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【驚かない人になりたいと思った】

突然に、心臓がハタリと止まる。
循環していた血液が、カチリと止まる。

顔を見た瞬間。
あの人の顔を見た瞬間。
ボコボコに溶けた、あの顔を見た瞬間。

バックパッカー・ノンフィクション──マレーシアの老人の目

         ∇∇∇

驚かない人が居ると聞いたことがある。

どういうことなのだろう。
「驚く」という感覚が欠落しているのだろうか。

どうもそうではないらしい。

世の中どんなことも起こり得ると思っているから、何が起こっても驚かないのだそうだ。
つまりは、その人にとったら、全てが想定内ということなのだろう。

そんな人になりたい。
心底そう思った、あのマレーシアの夜。

        ∇∇∇

私はマレーシア・クアラルンプールにいた。

安宿に荷物を置き、小さなボディバッグだけを斜めにかけて私は街を散策していた。
壁の落書きや、商店街の飾り付けや、眠そうな警備員。
そんな些細な日常の切り取りが、私にとっては価値あるものだった。
次々とこの目に飛び込んでくる景色に、私の脳と胸は素速く回転する。
歩いているだけで満たされる。

だから旅が、好きだ。

気づいたらいつの間にか日が暮れ始めていた。

急いで交差点の食堂に入り、鶏飯を注文する。
中華系の人々に混ざって黙々と食べ、早く宿に戻ろうと、店をあとにした。
早歩きの私の速度になぜか比例して、どんどん空は暗くなる。

必死に歩いていると、みるみる内に景色が変わっていった。
さっきまで賑やかな繁華街を闊歩していたはずなのに、もう店も人も見当たらず、暗い木々の中に大きな工事現場が見えてきた。
不気味だ。早くここを通り過ぎなくては。

もうここまで来ると、認めざるを得なかった。
認めてしまおう。

私は、迷子になっている。 

         ∇∇∇


「カシャン…」

とっくに作業員の居なくなったはずの工事現場の囲いフェンスが闇の中で静かに開き、数人の男達の影が入っていくのが見えた。

この木々の先にも灯りは見えない。

私は、サッと後ろを振り返ると、走り始めた。
これ以上、行ってはダメだ。
この闇は、危険だ。
ボディバッグをギュッと掴み、音もなく走った。

どれくらい走ったのだろう、いつの間にか、景色は明るくなっていた。

赤信号だ。
私は速度を緩めた。

         ∇∇∇

交差点に差し掛かった時、角の家から人がぬるっと出てきてかすりそうになった。

とっさに口から「すみませんっ」と飛び出す。

その老人がこちらを振り返ったその瞬間、
私の体の機能全てが唐突に停止した。

見たこともない顔だったのだ。
顔と呼んでいいのか分からないほどに。
鼻や口は、いくつものボコボコした凹凸に埋まっていた。
その凹凸は、まるで蝋に塗り固められたように光っていた。
不自然な、濡れたような、光沢。

体の奥から強い声が聞こえた。
驚くな、驚いてはだめだ、と。

老人は、固まる私の目に微笑みかけてきた。
ボコボコのコブに埋もれた小さな目が、細く垂れ下がって、優しく光っている。
蝋のような不自然な光沢の隙間から漏れる、優しい光。

私の本能が、笑えと言う。 
お前もちゃんと笑えと言う。
私は、こくりと唾を飲み込むと、キキキ…と口角をあげて、ぎこちない笑顔を造った。
老人は、そんな私を全て理解したかのように、人懐っこい垂れ目で微笑み返すと、静かに歩いていった。

        ∇∇∇

老人の後ろ姿を見送って、信号を振り返ると、すでに青色になって黄色になった所だった。

明るい街中にあって、古く簡素なトタンの家を見つめた。
ここに、住んでいるんだろうか、住んでいるんだろうな…。

どんな暮らしをしていて、どんな人なのかは分からない。
あの数々のこぶが、先天的なものなのか、後天的なものなのかは分からない。
どんな人生を送ってきたのかは分からない。

分からない、
あの優しく漏れる光以外は──。

驚かない人になりたいと、初めて強く、強く思った。
どんなことも起こり得る、どんな人も存在し得る、それが当たり前で、驚くことなど何もない。
そんな人になりたいと心底思った。

私は、あの人を傷つけただろうか。
固くこわばった頬を無理矢理引き上げた私の笑みは、彼を傷つけただろうか。
トボトボと歩きながら、胸はどんどん苦しくなった。

目の光だけで私の根底を揺るがしたあの人。
街角で一瞬交差しただけで、私の人生を揺るがしたあの人。


暗く沈み込む胸の奥にはあの優しい光が零れて、私を慰めるのだった。







ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!