見出し画像

兄の瞳を通して見た神戸 (#あなたの神戸をおしえて)

「卒業したら働く。神戸に行くから。」

ガタガタンとダイニングチェアを無理矢理押し切って立つと、うつむいたまま食器を重ねながら兄は早口でそう言った。シンクにそれをガチャンと置くと、自分の部屋へ帰っていった。有無を言わせない、そんな頑なさが全身から出ていた。

確かその晩はトンカツだったと思う。確か両親は絶句して顔を見合わせたと思う。まだ小学生だった私と弟は、その空気感だけ察知して食べる手を止めた。兄は高校三年生だった。確か、十二月の寒い頃だったと思う。

ーーー

その時、もうすでに兄は神戸にある埋め立て工事の会社から内定をもらっていたのだと後に知った。一人で決めて一人で挑戦し一人で掴んだその未来を、私達家族は誰一人知らずに過ごしていたのだ。
そういえば、兄が家族と一言も話さなくなったり、あまり部屋から出てこなくなったりしたのはいつからだったろう。
あの部屋の中で、あの壁の向こうで、兄は大人に変わろうとしていたのだ。歳の離れた私は気づかずにいた。友達や弟と遊ぶことに夢中で。

ーーー

私は、いつも朝六時にはリビングのテレビをつける。五時台のこともよくあった。
誰も居ない静かなリビングで、アニメを見たりして過ごすひとりの時間が好きだった。
ある朝いつも通りテレビをつけるとアニメが映らなかった。チャンネルを回しても映るのは同じ映像ばかり。非日常的な現象にうまく思考が追いつかない。
アナウンスに耳を傾ける。切迫感と焦燥感しかないその声に画面の中の真っ暗な空と真っ赤な広がりのコントラストがひたりと重なる。
どれほどの間、目を見開き、ジッと見つめていただろう。ガスストーブのきつい温風に背中の皮膚が痒くなる。


「何これ…」
気づくと斜め後ろのドアの所に母が立っていた。
「地震…。神戸って言ってる…」
私がそう返すと、母は、画面を向いたまま絶句した。会話は終わったのだと理解した。今は何も言わないほうがいいと、私も画面に向き直った。

ーーー

それからたった数日後だった、兄が神戸へ発つ支度を始めたのは。持ち物を詰めたり、足りないものを買い足しに行ったりと家の中がバタバタしていた。私達小学生は蚊帳の外で、庭で雪だるまを作ったりしていた。

そして兄は神戸に行ってしまった。
震災後の復旧の為に早く来てくれと埋め立て工事の会社から召集がかかったのよと母が言った。そのために就職が早まったのだと。
卒業式にも出ずに、兄は一人で夜行バスで旅立った。

ーーー

お盆が近づく。
お正月が近づく。
すると、家の電話が鳴る。兄の声だ。セリフはいつも決まってる。
「何が欲しい?」
弟は、あれもこれもとせがむ。兄は笑っていいよと言う。私はいつも黙りこくる。欲しいものなんて何も無い。
「お兄ちゃんの話し方が変になったよ」とからかうように笑うと、「あれはオーサカベンというんだよ」と母は目尻を下げた。
青森の田舎に暮らす私達には、神戸も大阪も遠すぎて現実味のない世界で、ひっくるめて大きく一つだった。

兄が帰ってくる。彼はいつもドッサリ荷物を抱えて玄関の戸を明るく開ける。
たまに髪の毛の色が変わったり、どでかいバイクで登場したりした。
私の中に確かに居る無口な兄が、ガチャンとシンクにぶつかった食器の音が、伏せた目の冷淡さが、消えていくようで嬉しかった。
器用にオーサカベンを操り、色とりどりの物や話を連れ帰る兄の背後には、行ったことも見たこともない神戸の街並みが広がっていた。
明るく輝く洗練された、神戸の街並みが。

ーーー

「石の上にも三年」
旅立つ十八の兄に、大工の棟梁である職人気質な父が持たせた言葉だ。
きっかり三年後、兄は静かに退職した。
作業着を着て何かの操作室にいる仕事中の兄の写真を見たことがある。
うちの玄関の戸を弾けんばかりの熱量で開ける彼とは別人だった。そんな彼の背後には、何の街並みも見えてこなかった。
それがどんな理由か分からないが、仕事内容か人間関係かどんな理由かは分からないが、彼には三年間ひたすらに耐えていたのかも知れないと思った。虚ろな顔つきに、彼には居場所と呼べるものがずっと無かったのかも知れないと思った。
一人で決めて一人でバスに乗った青年には、戻る場所も無かったのだろう。
帰省するときでさえ、玄関前で立ち止まり、体中に元気や明るさを吹き込んでから、思い切って戸を開けていたのかもしれない。

兄が見た神戸を想像する。それは、破壊されたコンクリートを踏みながら、タバコ屋のおじさんに道を聞きながらたどり着いた場所であり、辛くても淋しくても父との約束を守ろうとした場所であり、人生最初の自分の決断を裏切れなかった場所であり、田舎の家族の存在を再確認した場所であり、大人に成るしかなかった場所だった。


兄が私達に見せようとした明るい都会の街並みよりもずっと奥深い、深い深い、人間の匂いがする場所だった。



ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!