日本人の「モラル」と世界は大きなズレがある

昨今、人々の心が次第に疲れ始めているのを感じる。SNSを見ればどこかで誰かが批判的な意見を言い、「モラルを問う」というフレーズで、誰かが何かを誰かのせいにしたりしている。人々はいつも以上に、この非常事態において本当の自分自身を露わにしてしまっているのかもしれない。

先日、私はパートナーと言い合いをした。私のパートナーはスラビック系(元ソビエト連邦国)のヨーロッパ人である。
私たちは一緒に住んで1年以上になるが、普段はお互いに仕事をしているため、やはり今のロックダウンという状況ほどに24時間一緒にいるということはなかった。というより、そんなカップルなかなか居ないと思う。
ともかく、その言い合いの内容は私が彼の意見に傷ついてしまうことが多かったからだ。スラビック系の人々は非常にストレートで正直な発言をする人が多く、ある意味人の気持ちなどはあまり考えない。ぶつかるときはぶつかり、分かり合えなければ喧嘩、みたいなことは彼らの日常には良くあることだ。
彼の意見も同様に、いつもストレートに問題点を突いてくるか、少し彼の個人的な意見に寄ったものだったりすることがある。

私にとってその内容は問題ではない。誰だって意見はあると思う。ただ、日本人としてまだ慣れられていない部分として、彼に「本音と建前」と「周りに合わせる」という概念がないことだ。


Ⅰ本音と建て前ー誤字修正モード

「本音と建て前」これは日本のモラルの中で最も重要なものかと思う。相手の気持ちを考え、実際にはそうでないこと・そう思っていないことを隠し、あえて相手が気を悪くしないように言葉を選ぶ。基本的にその上に、日本社会というのは成り立っていると思う。

私の考え方を客観的に見直してみると、やはり私もこの本音と建前に常に沿うように自動的に脳みそが考えるようになっている。まず、発言する際に「こう思うけど、これ言ったらこの人は傷ついちゃうよな」とか「この言い方したらたぶん相手は面白いと思わないな」という、現在の流行りの言葉でいえば忖度をオートで脳みそがする。感覚的に言えば、Wordとかで、誤字修正モードがオンになってるような感じ。

なので、自分からはどれだけそう思っていても、それを言わないかもしくは、人が傷つかないように語彙変換をしてから口にするようになっているので、それは言語に頼ったものでない。なので、いくら私たちが英語でコミュニケーションを取っていても、私のシステム自体は変わらない。

ところが、私の話す相手はその誤字修正モードが搭載されていない。なので自分の中で、自分は相手の気分を損ねないように話しているのに、相手は自分の言われたくないことをズケズケと言われている気がして、相手に対して不快感を感じてしまうことも少なくはない、というわけ。

Ⅱ「輪を乱さない」

日本で「本音と建前」に加えて大事なのが、「輪を乱さない」という概念。これはもしかしたら「空気を読む」という言葉にも近いかもしれない。

私がパートナーに言われて傷ついた時、私は彼にこう言った。「正論は良いし、自分の意見があるのは結構なことだけど、どうして人の気持ちを考えて発言できないの?私が悲しいと思ったら申し訳ないって気持ちにはならないの?」と言った際に「君がそう思うなら反論して、僕の意見を聞かなければいい。僕は自分が間違ったことをしたときにしか謝らないっていう教育を受けたから」という風な言い方をしていた。

たぶん、日本人が読んだら7-8割は「は?」となる発言かなーと思うのだが、要するに「意見は正直に言うのが正しく、誰かがそれによって傷ついたとしても謝るのは違う。なぜなら自分は自分の正義を貫くべきだから」というのが正しいらしい。
はっきり言って、未だに何を言ってるのか分からない。でもこれがもしヨーロッパの人の考え方だとしたら、今まで経験してきたことで納得できてしまうこともいっぱいあるのだ。

で、私がなぜ彼の言っていることが分からないか。というのは、日本人に「輪を乱さない」という感覚があるからだ。この考え方は、周囲にある程度の統一した世論があれば、それに倣うのが当たり前という考え方。周りがそういう雰囲気ならば、同調するべきというのが日本人の中には根強くある考え方だと思う。私にもこの要素がある。だから、私と彼の間の「輪」を私は崩さないように生活して居るのに、彼は簡単に崩してくる。だから私の中でもやっとしてしまうことがあるのだ。

Ⅲ 日本的考え方が生み出す、少数派という「絶対悪」

さて、私が今までの述べた「日本的考え方」。私は今まで外国人の知り合いとの経験も含め、これが良いことでもあるし悪いことでもあると考える。
まずマイナス面はマイノリティが肩身の狭い思いをするということ。
日本の考え方というのは、社会システムはそうでないのに、日本人全体が「社会主義」的考え方を生み出している。例えば、昨今の政府批判や、ルールに従わない人への批判は尋常ではない勢いを感じる。例えば昨今のコロナの問題でも、マジョリティと逆をする人間に対する非難の気が尋常ではない。だめとされていることを、良しと言う権利を社会全体が押し込める、そんな空気感があるのだ。
これを念頭に置いて、日本に起こっている問題を思い返すと、すべてがこれを起点にしていることに気づくことが出来る。日本で法律が変わりづらいのは、法律が「マジョリティ」として定着してしまっているから。芸能人や政治家の失敗には非常に厳しい。なぜなら彼らは「マイノリティ」を生業にしているから、さまざまな人がその人の失脚を付け狙っている。学校でも、「普通じゃないことが好き」な子ははじかれる。このような、全体に合わせるということが正義となりすぎて、単に個性として済まされることも絶対悪として弾かれることも日本社会では稀ではないと思う。

Ⅳ 日本的考え方がもたらす、理路整然とした社会

一方で、この考え方がもたらす良い点とはなんだろうか。それは、人々が見えないモラルに従うことによって社会が非常に整備された状態にキープできる、ということだ。

例えば、順番を守るとか、言われたルールには従うということがすぐに出来るし、周囲に迷惑をかけないように行動するというのが日本人の中では正義だからこそ、欧米諸国のような凶悪な事件などが起こりづらい。
また、事件などに関わらず、イギリスの郵便や医療などのシステムのずさんさなどを見ていると、どれだけ人々が責任を持たないかがわかる。働くうえで、周囲に迷惑がかかることをそこまで考えないのだ。自分がまず第一なので、自分の役割を果たせていればそれ以上の気遣いはしない。

昨今の、コロナウィルスについても同じことが言える。私はイギリスでコロナ感染拡大を受け、本当にイギリスの人々が利己的であることを思い知らされた。人の迷惑を考えない食料買い占め、トイレットペーパー買い占め、Social Distancingを全く考えない振る舞い、ロックダウン中の頻繁な外出など。日本でも同じことが起こっているとは言え、その程度は比較にならない。一か月経った未だに、品切れしている商品がある。

それに対し、日本では多くの人が、他の人に迷惑をかけないように自主的に自粛したり、買い物であっても必要以上にパニックを起こしたりせず買い物をしているし、マスクをして外出する人が9割以上と聞いた。利己的な人が圧倒的に少ないイメージがある。
そういった社会にストレスを抱えている人がいるのは紛れもない事実ではあるが、全体的に考えれば人々が他人を考えながら行動できることによって、その行動一つ一つが非常に整頓された社会を構築出来ているというのは間違いない。

Ⅴ 日本人が海外で生きていくために

ここまで、日本人の考え方と海外(主にヨーロッパ)での考え方がどう違うかという話をさせていただいた。結論として私が思うことは、日本社会というのはとても特殊で、その要素の一つ一つは相手を主体にして考える美しいものだと思う。そしてその考え方というのは、多くの海外の国の方々が持っている常識ではないということだ。
ただし、海外で住む場合・および海外の人と接していく場合には、ある程度の調整が必要だと感じる。
私の場合だと相手に過度に期待しすぎないことで解決した。私のパートナーの言動に対しても、悪気があって言っていることではないし、それが彼のマナー上では、気にかけている人に対してすることなのだと理解してから少しずつ、自分のマナーを押し付けるのではなくて、私が相手のマナーを理解するべきなのだと思うようになった。また、私のマナーも変えることなく、相手にわかってもらおうと押し付けるものでもないということだ。
また、日本人でないひとから学ぶ、何かを少し取り入れるというのも悪いことではない。

日本人側が「相手を気に掛ける方」にまわる可能性は、ほぼ90パーセント以上だ。当たり前だが、気が回る方が損をしたような気持ちになる。でもそれは、日本人同士ではない今、押し付けるのは「エゴ」でしかない。
本当の意味で自分のマナーをわかってもらうには、根気よく自分の信念を曲げないこと、そして過度に相手にわかってもらおうと押し付けない、広い心が必要だろう。そして、この感覚で生活をすることは、実は日本社会でも先述した「マイノリティを無意識に絶対悪に仕立て上げる」というモラルハラスメントが軽減されるかもしれない。

人々がストレスですり減っている今、ぶつかり合う人々を見てこんなことを書き綴ってみた。みんなが優しい気持ちで、明るい未来に向かえるといいですね。



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