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無知な僕たちはどう生きるか

ジブリの「君たちはどう生きるか / How Do You Live」公開直前。世を憂い続けた神オタ作家、パヤオ御大82歳のビッグバジェット自主制作で、おそらく遺作。哲学的テーマの匂わせ、パヤオ半生記を絡めた冒険活劇、そして事前プロモ一切無し。この時代感の読み方と仕掛け方、鈴木敏夫もまだまだ現役ですね。タイ人彼女も伊達じゃない。一時代を作ったパヤオ敏夫コンビが、最後に今のこの時代をどう見て、未来に何を投げかけるのか。やべえ普通に僕の大好物なやつっぽい

…とはいえ、ここイギリスでの公開は例によって数ヶ月遅れになるだろうって事で、僕は毎度のおあずけ刑です。という訳で、悔し紛れにタイトル便乗で、映画とは無関係に書いてみようと思います。

それにしても「どう生きるか」とか、どストレートど真ん中な哲学テーマです。昨今、複数のエラい人達が「AIの発達により、人間が労働から解放される世界」について予想してて、「歴史的にも、食う心配もなく、差し迫った危険もなくなり暇になった人間は、だいたい哲学的思考を始める」と言っています。「本質的な部分への掘り下げが進み、経済合理性に左右されない、純粋でベーシックな生産消費活動へと移行する」とかなんとか。僕個人的には、人間そんなに賢い動物じゃないんじゃねと思うし、僕自身もたぶん、相変わらずどうしようもない欲望まみれ底辺ドラマにグダグダ揉まれながら人生を終えるんだろうと思いますが、確かに賢い人たちは、僕の想像も及ばないようなもっと賢い世界にシフトアップしていきそうな気もします。まさにナウシカ7巻の「完璧新人類 vs 血を吐きながら飛ぶ鳥」論争に、現実が追いつきつつあります。


賢い人ってどんな人なの

一般的に「知識人・有識者」と呼ばれるのは、知識のある人、色んな事を知ってる人です。で、その逆は「無知」になります。物事を知らない人の事です。説明するまでもなくこの時点で既にもう頭悪そうです。だいぶ前にも「賢者」について言及した事があるし、ついこないだも「文字が読めない人たち」的な事を書きましたが、「読書をしない人はバカ」的ステレオタイプってありますよね。逆に、読書家ってのは確かに賢そうなイメージあります。じゃあ果たして「知識量=賢い」は本当なのか。

読書という行為は「情報を得る」という作業です。つまり「データ入力」「インプット」です。脳で物事を考えるためには、脳内に考えの元となるデータが必要で、その参照データが多い程、多面的な思考が可能になります。人はそれを「思考回路」と呼びます。つまり読書とは、様々なデータをローカルメモリにダウンロードして思考回路を形成する作業で、データひとつひとつの質よりも、絶対量が重要になります。読む本を吟味してる暇があったら、どんな本でもいいから片っ端から全部読め、という事です。読んだものの内容を全て完璧に覚える必要なんてありません。読み切らなくてもOK。読んだ後ですっかり忘れたってOKです。大量のデータを「1回脳に通す」事でライブラリ生成されるというプロセスが重要なのです。つまり「思考」するには「物知り」である方が良いという事ですね。

分かり易く例えるなら、もしWikipediaの全情報を読んだとしたら、無数の事柄の存在、概要、背景、関連性、それらの整理・思考方法に至るまで、網羅的に知ってる状態になる訳です。ひとつひとつの情報の確度が100%でなかったとしても、その他の情報網で補完修正可能になります。そして、それらのデータを元にして思考できるようになります。そんな状態になった人は、そらもう賢い人と呼んで間違いないでしょう。

データ総量が臨界点を超えると、そのシステムは突然化けます。ChatGPTだって、参照データサイズが小さかった時はゴミでした。そのアルゴリズムに大量の参照データを食わせた事で突如大化けした訳です。GPT4に至ってはリアルタイムでネットに繋がっているので、文字通り「Wikipediaを全部読んだ人」に近い訳で、そんなAIは賢いAIに間違いないのです。

ちなみに記憶能力や計算能力は学力テストを突破するスキルデータセットに過ぎません。もちろん持ってるに越した事はないですが、これしか持ってない人というのが「勉強できるバカ」の正体で、学歴が必ずしも思考力や賢さを保証しない所以です。更に言えば、記憶や計算などの学力スキルにおいては、人間はもう未来永劫AIに勝てないので、その価値は今後更に下がりそうです。むしろ、子供には図鑑セットiPad版を与える方が、出発点としては理に適ってそうですね。

賢くなるにはどうすりゃいいの

小説「君たちはどう生きるか」のコペルくんは、素粒子や細胞群に関する知識を得る事で、人間社会とのフラクタル構造を見出し、自らをもメタ認知する事に成功しました(この地動説的発想転換がコペルというあだ名の由来です)。このひらめきエウレカ現象は、脳内にあった独立した異なるデータ同士の接続によって起こります。セレンディピティとかアハ体験とか言ったりもしますね。ちなみに仏教哲学ナウシカヒロアカ三銃士でも「全個一体」的話は出てくるので、もしコペルくんがそのデータも持っていたら、更なる連鎖接続でテンション爆上げだったでしょうね。その連想遊びによって起こる「パズドラ20連鎖コンボ(古)」みたいな瞬間こそが、知識を持つ事で得られるエクスタシーです。賢い人たちはそういう遊びで快感脳汁をゲットしているのです。

僕らは毎日ネットやテレビから情報を得てはいる訳ですが、これらから得られる情報量は薄過ぎるし偏り過ぎという事です。「知識があるのにアホな人」は単純に「データ総量が足りてない」と言えます。例えば某アイドルについて完璧な知識を持っていても、それ以外のデータが無ければ接続連鎖は起きません。にわかです。脳汁出ません。

一方「本」というメディアの情報は、ネットやテレビとはデータの種類も質も異なります。「本」とはそれぞれの専門家が専門分野について嬉々として解説している、いわば「ボクのオタク日記」です。例えば100冊のオタク日記を読んだとしたら、それは様々な分野のかなり特殊で濃密なデータをダウンロードした事になります。テーマは何でもいいから「知らない事を知る」事が価値であり、知的好奇心は脳の大好物でもあります。脳汁出ます。

そうやってデータ総量が増えてくると、まったく異なる分野のデータ群が、ある時あるきっかけでうっかり接続してしまい、そこから連鎖発動してエウレカフィニッシュという事が起きます。仏教と量子論が繋がったり、歴史哲学と宇宙科学が繋がったり、生物進化学・脳科学・社会心理学が互いを補完し合ったりし始めます。ドットが繋がって線になり、線が曼荼羅となった挙句に悟りの境地へ至るみたいな。脳汁出まくります。

これも以前書いたブリコラージュ」や「創発」に通ずるものがあります。横文字で「エマージェンス」。かっこいい。「ものを組み合わせて、別の何かを生み出す」というその活動自体が、生命の根源的な活動だし、素粒子から大宇宙の全てのスケールで起こっている事象です。

例えばレゴブロック一つでは遊びようも無いですが、ブロックが100個あれば、組み合わせてあれやこれやと色々遊べるようになりますよね。例えば絵画鑑賞するにしても、その絵についてのウンチク、構図や技法、流行や素材、作者のキャラやストーリー、その時代の潮流などの背景情報(ナラティブ)を知ってると、美術館はたまらなく楽しい遊び場になる訳です。

「自分は頭悪いから」と思って諦めてる人も、とりあえず何も考えずに、ひたすら知識を入れていけば(途中で、ウンチク多い、理屈っぽいとウザがられながらも)、ある時エウレカ現象を体験し、そしてある時ふと「賢い人」と呼ばれます。そしてそのレベルに到達した人は思うのです。「賢いとかとんでもないわ」「自分の無知さにビビる」「この世界のあまりの果てしなさに震える」と。

「無知の知」の知

そういう事を言ったのが、屁理屈論破王のソクラテスさんです。「私は自分が何も知らないという事を知っている(ドヤ)」って、最初聞いた時「何言ってんだこの爺さん」と思ったもんです。でも色々見聞きしていると、どうやら「賢くなればなる程、自分のちっぽけさをメタ認知してしまう」という現象は往々にして起こるようです。故に本当に賢い人はドヤったりしないのです。

ただ、それは「自分なんてゴミカスだ死のう」みたいなネガ鬱的なものではなく、「自分は限りなく小さい一素子に過ぎないけど、それでも大構成の一旦を担う確かな存在」みたいな、悟っちゃってる系の心境っぽいです。コペルくんも到達した、全個一体の達観領域ですね。そういや僕も自分の漫画で「俺は宇宙で宇宙は俺」みたいなの描いた事あります。メタ認知の一つのチェックポイントです。

無知な僕たちはどう生きるか

近い未来、テックが行き着いて、欲望全開ボトムレス大量消費ももはや持続不可能になった時代。人間はバチクソ暇になって、そして加速する哲学思想。そんな世界でエウレカ脳汁を得るためには教養が必要になります。そして教養の基礎となるのは知識量です。今の内からChatGPTとかに色々教えてもらって、データ入れてちょっと賢くなっておかないと、将来暇過ぎて退屈死してしまうかもしれません。漫画「寄生獣」の最終回で、学習し尽くしたミギーが「外部からの情報収集は一旦終了して、これから内部にある情報をこねくりまわしてみる」的な事を言って消失したのを思い出します。

ポスト資本主義世界で僕たちがやるべき事は「好きな事」一択です。自分が好きで得意で、幾らでもやり続けられるような事を、ただやる。だって「好きな事」こそがその人の天性の才能であり、個性でありやるべき事、更には生まれてきた意味、存在意義なんだから。消費だけでなく、組み合わせて生み出す。自分もオタク日記書いてシェアすればいい。人類の集合知に新たなデータをひとつ付け足す。金にならなくても、いいね貰えなくても関係ない。一握りの人たちでもそれを喜んでくれたら、もうその価値は完了です。ただ食べて加工して出すを繰り返すバクテリアのように、ただナチュラルに好きな事をする。消費して加工して産出する。資本主義以前の普通の状態に戻るだけです。たった100年前くらいまで、みんなそうやって生きてたんです。本当は「どう生きるか」なんて考える必要もないのです。

他人より稼いで、できるだけ大量に稼いで、成功して、飲んで食って、服や車や家買って、旅行してパーティして。自分の人生を全て金に変換して、とにかく消費の限りを尽くす。それをキラキラインスタで自慢して、マウント取って自己肯定。そういうドーパミン中毒な価値観って、バブル崩壊と共に終了したと思ってたけど、やっぱりマインドOS変更は簡単じゃないし、そういう古い世代が物理的に死滅するまでは、世の中そうそう変わらないよね。という訳で、無知な僕たちはきっと、今とそんなに変わらない感じで、死ぬまで生きるんだと思います。それはそれで哲学的な結論な気もする。誰もがコペルくんみたく純粋で意識高く、エモく賢く生きられないもんね。

あーそんな事より早くジブリ見たいなー。



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いつの世も、アーティストという職業はファンやパトロンのサポートがなければ食っていけない茨道〜✨