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エッセイと、おはぎ。|エッセー


 エッセイってなんだろう、と考える。なんだかすごい本を書く作家の多くは、小説の傍(かたわ)らエッセイで個人の意見を述べているし、それはやっぱりとてもおもしろい、作家によってはエッセイの方がおもしろい人もいる。その「個人の意見」というのは例えば、「私はこの事象についてこれこれこうこう考えている。でもこれってこうかも、もしこうだったら。いやはや」としたものもそうだし、もちろんもっと、ふわっとしたものもそう。まるで詩のようなのもある。コラムとの使い分けルールはあれど、すべてがエッセイといえてしまうのか?
 大学で使っていたエッセイ、という言葉が示すのは小論文、なんてなんだかわかなくなる。ここで、こうやってまるで日記のように、考えごとをまとめて書いていると、学生のときに読んだ古典たちを思い出す。昔の人も私と同じように(もっとずっと上手に)つらつらと述べて、さらにそれを読んだ人もその感想をつらつらと述べて、私たちはそのようなものを学問として、ときには古典として扱っている。

 調べると、エッセイの語源は「試み」だって?という疑問でスタートを切ったあとすぐに私は、どれどれ、とずっしりと重たい緑のカバー『英語語源辞典』を開く。名詞の”essay”は「試み、試練」や「随筆、小論文」という意味があるという。試み、が語源にあるのには納得と新鮮さを感じた。私はよく、エッセイを実験的に書きたいと思っているから。前者「試み」はシェイクスピアのソネット(詩)で確認されたあとは、廃語になってしまったらしい。後者「随筆、小論文」はベーコンの著者名で使われたのが、近代的な意味としては最初のよう。遡るとフランス語、そしてラテン語へ派生・・・。
試み、と随筆や小論文とのつながりはまさしく、思考の試み、になるんじゃないかな。自由にやるぞ!って気概を感じる。そして長い長い歴史を経て、いまここで、エッセイとはなんだろう?と考えたりしているわけだ。これって実験的。これって試み?

 今回エッセイについてだけ考えて書くというより、なにか混ぜ物をして、楽しみたいと思っていた。混ぜ物。なんとなく鍋の中で、赤茶色のものをぐるぐると回しつづけるような。
 たとえば最近あんこをよく食べる。母親がたまに作るぜんざい、ときどき買う胡麻団子。いろいろな種類の大福に、おすそわけの定番おはぎ。甲乙はつけられないけどいちばん大事なのは、甘すぎないこと。すこし硬めの本物のもちごめも忘れちゃいけない。私の好きなおはぎは、まるで豆がカカオが濃いチョコレートのように感じられて風味がとてもたおやかに香る。だからそのあと私は、(本当に)チョコレートみたいでおいしい!、と言う。そのあとはいつも、おはぎ側に立ち複雑な感情が染み入ってくるのだ。だっておはぎの美味しさが、チョコレートの美味しさの上でしか語られないなんてとても悲しい。私の豆に関する表現力と語彙力が乏しいせいで。

 さて、こんなものもエッセイと読んでいいのだろうか?私は、これでいいのだと自信をもって言いたい。かつてエッセイが試みとともに意味がつながれた経緯もあると信じて、チラシの裏にも及ばないメモを残そうと思う。

 さいごに。
To write just treatises requireth leisure in the writer and leisure in the reader which is the cause which hath made me choose to write certain brief notes which I have called essays. ー「単なる論考を書くには、書き手にも読者にも時間が必要になるので、私はエッセイと呼ばれる簡潔なメモを書く。」(はじめて英語で”essay”と使われた時の、ベーコン卿による一文)
The Essaies Of Sr Francis Bacon Knight, The King's Solliciter Generall. Imprinted at London by Iohn Beale, 1612.



エッセー:エッセイと、おはぎ。
isshi@エッセー


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