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昭和をカタルシス[7] 忘れじの、東京タワー

高さ333メートルを誇り、TVとFMラジオの総合電波塔として、戦後日本におけるメディア隆盛の一翼を担った、東京タワーは、まさに東京のシンボルであり、観光名所としても活躍をした。

そんな東京タワーは、昭和32年6月に着工し、翌年12月24日、クリスマスイブの朝9時から一般公開されている。

今年のイブ、開業55周年を迎える、渋い熟年の東京タワーだが、私には幼い頃、何度も連れて行ってもらった、想い出がある。


私の母は、東京三田、慶大の裏手にある、寺の娘として生れた。
付近は住宅より、大使館や学校などのが多く、静かな所である。寺は高台にあり、どの道でも、長い坂道を上らねばならないが、麻布十番へ向う坂では、東京タワーが大きく目の高さに見えた。
坂から見る昼のタワーはスモッグの為か、少しボンヤリしてた。

母の父は、その宗派では実力者で、米国使節の団長も務めたが、幼い私が知るのは、デンとして鰻が大好きなオジィさんだった。
特に麻布十番の鰻屋が贔屓で、鰻重が毎日のように出前された。

母は七人兄弟。戦死された兄と、弟と、五姉妹。の次女である。母は、ほがらかで、優しく、皆に慕われるお嬢さんだった。と、母方、父方両方の叔父叔母から、同じ評判を伺っている。
母の姉と妹は同じ宗派で、共に立派な、お寺の奥さんになった。
母はそうでなく、瀬戸物問屋の息子の父と見合いし、結婚した。

母のお嬢さんぶりは、古びたアルバムにある、写真でもわかる。
綺麗な打掛に角隠しを被り、スッと背筋を伸ばし、椅子に掛け、色白で愛らしい顔立ちで、じっと、真直ぐ前を見つめている。
何の穢れも、迷いも、恐れも、疑いもない、美しい乙女の顔だ。
それは、私の知らない母の「母」となる以前の、母の顔である。

父と母のお陰で私は、今がある事を心から感謝している。が、母には、女として別の道があったのではと、思う時もある。
私は子供の頃、母が自分の物を買う姿をあまり見たことが無い。
そのぶんを家計や子供に、やり繰りをしてくれていたのだろう‥
お金が無い事は、お嬢さん育ちの母には、辛さより悲しい現実だったと思う。


母は毎年、必ず春秋の彼岸に実家に帰り、手伝いをしていた。お参りされる檀家さんの接客や、精進料理を作るために。たぶん、多少のお小遣いを得て、生活の足しにしてたのだろう。
母が行く日は必ず、私も連れられたが、本堂や墓地で一人遊ぶ事もできず、ただ、家に帰るまでの長い時間を持て余していた。

そんな姿を見かね、彼岸で帰った叔父や叔母が、東京タワーへ幾度となく連れて行ってくれた。
当時、東京の子が何度もタワーに行くのは、珍しかったと思う。

スマップの歌ように、土産物に「努力」と「根性」の字が書いてあったかは知らないが、行く度に玩具や菓子を買って貰った。
寺へ帰ると台所で母が、申し訳なさそうに、お礼を言っていた。
母のぬくもりに繋がれ、家へ帰る道すがら、街灯りに浮かぶ東京タワーは、不規則な灯りを、ポッ、ポッと点滅し現れては、フッと闇に溶けていく。
繰り返す、その様は、美しくもあり、少し、悲しげでもあった。

(2013年11月1日 記)

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