京都の石屋【ISHIMO】 / 七代目 茂右衛門

東から西の京へ。“イジュー”し、早26年。 双六のように迷い廻って、気づけば緑寿。 こ…

京都の石屋【ISHIMO】 / 七代目 茂右衛門

東から西の京へ。“イジュー”し、早26年。 双六のように迷い廻って、気づけば緑寿。 この町で暮らし、感じ、染みたこと、色々。綴ります。ボチボチと(石屋だけに) https://kyoto-ishiya.jp/

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  • ボク・タイムス(号外)

    ボク(作者)のブログ・シリーズ枠外のブログです。号外って言うか、不定期なボク的ニュースなので、まだ無定型で、年に何号でるかも不明です。

  • 昭和をカタルシス

    昭和31年〜昭和64年まで約33年間。戦後の昭和を歩いた作者の“記憶の断片”に、時代背景やトレンド、ブーム等を織りまぜた昭和グラフィティ。(シリーズ未完)

  • 京から旅へ / インド編

    各宗派のお寺さんと一緒に、お釈迦様の四大聖地(ルンビニ、ブッダガヤ、サルナート、クシナガル)を巡る旅。仏陀の生涯とインド事情もわかる体験ルポ。

  • 京から旅へ

    四国遍路、熊野詣、伊勢式年遷宮、そしてインド。 仏跡巡礼、神も仏もまぜこぜの、旅の体験記。 京都を離れ思う、神への路、仏への道。

  • 京のヨモヤマ

    東京から京都に移住した“エセ京都人”の見るまま、気ままの「京都伝説」。プチ・ガイドブック。外から見るのと大違い。って、アルアル。ですね。

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ボク・タイムス(号外-1) ニャーニャンLINEスタンプ。できました

ボク・タイムス(号外-1) ニャーニャンLINEスタンプ。できましたボクが描いたキャラクター、ニャーニャンのLINEスタンプです。 LINE STORE で販売開始されました!! https://store.line.me/stickershop/product/21001506/ja “明るい毎日応援団。元気招き猫”のキャッチコピーで、オハヨウからオヤスミまで、24のスタイルが楽しめます。 「なんだかなァ」って思う事の多い毎日だから、親しい人との繋がりだけは、少しでも

    • 昭和をカタルシス[12] 場外乱闘

      場外乱闘と云えば、昔も今もプロレスの見せ「場」だ。 でも、最近はだいぶと過激になり、リング外だけでなく、 2階観客席まで乱入し、1階にレスラーが落ち、観客を 怪我させて訴訟問題になった、等のケースもあるようだ。 その点、昔の場外乱闘は、少し見せ方が違っていた。 試合の基本的展開は、ヒーローの日本人レスラーが、悪役 外人レスラーと戦い、苦戦して勝つ。と、云うのが多いが、 勝利までの間に、たびたび場外乱闘が見られた。 悪役を倒し、ワン、ツウー、スリーとカウントされて、勝

      • 昭和をカタルシス[11] 柿の葉天麩羅

        昔の家の裏庭には、もう一つ。思い出深い話がある。 「柿の葉の天麩羅」である。 裏庭には、大きなソメイヨシノがあって、その隣にも、 これまた大きな、柿の木がそびえていた。共にアメリカシロヒトリに、葉をかじられた仲だが、 柿はそれでも秋には、律義に大きな実を与えてくれた。 スィーツが溢れる今と違い、昔は、四季折々の果物が、 つくりだす甘味は、確かな自然の恵み。と感じられた。 だが、正直、裏庭の柿の実が甘かったか、渋かったか、 当時、あまりに幼すぎて、記憶が定かでない。

        • 昭和をカタルシス[10]ウラニワ…

          ウラニワ ニワ‥ ニワトリ は、いなかったが、代りに、昔の家の裏庭には、 多くの種類の樹木が植えられ、ノビノビと育っていた。 隣家に囲まれた庭なので、さほど、広くないとは思うが、 当時、小さかった私には、それなりに広く感じられた。 植えられている木は多種類で、高木では、柿、桃、桜の ソメイヨシノ、蘇鉄などは、勝手気ままに、伸び放題。 中木では、八重桜、青木、八手、南天、も一つ蘇鉄に、 あとは、名の知らぬ低木と、草が、ボウボウである。 亡き父は、いろいろな木を植えること

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          昭和をカタルシス[9]タコのウチ風呂

          今でこそ、家にお風呂(内風呂)がある事は、ごく普通だが、内風呂が普及したのも、前記のダイニングテーブルと同じく戦後、住いの洋風化を進めた、日本住宅公団のお陰である。 テレビの普及と共に、外国のテレビドラマに映し出される文化的でゆとりのある生活=アメリカンライフへの憧れも人々の間に、どんどんと高まっていった。 そんな背景の中、より、質の高い住まい方の提案として、公団は、寝食分離をめざすダイニングキッチンと、浴室のある住宅を大量に供給。 人々も憧れをもって買い求めた。その結果

          昭和をカタルシス[9]タコのウチ風呂

          昭和をカタルシス[8]窓際のダイニングテーブル

          ダイニングテーブルが、戦後、日本の家庭に普及し始めたのは、 昭和35年頃からのようである。 昭和30年後半に始まる神武景気と、昭和34年のいざなぎ景気の 波に乗り、さらに昭和35年に池田内閣が舵をきり、推進させた 国民所得倍増計画により、日本は奇跡的な経済成長を遂げる。 その間、日本人の生活スタイルも、和から洋へと変わるが、 昭和30年に設立された日本住宅公団が行った、住空間の提案と、 その後の計画的かつ、大量の住宅供給が与えた影響は少なくない。 特に昭和32年に発表し

          昭和をカタルシス[8]窓際のダイニングテーブル

          昭和をカタルシス[7] 忘れじの、東京タワー

          高さ333メートルを誇り、TVとFMラジオの総合電波塔として、戦後日本におけるメディア隆盛の一翼を担った、東京タワーは、まさに東京のシンボルであり、観光名所としても活躍をした。 そんな東京タワーは、昭和32年6月に着工し、翌年12月24日、クリスマスイブの朝9時から一般公開されている。 今年のイブ、開業55周年を迎える、渋い熟年の東京タワーだが、私には幼い頃、何度も連れて行ってもらった、想い出がある。 私の母は、東京三田、慶大の裏手にある、寺の娘として生れた。 付近は住

          昭和をカタルシス[7] 忘れじの、東京タワー

          昭和をカタルシス[6] 空想、掘り炬燵

          もし今、居酒屋を始めるのなら、靴を脱いで上るスペースには、 必ず“掘り炬燵”を置く。これが、大事な集客ポイントらしい。 何故なら、団塊ジュニア最後の昭和49年生れ(現39歳)をピークに 人口は減少し、若者が減っていること。さらに、30歳までの若い 人に、お酒を飲む習慣を持つ人が少なく、居酒屋離れが顕著な事。 反面、団塊の世代を初め年配者は、お酒を飲む習慣を持っていて、 居酒屋に行く人も多いが、加齢と共に足腰が弱まる人も増えて、 足に優しい“掘り炬燵”のある店が選ばれやすい

          昭和をカタルシス[6] 空想、掘り炬燵

          昭和をカタルシス[5] 天才・天然パーマ

          私の髪の毛は、父親譲りの天然パーマである。 今は髪にボリュームもなく、短いカットなので気にならないが、学生の時は、クルクルした、天然パーマの髪がとても嫌だった。 天然パーマは“天パー”や“クルクル頭”“ちぢれ毛”など、不名誉な呼び名も多く、寝ぐせは酷いし、櫛の通りも宜しくない。 幼児期は、流行りの(?)坊っちゃん刈なので、パーマ・パワーの、洗礼はないが、中学、高校生と髪を伸ばし始めると、とたんに、髪が主張し始め、特に外巻きの為、先がピンと跳ね上がっていた。 湿気を良く感知し

          昭和をカタルシス[5] 天才・天然パーマ

          昭和をカタルシス[4] 落ちたロイド眼鏡

          ロイド眼鏡と云えば、1920年代のサイレント映画で活躍したアメリカの喜劇役者ハロルド・ロイドが劇中で愛用していた、丸型レンズで、真ん中から弦の出ている眼鏡の愛称である。 ロイドは、チャップリンやキートンと並ぶ世界の三大喜劇王として日本でも人気が高かったようだが、無論、私が映画を観たのはずっと後で、チャップリンほど作品は知らない。 ロイド眼鏡と云う名前は、ロイドの名とセルロイド製の眼鏡、というダブルミーニングでつけられたそうだ。 日本でも戦前から愛用者が多かったが、今もクラ

          昭和をカタルシス[4] 落ちたロイド眼鏡

          昭和をカタルシス[3] 白黒テレビ君

          日本のテレビ放送は、NHKによって昭和28年2月1日に開始され、民放では、同じ年の8月28日に、日本テレビが開始している。 大相撲やプロ野球、プロレスなどの中継、記録映画などが放送されていたが、画像が逆さまに放送された事もあったようだ。 当時のテレビは勿論、ブラウン管による、白黒テレビである。 50cm四方位の箱に四隅の丸い画面が納められ、電源を入れるとブーンと低い音の後、しばらくして、ボワーッと画像が浮いてきた。 チャンネルは回転式で、ガチャガチャ回して選局されていた。

          昭和をカタルシス[3] 白黒テレビ君

          昭和をカタルシス[2] 高度経済成長

          私は東京の下町で生れ、中学二年まで、その町で暮らした。 家は、瀬戸物屋を営んでいた。祖父が始めた商売である。 「昔は問屋として羽振りが良く、土地も多くあって、 ○○さんの家の角まで、ぜ~んぶ、家の土地だったんだよ」 と小さい頃に聞かされたが、当時は、そんな名残はなく、 人気の無い町の、ただのちっちゃな“ちゃわん屋”だった。 記憶では、祖父はいつも、白いステテコと前開きの白シャツで、 椅子にドカッと座り、右手にハタキを持ち、人の采配をしていた。 ちゃわんを叩くハタキの布が

          昭和をカタルシス[2] 高度経済成長

          昭和をカタルシス[1]しらけ世代

          私が生まれたのは、昭和31年3月3日である。 昭和33年なら、3並びでもっと縁起良いかも知れんが‥ 昭和31年と言えば、経済白書が“もはや戦後ではない” と高らかに宣言した年であり、日本の高度経済成長の 始まりとなる神武景気に沸いた年でもある。 家庭では電気洗濯機、掃除機、冷蔵庫が三種の神器 として普及し、日本人の生活レベルが向上されていた。 とは云え、そんなことは生まれたばかりの赤ん坊には 知らん事で、後に「あぁそうなのか」と知る事だが‥ 私の生れた年の人間は、「し

          昭和をカタルシス[1]しらけ世代

          京から旅へ/インド仏跡巡礼(40・完)/サルナート④ダメーク大塔

          ダメーク大塔は大きく、見る者を圧倒する。が、どこか愛らしい。 角度にもよるが、ヌーボーみたいに目の離れた、ユルキャラが、 茶の烏帽子を被り、地面から顔を出しているみたい、だからだ。 とは言え、高さは43.6mm、底辺の直径も36.6mもあり、周囲だって、 単純に、直径×3.14で、計算しても114.9mはある。それだけに、 近づくほど、塔の巨大さと、人々の抱いた信仰の高さを感じる。 大きな砂岩を積んだ塔の周りには、アーチ状の小窓みたいな凹み が八か所あるが、この高さだ

          京から旅へ/インド仏跡巡礼(40・完)/サルナート④ダメーク大塔

          京から旅へ / インド編 インド仏跡巡礼(39)/サルナート④ 釈尊の“教え”四諦

          前回、釈尊(ブッダ)は、「中道」こそ、聖者が選ぶべき道だと修行者達に、自らの実体験を踏まえ、解り易く説いた。 そして、この「中道」を歩む為には“人生は全てが苦(一切皆苦)”だと云う真理を得ることが大切であり、さらに、そこを起点に展開される“教え”「四諦/したい」を学び、実践する事が必要だ。と話が進み、今回はその「四諦/したい」について、釈尊は語る。 釈尊、トイレ休憩から戻り、衣で手を拭きながら、開口一番。「人生は全てが“苦”なんドス。え~ナンデ、苦なん?ちゅう皆さんのお顔に

          京から旅へ / インド編 インド仏跡巡礼(39)/サルナート④ 釈尊の“教え”四諦

          京から旅へ / インド編 インド仏跡巡礼(38)/サルナート③ 釈尊の“教え”中道

          釈尊(ブッダ)、かく語りけり。と、前回の続きだが… 元々は紀元前463年に、古代インドの小国で生れた一人の王子が、 29歳で出家し、6年の修行後に悟り、それを「仏の教え」として、 インド国内外に広め、やがて世界三大宗教の一つとなったのも、 此処、サルナートで、釈尊が五人の修行僧に、初めて“教え”を 説いた(初転法輪)ことが、始まりである。 では、いったい釈尊(ブッダ)は、どんな“教え”を彼らに語り、 彼らの心や行動を変えさせたのだろうか? その“教え”とは何か? 此処が一

          京から旅へ / インド編 インド仏跡巡礼(38)/サルナート③ 釈尊の“教え”中道