覚を表現したものであったようだ(笑)

(以上)

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