見出し画像

お局スパイラル構造をなぜ看護業界は克服できないのか?

 久々の記事投稿となりました、お久しぶりです。イシダケイタです。twitterなどをやっていて思った事、気になることかなこれはということをテーマとしてピックアップして記事を作成しています。あくまでも自分の考えといいますか、独断と偏見と攻撃性に満ち溢れた記事ですので、ご了承下さい。またネタ半分で読んでいただけると参考です。今回は、看護業界に根強く存在し続ける「お局」についてです。

そもそもお局とは?


 看護業界で務めている方はもちろん、看護学生、更には他の医療従事者の方でも一度は「お局」というワードを聞いたことがあるかと思います。先に述べておきます、まず前提として、お局という言葉は人を侮辱する言葉となりますので気軽に使うべきではないワード、という事だけは覚えておいてください。ですが…まあ腹もたてばそれくらい言ってやりたくもなりますよね。幅広い世代から理解される共通語でもあるため、飲みの席の話のネタ/愚痴としても良く聞かれます。

 尚、男性であれば「老中」「古狸」「長老」なんて言葉もあるみたいですが「O-TSU-BO-NE!!」のようなパワーはありませんね。

 そんな「お局」という言葉の意味は、話している人とその言葉を受け取った人で感じるイメージが異なるやすい言葉でもあります。定義が幅広い事もあって、それぞれの思うお局が異なるケースは少なくありません。
 ですので、ニュアンス違いが起きると適切に意図が伝わりにくくなります。そこでまずは、本記事におけるざっくりとした「お局」の定義を決めましょう。次のように定義します。

  1. スキル自体はあるが、他社会での経験は浅く主観で物事を語りがち

  2. 自身より立場が下だと思われる者に対し尊大な振る舞い、意地が悪い

  3. 自身の精神状態に左右され、場の空気を乱す

  4. 自分の立場にそぐわない言動を他者にする


 これらが、私が考える「お局」の定義となります。1についてはスキルフルであることは認めますが、他社会の経験や常識に欠いている事も多く、本人が経験した内容を全ととってしまいその経験から主観的に物事を語りがちです。特定病院に長く勤めれば勤めるほど、そこでは評価されていきますし看護技術などは優れているものの、人としてどうなのかという視点においてはジレンマに陥るという事です。

 2、3についてお局が病棟環境などに及ぼす大きな大きな問題ですし、連動しています。概ね自分の機嫌が優先で、看護提供自体にまで影響することはありませんが、病棟内での不必要なピリつきが生じる原因です。また自身からみて明らかに後輩などに対して厳しい言動が多く、フォローもありません。認めてやんよ…みたいな言動が出来る人はお局とは言いません。
 後、お局はいじめの要因となるケースも有り自分の取り巻きをつくって新人いびりを始めるパターンもあります。このタイプはより一層厄介です。

 そして、4ですね。異性のDrに対して過剰にすり寄っていく姿だったりを見たことはありますよね?コミュニケーション方法が歪である事も少なくないです。また管理職でもないのに経験があるというだけで、尊大な振る舞いを3で上げた人だけでなく上司に対してもするお局もいます。媚びへつらうタイプと自分が一番だというスタイルのお局の2パターンがあるといえます。

 さて、ここからはお局の条件に当てはまらないものについてです。多くの場面で独身女性である事や、ベテランスタッフである事が挙げられますが、それらは条件ではないです。なぜなら中堅なのに既にお局みたいなパターンもあります。また独身かどうかでも決まりません。子持ちのお局もいれば、結婚ほやほやで態度が丸くなっただけで本質的にはお局という人も存在します。で、上記の1-4を満たす人でたまたま独身であったりする事に対して、侮蔑的なニュアンスで使っているから混同してしまうのです。


 
私は「お局とは、主に精神性の問題である」と考えています。ですので年齢や本人の状況ではありません。

 なお、お局で自虐できるタイプは少ないです。自己を客観視出来ていない結果がお局を生み出すため、基本的には自虐できず仮に冗談でも「おつぼね」と言われると、仮にその場でごまかしても後にブチギレます。

なぜ看護業界にお局が多いのか?


 では、なぜ看護業界にお局が一大派閥として強く根付いているのかです。まず前提として、看護の世界の特殊性を知ることが解決させる鍵となるのではないでしょうか?

 まず看護師という仕事についてです。生命・健康を扱う仕事内容は単純にストレスを抱えやすいものです。更に不規則な勤務体系などから本人の健康が蔑ろになっているという認識に至りやすいなどの環境要因があります。
 また今では理不尽な要求に対しても接遇が求められる時代ですので、強い言葉を向けられるなど精神的に擦り減らしていく事も少なくはないです。
 それらを同僚に対して愚痴るのであれば良いのですが、当たるという人も中にはいます。はけ口を見つけられないで人に当たる人、これがお局になっていく人の抱える条件かもしれません。

 確かにストレスを抱えていると、適切な言葉遣いをしない人も一定数あらわれていきます。仕事の質も下がっていきます。そこで立ち止まって、ダメなことだと自己の振り返りができればいいんですが、そうはならないのがお局です。また若手の頃にあったはずの、指導されるべきタイミングを逃して今に至るという訳です。

 更に外部の情報・空気を取り入れにくいという構造上の問題があります。

 まず看護学校の話からしましょうか。今でこそ大学が増えており透明性があがってきています。また看護教育の指導カリキュラム自体も厚生省に基づくものです。ですが、それでも不透明な事が多いんですよね。募集要項だけでは絶対に分からない。
 学校ごとのカラーが大きく違いますが、どんな教育をしているのかとか外部はほとんど知らないんですね。実際、大抵の看護学校では脈々と誤った体育会系のノリが続いています。更に縦割り社会で、上からの命令は絶対という指導をしているケースも少なくありません。

 看護学校自体でのいじめ問題(これは学生同士だけではなく教員によるいじめ)もありましたよね。また入学者と卒業者の人数差が激しいケースも少なくないですよね。このような問題、ある種の不全状態であるにもかかわらずそういった点に着目せず放置してきた事も要因にあると私は考えています。

 就職についてもそうです。専門学校卒業後には指定病院へと進むというケースが多く、その先輩たちも同じ専門学校を卒業した人達であれば在る一つのシステムが脈々と受け継がれやすくなります。つまり、看護学校から続く看護教育は、ある種閉鎖性の高いシステムとなっているのです。

 一般企業づとめから看護師に転職するケースも最近は見られますが、やはり多くの場合は高卒→看護学校→看護師を経た病院勤務です。ですので、他の社会・ビジネス的なスキルなどがないまま閉鎖的な環境で仕事を続けるという事で一つの価値観だけを醸成してしまいます。その環境で行われる事が絶対であり正しいと誤認してしまう事で、その病院らしい看護師が生まれるという訳です。

 ここで当人に対して問題意識があり現状のやり方はダメだと思ったとしても、この構造からは中々逃れられません。新人の頃にいびられた経験をした看護師さんのほとんどは、あんな看護師にならないと誓ったはずです。しかし、そういった看護師さんのほうが多くの場合でお局に転生します(もちろん全員でもないです、元の人格によってお局回避するケースもあります)

 これはなぜか。やはり人は経験したことを軸に考えて、経験を受けた通りに指導などを行ってしまうという事にあると私は考えています。
 現状のやり方がダメではないかと考える人は、それなりに自分の状況を疑う姿勢を持っています。しかし指導をしているお局は、指導できる位には看護スキルが満たされており、病棟としてもある程度必要な人材となっています。すでに認められた存在です。そんな認められた存在である自分を疑うこと、果たして出来ますか?そうです、組織に取り込まれていくのです。

 この時期ですが、やはりプリセプターなどになるような時期から次第にお局転生が始まっていくものだと感じます。お礼奉公後も職員として残るようになればなるほど転生しやすくなります。つまり、外部からの異物ではなく内部の人間として取り込まれていく事がきっかけになりえるという事です。

 このように考えると、一つの指導体系が組み上がってしまえばよほどの問題が起きない限り指導体系が変革することはありません。激しい離職が続くなど、問題が明らかに浮き彫りにでもならなければ…です。
 これは一般的な企業においても当てはまります。「近頃の若いものは」と考える先輩を思い描いて考えるとわかりやすいかもしれません。

ここまで振り返ってきました。お局が看護業界に多い要因をまとめると次のようになると思います。

  1. 仕事内容にストレスを抱えやすく、うまく発散できない

  2. 構造化された閉鎖環境であり同じ指導体系を繰り返す

  3. お局になった時点で本人には一定の社会的地位が付与されている


そして、このお局が2の要因を軸として再生産される様子、これがタイトルにあげて私が勝手に命名した…
「お局スパイラル構造」(お局スパイラル理論/お局らせん理論)となります。

お局スパイラル構造を解体するには?


 お局スパイラル構造の解体を考えた時、まずお局自体が変化することを期待するのはやめましょう。そこを期待してわれわれは行動してしまいますが、それが出来ないから今に至っています。克服できないのは、お局サイドをどうにか出来ないか、と期待するからです。
 本質的なお局は自分をお局とは認識していません。そのため、お局でないと思っている人にあなたの振る舞いはお局よ、ダメじゃないの!という事はトラブルになるだけですし正直お局を変化させることは難しいといわざるを得ません。

 仮にできる人はお局よりも管理的な権限などがある人です。またそのタイミングもお局サイドが弱っている、もしくはお局がなにか大きなミスをした時に気づいてもらうという事でしか解決できません。
 ある意味ではお局が自らを振り返って過ちを理解した時、初めて当該人物がお局から解き放たれる可能性が産まれるという事ともいえます。

 では現代を生きる我々に出来ることは、このお局らせん構造を生み出さないための賢明な新人を育てていくという事となります。
 お局は精神性だと私は述べました。またお局が生まれる構造には、特定の価値観だけをもって育ち、それを疑わなくなるという事も。
 それらを避けるためには幅広い価値観を持ち、常に今の自分の行動は正しかったのかと振り返る姿勢相手を尊重する姿勢こそがお局になることを回避するための前提条件だと私は考えています。

 まず考えの絶対性ですが、ある専門学校や看護大学で学んだことは絶対ではありません。状況に応じて絶対が絶対でなくなることもしばしばあります。例を上げれば根幹である看護技術でさえも、今の時点で学ぶ事が数十年後に変わっている事もあれば、数年単位で改められている事だってあります。この世の中に絶対的な価値観はありません。それをまず思っていただければ幸いです。

 また根源的な話で言えば、お局は自己の考えを絶対と捉えています(絶対はないのに、お局はそう思っているのです)
 この姿勢は他者をある意味では否定している事ともいえます。これは、果たして正しいことでしょうか?
 例えば新人さんについて例を上げるなら…看護師としては新人です。しかし、看護師である前に一人の人です。また、後輩ナースもそうです。
 若手はお局から見れば、たまたま後に産まれてきて、同じ道を歩んでいる人というだけですよね。業務や技術に関してはたしかに先輩看護師に優位性はあるんですが、人間力という視点においては必ずしも優位だとは限りませんよね。この点においては時間軸上で違う地点にいる、というだけの話になります。つまり眼の前の人は、若手看護師である前にその人。そういう意識が既に働いている看護師らに必要という事です。

 そのような様々な価値観・視点を持つためには看護の書物もそうですが、看護以外の書物を読んだり、看護師以外の友人と交流することも大切だと感じます。看護業界だけに身をおくことは一つのスキルを磨き上げる、スペシャリストの道だと言えます。しかし、現在の社会ではマルチに活躍できるジェネラリストが求められていますよね?であれば、様々な考え方を知る事が大切ではないかと私は思いますし…やはりビジネス的な思考能力が高まっていくべきではないかと。

 そして、もう一つ。お局がいて、その会社がお局の存在を是としていて、明らかに逸脱していると考える時です。指導体系なども歪んでいて、修正が効かないケース。これについては自身の地位などを上げて直すということも一つですが、ある程度年数がいったら退職し別のフィールドで戦うというのも一つです。

 ある一つの構造を変化させるタイミングは働きかけだけでは難しいのが現状です。あなたがどれだけ強い熱意でお局の体制を変えようとしても、すぐには変わらず疲弊するだけかもしれません。そんなときは、まだ見ぬ新人さんのためだけではなく、まずは自分のために行動してください。お局とはほどほどの距離でうまくやることも必要にはなりますが、基本的にはお局文化が薄い所で働けるほうが幸せになる確率は高いためです。

 まずはあなたの健康を大切に、そしてお局にはならないで

最後に


 最後になりますが。お局らは時に論理性を失った形で自己の考えを押し付けてくるときがあります。「こういうきまり」「こういう文化」なのと。

 文化、きまりに関して明確に規定されているのであれば、それに従うのが職業人です。しかしあやふやに決められているものや病院ルールが社会とくらべて明らかに逸脱しているときは、それは正しくありません。
 そもそも、伝統という物自体その場で生まれるものではなく政治的な考え方で言えば後の社会からみて都合がいいので作り出されるものです。昔はよかった、昔はこうだったという価値観などもすべて、後の社会から評価したものです。

 指導者もまた人間です。間違えることもあります。ですが、間違えたことを間違えていると認識できない人はやはりよくない。間違えを許容し頭を下げれる人間にならないと。私自身もそう思っています。

 なお、お局を今回の記事では「絶対的悪」としましたが、善悪で考えるとやはり善のパワーが弱い事で「悪」にせざるを得ないパワーバランスが働いているのかもしれません。お局に負けるのは弱者であり、それを善としたいだけに過ぎないのかもしれません。まあそもそも善悪で語れるものでもないのかもしれませんが…。それでは、また。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?