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昭和をカタルシス[3] 白黒テレビ君

日本のテレビ放送は、NHKによって昭和28年2月1日に開始され、民放では、同じ年の8月28日に、日本テレビが開始している。
大相撲やプロ野球、プロレスなどの中継、記録映画などが放送されていたが、画像が逆さまに放送された事もあったようだ。

当時のテレビは勿論、ブラウン管による、白黒テレビである。
50cm四方位の箱に四隅の丸い画面が納められ、電源を入れるとブーンと低い音の後、しばらくして、ボワーッと画像が浮いてきた。


チャンネルは回転式で、ガチャガチャ回して選局されていた。どの家も兄弟、親子間のチャンネル戦争は日常茶飯事であった。
中には、チャンネルを引っこ抜き、確保するツワモノもいた。

テレビの普及は、素晴らしい勢いで増え、昭和30年に10万台、昭和33年には、テレビの受信契約数が100万を突破している。
昭和34年のご結婚(皇太子と美智子様)まで続く、ミッチーブームもテレビ普及の大きな要因となったが、昭和35年にはカラーも本放送され、昭和37年には、早くも受信者1000万を突破している。

我が家に白黒テレビがお目見えしたのが、いつかは知らないが、近所ではまだ、テレビが無いご家庭の方が多かったと聞く。
プロレスの放送日はご近所の人が集まり、テレビが置いてある居間(兼寝室)や、縁側、そして店先にも人が溢れていたらしい。

我が家の“白黒テレビ君”は、四足動物のように細い美脚で、ご丁寧に埃除けの、お顔の画面を覆う、布が掛けられていた。
他の機種では、画面をしまう両開き扉付のテレビもあったと思う。

戦後の復興の中で、テレビと云う媒体の持つ、娯楽性や速報性、また臨場感、さらに皆が集まり、楽しく時間を共有できることが、どれ程、疲弊した人の心と日常を明るくしたか、想像に難くない。


ところで私の幼児期の記憶にはあまり“テレビ君”は登場しない。
NHKのブーフーウーや、ケベル先生は、何となく覚えているが‥

少年期でも家が店をしていた為、テレビのある親の部屋は、消灯が早く、流行りの青春物やザ・ガードマンも、あまり視ていない。
その代りに幼児期は、父親が毎日のように寝床で話をしてくれた。
せんべい蒲団に母と父の間で正に“川の字”で寝て、聞いていた。

猿飛び佐助や霧隠才蔵など、立川文庫に登場するヒーローものや、源の義経や那須与一、川中島などの合戦ものが多かった。
また少年期には兄たち所有の、分厚い世界文学全集の登場人物が、“テレビ君”の代りに、いろいろな時代や世界へと誘ってくれた。

あの時代、どの家も薄暗く、貧しく、モノなどない時代だったが、ただ、肌を寄せ合う人々の、“ぬくもり”は多かった。そんな思いがする。

(2013年10月12日 記)

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