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感情・わたしは芸術【24.06.10版】




人間に私のことを人間だと認識してもらえていることをふとしたときに感じると、不思議な気持ちになる。人間の仲間にいれてもらえていることを大袈裟に喜んだりもする。少数派と自覚する人々が口にする「自分は変わり者だ」「社会に馴染めない」などの葛藤以前に、私は私自身のことを人間であると思えていない。

ひとと会話をしたり、私の存在が誰かのなかにきちんとあるということを「好き」という言葉と共に伝えてもらえたり、私が放つ言葉や放つための行動が私以外の人々にとってある程度は理解してもらえる(=極端に可笑しなものではない)ことを無意識に俯瞰で捉えたときに、この心臓や皮膚は確かに生命体としてここにあるのだと、慣れることなく何度も気づかされる。と同時に、人間で在れることを、何度も恐ろしく感じている。

人間であるということは、人間であるための基礎努力を少なくとも人間でなくならない程度に続けないといけない。まともでいる必要はないけれど、最もな言い訳がない限りは自分以外の人間の尊厳になるべく傷をつけないように努力をしないといけない。ひとの気持ちを想像しながら生きることができているときは少しだけ安心をする。

ひとの気持ちが"わかる"わけではない。わかると言い切りたいわけでもない。わかるようになることは望まない。つまり、せっかく人間であれるのなら、完璧にはなりたくない。なぜなら、完璧を目指すと、完璧になると、人間ではなくなるから。自分のこころを無視すると、死んでしまうから。せっかく人間であれるのなら、その間は、こころをもっていたい。そして私が人間でなくなるときは、この生命体ごと亡くしたい。

顔のパーツは不揃いで、質も悪く、コミュニケーションのない視覚での第一印象は良いものではないはずの私が、ひととひととしてのコミュニケーションに参加ができて、そのうえで、私とあなたは人間ですね、それなら、と、関係を築いてもらえる。ひととひとがそこにいて、五感を使い合うことは、珍しい光景ではないのに、私がその一部になれるという、それはほぼあたりまえですよという日常に、しっかりと怯えながら生きている。だってね、こんな個体なのにね。

中身の整理整頓も追いつかないほど荒れていて、でもわかりやすいように掃除をするのもされるのもやめてよ、と、贅沢に自我を振り撒く個体なのにね。それに、「それを"個性的"だなんて振り分けないでよ」「誰にも取扱説明書をつくらせたくないよ」なんて、人間だと認識させてもらえればもらえるほど、図々しく我儘な人間で、呆れてしまう。でもだから人間になれてしまったのだよ、それは喜びなよね。べつに悪くないのかもね。

人間たちが私をぎりぎり人間でいさせてくれることに、感謝していけるような、ちいさな日々を過ごしたい。いつだって、ひとからも私からも、私のことが人間に見えなくなるときがあり得ることを、忘れずにいたい。慣れたくない。どっちにしろ、怖い、それでいい。

そんなことを、うっすらとではなく毎日濃ゆく抱えながら呼吸をしている。私を人間だと思ってくれている人間たち、これからも私が人間でいることを悪く思わない限りは、そして私が求める限りは、人間と人間として支え合いたいです。よろしくおねがいします。




駄文ではない、これはわたしの芸術

何を選んでも正解

図太く生き延びている超最高な人間


彩結ゆあ 2024.06.10

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