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昭和をカタルシス[8]窓際のダイニングテーブル
ダイニングテーブルが、戦後、日本の家庭に普及し始めたのは、
昭和35年頃からのようである。
昭和30年後半に始まる神武景気と、昭和34年のいざなぎ景気の
波に乗り、さらに昭和35年に池田内閣が舵をきり、推進させた
国民所得倍増計画により、日本は奇跡的な経済成長を遂げる。
その間、日本人の生活スタイルも、和から洋へと変わるが、
昭和30年に設立された日本住宅公団が行った、住空間の提案と、
その後の計画的かつ、大量の住宅供給が与えた影響は少なくない。
特に昭和32年に発表した、DK(ダイニングキッチン)タイプの集合
住宅は、夫婦のプライバシーを重視した“食寝分離”の概念を
具現化したものだが、人々の洋風化にマッチし、人気を呼んだ。
堅牢な鉄筋コンクリート造に、お洒落なダイニングキッチン。
椅子とテーブルと、テレビのある、モダンで文化的な生活。
サラリーマンの羨望が入った「団地族」と云う呼び名も生れた。
そして、DKの普及と共に、ダイニングテーブルも広まって行く。
ダイニングテーブル以前、日本の食卓と云えば、ちゃぶ台である。
アニメ「巨人の星」で星一徹が“ちゃぶ台返し”をして有名になった
卓袱台(ちゃぶだい)が、お茶の間の顔として愛用されていたのだが‥
時代の変化とともに、やがて消えていく運命を辿って行った。
さて、ダイニングテーブルだが、昔の下町の家の台所にもあった。
台所は居間から続く奥の部屋で、縦に細長く、広い空間だった。
台所の右側には食器棚とガスコンロが二つ。並びに、石の流し台。
木の床は収納ができ、練炭や野菜、梅酒の瓶などが納まっていた。
話のダイニングテーブルは、左の壁際に寄せられ、置かれていた。
テーブルは、「ローラの家」にありそうな、木肌だけの素朴な品。
“ダイニング”と云うより“台所”の木製テーブルで、家庭科室の
調理台のように天板も厚く、横長でしっかりとした作りである。
![](https://assets.st-note.com/img/1665031674113-SChoYLdEjK.jpg)
据わる箇所には夫々、平たい引出しもあり、ナイフやフォークが、
きちんと並んで、入れられていたのだろうか?
と云うのは、このテーブルは昔、祖父と祖母が、親として家族を
構成していた大家族の時代から、この家に置かれていたようだ。
当時は父を長兄に、男4人、女4人の8人兄弟が、食卓に座っていた。
子供が多く、何とも賑やかで、逞しい食事の風景がイメージされる。
成人し、子供たちは家を出て行ったが、テーブルだけは残された。
食卓の役目を、居間の“掘り炬燵”に譲ったテーブルは、片側の
壁に押しつけられ、天板には大皿や鍋が重ねられ、薬缶や食パン
や 野菜なども置かれている。
さらに、テーブルの下にも、缶詰の段ボールや蜜柑箱が積み重ね、
バケツや雑巾も置かれた、モノを置く台と化していった。
いや失礼、見方を変えると、確かに、もはや「食卓」ではないが、
様々なモノが上にも下にも置けて、時に調理をする台にもなる、
便利で丈夫な、キッチンテーブルの役割を担っていた。のである。
時代の変化とともに、やがて消え去るものがある。
だが、時代の変化に合わせ役割を変え、生き続けられるものもある。
齢を重ねる程に、昔日の勢いは誰しも薄れていく。
それ故に、己のできる事、人の役に立てる事を考え、日々を生きる。
それが、窓や壁際に寄せられても生きる、智恵の一つかも知れない。
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