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【読書感想】「私」はあのとき何をして何を見た?過去の記憶から残ったものとは。

1.『一人称単数』村上春樹

出版社:文藝春秋
発行年:2020/7/20
単行本:235ページ
カテゴリー:短編小説、青春、恋愛

村上春樹著の本作は、「女のいない男たち」(2014/4/18発行)以来の6年ぶりの短編小説集である。
長編小説の印象が強い村上春樹であるが、短編も長編に違わず面白く、語りや展開に「村上春樹らしさ」が溢れていて、魅力溢れる作品となっている。

それぞれの短編全てに言えることとして、全体的にリラックスしていて、良い意味で力が抜けている雰囲気があった。村上春樹も恐らくそれが狙いであったと思うし(狙いでなくても自然と)、読者である私も力を抜いて読むことができた。

比較的平易な文章で綴られていたこともあって非常に読みやすかったが、内容は例のごとく難解であった。何回も読む返すことで、さらに厚みが増し、価値が高まる作品であると感じた。

2.あらすじ

僕はある女性と一夜を共にしたことがある。しかしあれから顔を合わせていない。今では顔も名前も覚えていない。覚えているのは彼女の趣味が短歌を詠むこと、ということだけ──「石のまくら」

ぼくは、あまり親しくもない女の子にピアノの演奏会に招待された。不思議に思いながらも花束片手に会場に向かったが、そこではコンサートは開かれていなかった──「クリーム」

僕は大学生の頃、ある架空のレコードの評論を書いた。それから数年後、仕事で滞在していたニューヨークの中古レコード店でなんと存在しないはずのあの架空のレコードを見つけ──「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」

僕は薄暗く長い廊下で「ウィズ・ザ・ビートルズ」のLPを大事そうに抱えながら走る美しい少女に心惹かれた。しかし、それから僕は彼女を見かけることはなかった──「ウィズ・ザ・ビートルズ」

僕はヤクルトスワローズのファンだ。ホームグラウンドの明治神宮もどこか謙虚で穏やかで好きだ。しかし肝心のチームはというと勝ちより負けの方が圧倒的に多かった──「ヤクルトスワローズ詩集」

僕が彼女と出会ったのは演奏会の休憩時間。彼女はこれまで僕が知り合った中でもっとも醜い女性だったが、彼女も自分が醜いのを逆に楽しんでいるようだった──「謝肉祭(Carnaval)」

5年前、僕は群馬県の温泉町の鄙びた小さな旅館に泊まった。自分の他に客もおらず、ゆっくり温泉に浸かっていると、なんと人間の言葉を話す猿がやってきた──「品川猿の告白」

僕は普段スーツを着る機会がないので、たまに1人家で着てみたりする。その日は気持ちのいい春の宵で、スーツを着ながら地下にあるバーに行き、読書に耽っていると──「一人称単数」

3.一人称単数の「私」「僕」

8つすべての短編の共通点として、物語が「私」「僕」「ぼく」などの一人称単数のみで語られていることが挙げられる。

よって作者が実際に体験したことを小説にした私小説なのかと思ったが、そうではなかった。

村上春樹が実際に体験したことを描いた短編もあるが、「石のまくら」や「品川猿の告白」はどこか創造的な要素を感じる。

そんな「一人称単数」で村上春樹が伝えたかったことは次の帯に書かれていた文章に現れていると思う。

「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。そしてそこでは、私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。そこで何が起こり、何が起こらなかったのか? 「一人称単数」の世界にようこそ。

「私」や「僕」は一人称単数であり、「単眼」である。また「あなた」や「君」は二人称単数であり、「複眼」である。
世界とは「単眼」が複雑に絡み合った「複眼」なのであり、そこではもう誰も自分を維持できなくなる。つまり、自分を見失ってしまうのである。

この世の中は自分だけでなく、相手が存在することで成り立っているのであり、自己と他者の関係は思ったより混沌としていることに気付かなければならない、ということが本作のテーマの一つのように思う。

4.人生の教訓

本作は、人生を生きやすくするための教訓であったり、指針を与えてくれる小説でもあった。数々の話や名言が自分の心に空間をもたらしてくれた。

①価値あるものを手に入れるのは難しい
②記憶は最も貴重な感情的資産となる
③負けるが勝ち
④世界は見方ひとつでがらりと変わる

①価値あるものを手に入れるのは難しい

「クリーム」の「ぼく」と老人が会話するシーンで人生において大事なことを語っている。

「時間をかけて、手間を掛けて、その難しいことを成し遂げたときにな、それがそのまま人生のクリームになるんや」
「クリーム?」
「フランス語に『クレム・ド・ラ・クレム』という表現があるが、知ってるか?」
知らないと僕は言った。フランス語のことなんてぼくは何も知らない。
「〜人生の大事なエッセンス─それが『クレム・ド・ラ・クレム』なんや。わかるか?それ以外はな、みんなしょうもないつまらんことばっかりや」
                   本文p.42

その後「ぼく」は友人にこのように語っている。

「ぼくらの人生にはときとしてそういうことが持ち上がる。説明もつかないし筋も通らない、しかし心だけは深くかき乱されるような出来事が。そんなときは何も思わず何も考えず、ただ目を閉じてやり過ごしていくしかないんじゃないかな。大きな波の下をくぐり抜けるときのように」
                   本文p.46

「価値あるもの=人生のクリーム」として、それ以外はしょうもないこと、つまらないことなのだと捉えて何も気にせず生きていくべきだと老人と「ぼく」は言っている。

余計なことには気を使わず、難しいことを考えたり、わからないことをわかるようにするためだけに頭を使うことはとても難しいことではあるが、人生を生きやすくするためのメッセージであると感じた。

②記憶は最も貴重な感情的資産

現実の世界でそのような感覚(輝かしいときめき)がうまく得られない場合には、過去におけるその感覚の記憶を、自分の内側でそっとよみがえらせたものだ。
そのようにして、あるときには記憶は僕にとっての最も貴重な感情的資産のひとつとなり、生きていくためのよすがともなった。
                   本文p.77
「私は考えるのですが、愛というのは、我々がこうして生き続けていくために欠かすことのできない燃料であります。その愛はいつか終わるかもしれません。あるいはうまく結実しないかもしれません。しかしたとえ愛は消えても、愛がかなわなくても、自分が誰かを愛した、誰かに恋したという記憶をそのまま抱き続けることは出来ます。それもまた、我々にとっての貴重な熱源となります。」
                   本文p.205

上記の2つの文章のように本作では過去の記憶について多く語られています。
過去の輝かしい記憶やなんでもない記憶は確かに今の自分に大きく影響し、それによって今の自分が形成されていることを忘れてはいけない。そんな最も貴重な感情的資産を忘れてしまっては、人生の色も失ってしまう。本作ではこのことをほのかに主張しているように思う。

③負けるが勝ち

人生は勝つことより、負けることの方が数多いのだ。そして人生の本当の知恵は「どのように相手に勝つか」よりはむしろ、「どのように上手く負けるか」というところから育っていく。
                  本文p.131

もちろん勝つことも重要であるが、人生という長い期間で考えると、負けることで学んだこと、感じたことの方が価値があるというのはとても頷ける。

深くしゃがんだ方が高く跳べるように、「うまく負ける」ことが人生における最大のヒントであると学ぶことができた。

④世界は見方ひとつでがらりと変わる

月並みな意見かもしれないが、僕らの暮らしている世界のありようは往々にして、見方ひとつでがらりと転換してしまう。光線の受け方ひとつで陰が陽となり、陽が陰となる。正が負となり、負が正となる。
                  本文p.156
「私たちは誰しも、多かれ少なかれ仮面をかぶって生きている。全く仮面をかぶらずにこの熾烈な世界を生きていくことはとても出来ないから。悪霊の仮面の下には天使の素顔があり、天使の仮面の下には悪霊の素顔があるをどちらか一方だけということはありえない。それが私たちなのよ。」
                  本文p.171

この二元論のような考え方を知っていれば、何か辛いことや苦しいことがあったときの自分への処方箋として活用することができるのではないかと私は思う。

5.最後に

最後に本作のテーマを表している作中の文章を紹介する。

私のこれまでの人生にはいくつかの大事な分岐点があった。右と左、どちらにでも行くことが出来た。そして私はそのたびに右を選んだりら左を選んだりした。そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにはいなかったはずだ。
でもこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう?

なぜこの文章の語り手は、鏡に映る自分が自分ではないと思うのか、自分ではないとなぜ気づいたのかは本作を読んでみてのお楽しみである。
あなたも今の自分は本当の自分なのでしょうか。
都合よく相手に合わせて変形させてはいないでしょうか。

ぜひ本作を読んで、改めて一人称単数としての「私」を考え直してみてはいかがでしょうか。


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