【短編】トリックのない推理小説
エアコンの光学
カンカンカン、と激しい下駄の音を立てながら、葛飾区にあるマンションの階段をのぼってくる男がいた。夏真っ盛り、8月上旬のことだった。青空の真ん中から、人を馬鹿にするように強い日差しが降り注いでいた。
「いやーすみません。遅くなりました。バス乗り遅れそうになって、下駄を脱いで裸足で道路走っちゃいましたよ。あっあっは」
カンカン帽をかぶり、黒ぶちの眼鏡をかけた赤いTシャツ姿の男が、あるマンションの一室を覗きこむようにあらわれた。彼が語尾につける喉から空気を投げるような乾いた笑い方は、人を食ったような印象を相手に与えた。体型はいわゆる中肉中背だが、健康そうには見えなかった。飲み食いしている物の質が悪いのか、顔色だけが妙に悪かった。顔には汗が浮き出し、すっかり息があがっていた。彼が私立探偵の風見鶏であった。
「風見鶏さん、いまわざわざ階段をのぼってきたでしょう。エレベーターがあるのに」
「いやいや、3階までエレベーターに乗ったから、階段をのぼったのは3階から4階だけですよ」
「なんでまた」
長谷部警部は素直に驚きをあらわした目で風見鶏を見た。
「まあそれはいいとして。さっそく事件のほうに取りかかりましょうや」
到着するや否や、風見鶏はそういった。一刻も早く、事件に取りかかりたい心持ちがあらわれていた。
犯行のあったマンションの404号室は1Kで、床にはグラマーな肉体を血染めのニットに包んだ女性が転がっていた。もとのニットはオフホワイトのようだった。被害者の陥没した頭部は血にまみれ、血しぶきが真っ白なベッドのシーツから白い壁に飛び散っていた。それらは凄惨というより、風見鶏の目にはあまりにも芸術的に映った。しかし風見鶏が猟奇趣味というわけではない。猟奇的な状況が、あとあと事件の解決に役立つことを経験的に知っていたからであった。警察の写真班はさかんにフラッシュをたいていた。しかし風見鶏は自分で見たものに信念を持つ人間であった。
「この有様ですよ、風見鶏さん。死亡推定時刻は13時。これは被害者の悲鳴からの推定です」
長谷部警部はそいうってため息をついた。
「詳しくは解剖の結果を待たなければなりませんが、鈍器でぶんなぐって昏倒しているところを、刃物で喉をかき切ったんでしょう。ぶん殴っても死ななかったから、急いで喉をかき切ったってところでしょうね。おそらく力の弱い人間」
風見鶏は簡単な推理を加えた。
「犯人は相当返り血を浴びてますね」
風見鶏は自分の赤いTシャツをつまんで示した。
「間違いないでしょうな。殺害後、ここで着替えたんでしょう」
「被害者の身元は判明してるんですか?」
当然と言わんばかりに風見鶏が聞いた。
「まあこの通り、マンションで死んでるわけですから、身元はしっかりとしています。運転免許証の氏名はマンションの契約書の書類と一致。もとより顔も一致しています。住所変更はされていませんでしたが、前に住んでいたマンションかアパートの住所のようです。本籍は実家でした。地方の生まれですね。マンションを借りるときの保証人は保証人代行業者です」
長谷部警部が手帳を見ながら、よどみなく答えた。
「表札で見ましたけど、竹内さんだと」
風見鶏が軽く問うた。
「そうです。被害者は竹内優梨菜、23歳。職業は、はっきりしないんです。契約書に書かれた勤務先の電話にかけてみましたが、通じませんでした。番号は嘘でしょうな。テーブルの上の名刺入れを調べたら、携帯の電話番号と名前だけが書かれた名刺と、何軒かのショップカードが出てきました。ゴールデン街のものが多いですね。そっちのほうはいま木村刑事たちに当たらしています」
再び長谷部警部は手帳に目を走らせた。
「この季節にニットとはめずらしいですねえ。ああ、この部屋寒い」
全身の汗が冷え、風見鶏はからだを震わせた。
「設定温度が最低の18℃に設定されてるんですよ。あえて現場維持ということで温度設定はそのままなんです。わざわざエアコンをきかせてニットを着てたってわけですよ。Tシャツじゃ寒いと思いますが申し訳ない」
長谷部警部は軽く頭を下げた。
「わたしは冬にガンガンストーブ焚いてTシャツで過ごすってのはやりますけどね。逆はないなあ」
風見鶏は両腕を組んで寒さをしのいだ。
「エアコンを極端な温度設定にするのは死亡推定時刻をずらす、っていうのが定石でしょう。しかし被害者の悲鳴を聞いて約30分で巡査が駆けつけたんで、犯人が時刻の誤認を意図していたとしても、意味がなくなりましたね。もう検視は終わっていますよね? 温度あげましょう」
風見鶏は寒さに耐えかねたようにいった。
「そうですね。リモコン、リモコン」
長谷部警部は辺りを見回した。見回して見つけたリモコンを風見鶏に渡した。
「あれ? きかないですよこのリモコン。暖房に切り替えようと思ったのに」
長谷部警部は何回もボタンを押した。
「どれどれ――ああ本当だ。じゃあ、隣からリモコン借りちゃいましょうか」 と風見鶏がいった。
「え?」
長谷部警部は、きょとんとした表情であった。
「マンションってみんな同じエアコンなんですよ。たぶん使えると思いますよ」
長谷部警部は、ほかの部屋からリモコンを持ってきてくれと木村刑事に命令した。
しばらくして「借りてきました」 と木村刑事。
「ほんとだ。使える」
長谷部警部が、温度設定を25℃に上げた。
「被害者、しっかりと鍵を握ってますね。服はモノトーンが多いのに、キーホルダーは赤なんですね」
長谷部警部が簡単な疑問を投げかけた。
「マニキュアも赤ですよ。そろえたんじゃないですか」
風見鶏がつぶやくようにいった。
「ここ。なにか置いてあったんですね」
風見鶏が部屋中をうろついてからいった。
「え?」
長谷部警部は自分の確認に抜けがあったのかと焦った。
「ここだけ、血しぶきがついてない。被害者の首をかき切ったとき、ここにはなにか置いてあったんですよ」
サイドテーブルを指さして風見鶏がいった。
「はあ。確かに。四角いなにか――」
長谷部警部は思案した。
「サイドテーブルに置くとしたら、目覚まし、携帯、じゃ小さすぎますね――」
風見鶏は部屋を見回し、本棚のところで視線をとめた。
「沢木耕太郎氏の深夜特急、一巻目がない」
「ああ本当だ。気がつかなかった」
とぼけたような表情の長谷部警部。
「おそらく――サイドテーブルに置いてあったのは本でしょう」
風見鶏は二巻目を手に取り、四角い空間の上にかざした。
「ほら。サイズがちょうど。寝る前に読んでいたんじゃないかな」
「ぴったりですな」
感心して長谷部警部がいった。風見鶏は本棚まで行って、ほかの本を開いたり閉じたりした。
「本は借り物ですね」
風見鶏は長谷部警部の目の前に本を差し出した。
「え? 貸主の名前でも書いてありますか。それか裏に貸出カードがあるとか」
「いや、なにもないです」
「どうしてわかるんで?」
「カバーが貼りつけてないんですよ」
「カバーっていうと、タイトルとかイラストとかカラーで印刷されてる」
「そうそう。僕もそうなんですけど、カバーがついたまま読むのって、なんだか邪魔くさくって嫌なんですよ。それで、わたしは本体に糊で貼りつけてしまう。被害者も同じタイプだったようで、ほかの本はみんなカバーが貼りつけてあるんですよ」
「取って読めばいいじゃないですか」
当然の疑問を長谷部警部は投げかけた。
「それがね、人間の妙なところで。なんだが取って読むと味気ない気がしちゃうんですよ。こりゃ習性みたいなもんですね。本は借り物だからカバーを貼りつけてしまう訳にはいかず、カバーをつけたまま、もしくは取って読んだんでしょうね。カバーか中身に血痕がついているはずですよ。いや、カバーつけたままなら血痕はついてないかもしれない」
「なぜです?」といって長谷部警部はハンカチで額の汗を拭った。
「カバーって、ちょっとしたコーティングがかかった紙でしょう。血がついてすぐなら、拭き取れると思います」
「それにしても、なんで犯人は一巻だけ持ち去ったんですかね?」
不思議な顔をして、長谷部警部がいった。
「まだなんとも言えませんね――本が好きだったんですね。本棚にもいっぱい本が並んでる」
風見鶏はそういったが、すでに本棚からは目を離し、床に置いてある衣装ケースを見ていた。
「竹内優梨菜は引越しの予定でもあったんですか?」
「え? いや、そんな話は聞いてませんが――なにか?」
「いやいや。お気になさらず」
なにか思い当たったような風見鶏だった。
「ああ、そういえば大事なことを忘れてた。凶器は?」
風見鶏は長谷部警部のほうを振り返った。
「それがまだわからないんです。現時点では、鈍器のようなもの、としか言えません」
「ふむ。ガラス割って部屋に入ったんですか?」
サッシのガラスが一部割れているのを見て風見鶏がいった。
「鍵が閉まっていて、ドア開けられなかったんですよ。ほら、被害者の手にキーケースのついた鍵があるでしょう。仕方なく、巡査が403号室のベランダに出て、右側の仕切りを壊して404号室へ通り抜け、その一間サッシの一部を警棒で叩き割ったんです。その穴から巡査が手を入れ、サッシのロックを外したというわけです」
「密室というやつですか。推理小説じゃあるまいし」
あきれた調子で風見鶏がいった。
「エントランスはオートロック。完璧な密室ですね」
長谷部警部は密室殺人事件として疑わなかった。
「なるほど。たとえば密室だとして、密室ってのは、どうやって密室を作ったか、どうやって抜け出したか、って考えるより、どうやって密室に思わせたか、が鍵なんですね」
「となると、どういうことになるんです?」
長谷部警部は意味が分かりかねるという顔をした。
「まさに鍵。単純ですよ。鍵がなければ入れないと思わせる。だから犯人は鍵を持ってたんでしょう。不可能犯罪なんて、現実にはそうあるもんじゃないですからね」
「物理的トリックの可能性はないですか?」
長谷部警部は、まるで密室であることが嬉しいような調子だった。
「あるとしたらサムターン回しでしょうが」と風見鶏は言って、ドアの前に移動した。
「ほら、サムターンに防犯対策のカバーがついてる。針金なんか通して外から回そうとしても無理ですよ」
「そうなると、容疑者は絞られてきますね。被害者がここに住み始めてからまだ1週間。そう何個も合鍵は作らんでしょう」と長谷部警部がいったところで、木村刑事が言葉を挟んだ。
「ああそれなんですが、ここの鍵は特殊なものだそうです。合鍵屋では複製できず、メーカーに複製を依頼するしかないと。複製には鍵のナンバーと、身分証明書が必要です」
風見鶏はピューと口笛を吹いた。
「うんうん。で、被害者が複製した鍵は?」
風見鶏が問うた。
「1本もないそうです」と木村刑事がいった。
「うーむ。そうなると――開けられるのは管理人くらいか?」
長谷部警部は渋い顔をして腕を組んだ。
「それが、マスターキーは24時間セキュリティー会社で管理されているそうです。使用するには、このマンションを管理している会社の社員IDと、パスワードがないと借り出せないと」と木村刑事が淡々といった。
「なるほど。管理人犯人説は消えましたね。駄目押しになるんですが、わたしがエントランスから入って管理人さんに挨拶したとき『袖に血がついてますよ』って言ったんです。長谷部警部から電話もらったとき、現場が血塗れって聞いてましたからね。管理人さんはきょとんとしてましたよ。犯人だったら、そんな指摘をされたらなかなか普通にしてられませんからね」
風見鶏はカマをかけていたのだった。
「鍵を紛失したときはどうするんだ?」
長谷部警部がぶすっとした表情で聞いた。
「セキュリティー会社から、厳重に管理されたうえで紛失時専用の鍵が貸し出されます」
木村刑事が言い切った。
「ううむ」
ぶすっとした表情のままの長谷部警部。
「いや、まだほかの可能性が残っています。普通、入居するときは鍵を交換しますけど、まれに交換料をケチって鍵を交換しないで住み始める人がいるんですよね。ああ、何度も管理人さんに聞きに行くのも面倒でしょうから、ここまで来てもらいましょうか。エントランスは巡査さんに任せてもらって」
風見鶏は管理人に、カマをかけた訳を説明し、素直に謝った。
「竹内さんは、鍵を交換していませんでした。変えたほうがいいって念を押したんですけどね」
「そらきた!」
風見鶏はポンっと手を打った。
「前の入居者は、1本鍵の紛失届けを出してます」と管理人がいった。
「その入居者が偽の紛失届けを出して、実はその1本を所持している可能性があるな」
長谷部警部はまた楽しそうだった。
「でも、そうなると妙な可能性が出てくる。って言うのは、被害者の前にこの部屋に住んでいた人間が犯人だとすると、被害者が404号室に住むのを前もって知っていたことになりませんか? 入居できるのが必ずこの部屋になるとは限らない。不動産会社にキープしといてもらうでもしなきゃ――以前この部屋に住んでいた人間――めんどくさいな、名前はなんと?」と風見鶏がいった。
「坂本ひとみです」と長谷部警部が答えた。
「ああ、坂本ひとみが鍵を誰かに貸したか、譲渡した可能性もありますね。たまたま加害者と、坂本ひとみがつながっていたという可能性です。坂本ひとみと現在このマンションに居住している人間が同じトラブルを抱えていて、共謀をしたとか」と木村刑事がいった。
「いや、その可能性はかなり低いだろうな。坂本ひとみが住んでいた期間は、現時点で容疑者としてピックアップしている人間とまったく重なっていないんだよ」
長谷部警部が打ち消した。
「それにしても、この鍵1本問題は相当重要ですね。密室が開くか閉じるか」と木村刑事が真剣な面持ちでいった。
「よし。念のため坂本ひとみに当たらせましょう。アリバイがあるかどうか」
長谷部警部はそういって所轄の刑事に命令した。
「通報したのはどなた?」と風見鶏が首をかしげた。
「303号室の住人です。鈴木秀子33歳、主婦です。悲鳴は部屋にいて聞いたと証言しています。被害者は、かなりヒステリックで、トラブルがあると黄色い声をしばしば出していたそうです。でも今回は、あまりにも凄い悲鳴、まあ断末魔というやつに聞こえたえたんだそうです。以前、生活音で被害者と揉めたことがあると証言しています」
木村刑事が手帳に目を落としながらいった。
「ほうほう。監視カメラになにか映ってました? 来るとき確認してきたんですが、監視カメラがあるのは、エントランスとエレベーター、階段の入口だけにありますね。階段の途中にはなかったです」
風見鶏は息が上がった自分を思い出した。
「ああ、だから階段のぼってきたんですか」
長谷部警部は腑に落ちた顔をした。
「そう。極度の運動不足にはキツかったですね」
「お察しします。いやいや、言ってくれればこちらでチェックしたのに」
長谷部警部が友情を込めた気持ちで言った。
「いいんですいいんです。自分で状況を確認したかったんで」
「そんなあ。信用してくれなきゃ困りますぜ、風見鶏さん」
そういって警部は頭をかいた。
「あっはっは。まあ、気になさらんでください。それで、意外だったんですが、部屋の前の通路に監視カメラはないんですね。プライバシーへの配慮なのかな」
「まあ、部屋の出入りまで監視されてるのは、あんまりいい気がしませんな」
長谷部警部がいった。
「ちょっと古いマンションだから、単純に整備されてないってだけかな」
天井を見回しながら風見鶏がいった。
「ええ。そうかもしれません。で、ひとまず過去24時間、監視カメラの映像はすべて確認済みです。早回しですがね」
面倒だった、という表情で長谷部警部は風見鶏を見た。
「それでけっこう。なにか気になる人間は――」といって風見鶏は長谷部警部の顔をのぞき込んだ。
「まず、今日の昼過ぎ、竹内優梨菜の悲鳴が聞こえたあとくらいですね。赤い半袖、青い半ズボンに野球帽の少年のような格好をした人物が、カバンを持って、走ってエントランスを出ていってます。マスクをしていて顔はわかりません。3階からエレベーターに乗って、1階まで降りてます」
「3階ってことは、殺しがあった部屋の下ですね」
風見鶏が確認した。
「そうですそうです」
長谷部警部は、何度か首を上下させて肯定した。
「つぎに、全身黒い服にサングラスとマスク、あとハンチングをかぶった短躯の人物が、住人のあとについて、オートロックをくぐり抜けてエントランスに入ってます。そのあとエレベーターに乗って昇り、3階で降りた。降りたあと、どうしたのかはわかりません。風見鶏さんが調べてくれた通り、部屋の前の通路に監視カメラはないですから」と長谷部警部が手帳を見ながらいった。
「そのハンチングの男、住人と一緒にエレベーターに乗りました?」と風見鶏が疑問を投げかけた。
「いや、一緒には乗らず、つぎのエレベーターに乗ってます。よくわかりましたね」
「ああ、いえ」
「まあ、一緒に乗れない理由があったことは確かですな」
長谷部警部はここで一呼吸おいた。
「で、また別の人間なんですが、こいつがクセもんなんですよ。あやしさにおいてはいちばん」
「ほうほう、どんな?」
あきらかに興味を引かれたような口調で風見鶏がいった。
「川井貴之28歳、管理人が言うには、かなりの変人らしいんです。変装趣味っていうんですかね、わざわざ怪しい格好してうろつきまわるのが趣味らしいんです」
「ほお。なかなか素敵な趣味ですね」
風見鶏は笑顔を見せた。
「うちらにとっちゃ迷惑な話ですよ。ほかにも、真っ赤なコートを着た金髪の女、杖をついた爺さん、なんかに化けてうろついているそうです。管理人に映像を確認してもらったところ、まあまずそいつに間違いないだろうと」
「これ、野球帽の少年の格好をした川井貴之が竹内優梨菜を殺し、エントランスを出て、返り血を浴びた服を脱いで全身黒い服にサングラスの格好に着替えて戻ってきただけなんじゃないですか?」
風見鶏が手っ取り早い解決のパターンを示した。
「これは監視カメラ映像を見てわかったことなんですけど、川井貴之は毎回3階で乗るか降りるかしているんです。川井貴之の部屋は504号室なんで、妙なんですけどね。もし川井貴之が犯人だとすると、4階で竹内優梨菜を殺してから、階段で3階に移動して、そこからエレベーターで1階まで降りてきたことになりますね」
長谷部警部は目を細めて厳しい表情をしながら手帳に書いた文章を読んだ。
「なるほど。ときに、殺しのあった4階で、24時間のあいだエレベーターから降りたのって何人います?」
「被害者を除いて、2人です」
「2人だけ? 少ないですね。6部屋あるのに」
風見鶏は、それはおかしい、という表情を長谷部警部に向けた。
「それが、この階の3部屋、401、402、406号室は空き部屋なんです。その3部屋は近くの会社が借り上げていたんですが、会社が他県に移転するってんで解約されて、人間もそっくり他県に転居しちまったんです」
「あー、なるほど。残る2人の素性は?」
「ちょうど被害者の部屋を挟むように住人がいまして、左隣、403号室が大学生――大野隆20歳――これがひねくれた奴で、俺は質問に答える義務がない、って言って聞かないんですよ。それに、俺が通してやったのに俺を疑うつもりか、って怒り散らすんです。巡査が土足で部屋にあがり、ベランダまで部屋を突っ切ったんで頭にきてるんでしょう。さっきエアコンのリモコン借りたときもブーブー言ってましたよ。普段はゲームばっかりやって、家から出ないタイプの人間のようですね。被害者とはゲームの音量で揉めていたそうですが、どのあたりまで険悪になっていたかはわかりません。竹内優梨菜の悲鳴は、聞いてないと言っています。そのときシャワーを浴びていて、水音でなにも聞こえなかったんじゃないかと証言しています」
「ふうむ。右隣の405号室は?」
「こいつは竹内優梨菜に最も近いんです。斉藤譲司っていうんですが、ええ、39歳ですね。エントランスとエレベーターの監視カメラに被害者と一緒に映ってるんです。昨日の21時頃。2人で一緒に帰ってきたんですね、きっと」
「斉藤はなんと言ってるんですか?」
「被害者の部屋で一緒に酒を飲んで夕飯を食べて、24時には自分の部屋に帰ったと言ってます。本当かわかりゃしません。まあ、酔いにまかせてそのあと――まあ、そういうこってす。竹内優梨菜が悲鳴を発したであろう時刻には、ヘッドホンで音楽を聴いていたそうです。大音量だったから、なにひとつ聴こえなかったと証言してます」
「ほかには――」
風見鶏はカンカン帽をかぶった自分の頭頂部をこぶしでとんとんと叩いた。
「階下の人間、304号室は、石井朋枝という33歳の女性が住んでます。エステティシャンだそうです。犯行があった時刻、断末魔の悲鳴は確かに聞きとったそうです。でも、怖くてそのままやりすごしたと言っています。そのあとなにも声がしなくなったので、安堵の胸をなでおろしたと」
風見鶏は難しい顔をした。
「――ちょっと、その変装趣味のやつのところに行ってみましょうか」
「そうですね。まだ証言聞いてませんから」
ふたりはエレベーターに乗った。
川井貴之の部屋、504号室を訪問し、出てきたのは小作りの男だった。
「僕は昨日、仕事が終わって22時頃帰ってきて、駐輪場から裏口を通って家に帰りました」
「ああ、自転車なんですね。部屋、まあ、今いるここ。5階ですけど、監視カメラ視たら、1階からエレベーターに乗って、3階で降りてますね? これはどういう――」
「3階からは、階段で5階まで来ました」
「なぜ?」
風見鶏が問うと川井貴之は言葉に詰まった
「――怖いんです。4階を通って、彼女に会うのが――」
「彼女って誰?」と風見鶏が聞いた。
「竹内優梨菜」
「えっ」と風見鶏の喉から声が漏れた。
「いや、つき合ってるほうの彼女じゃないです。三人称代名詞として。――会うと、すごい勢いでののしられるんです。変態、死ねって、黄色い声で――だから、4階は通らないようにしてるんです。って言っても、たまたまエレベーターの中で一緒になっちゃうことあるんですけど。そんなときは、うずくまって耳ふさいでじっと耐えてます」
長谷部と風見鶏は言葉を失った。
「今日の昼頃、すごい悲鳴があがったの知ってる?」
「知ってます。彼女だってことも、声でわかりました」
「そのあと部屋から出て、エントランスから出て、着替えてまたエントランスに入ってきたりしてないよね?」
「そんなことしてません。なんでそんな面倒なことしなくちゃいけないんですか。その時間は、この部屋にいたんです」
「それ、証明できる?」
「えっと――僕ちょうどそのとき、ギター弾きながら、歌を録音してたんです。たぶん――ちょっとまってください」
川井貴之は再生ボタンを押した。弾き語りのうしろで、金切り声がスピーカーを揺らした。
「ちなみに曜日によって着る服変えたりしてる?」
「はい。今日は野球少年の日です」
「ちくしょう! 風見鶏さん!」
「エントランスから出たのは、偽者の川井貴之さんってことですね」
長谷部警部はフーフーと肩で息をしている。
それが落ち着ちつくまでしばらく待ってから「さて、つぎはどこへ行きましょうか? 3階でも行ってみます?」と風見鶏がいった。
「ええ。それで。そういえば、今日の10時頃、竹内優梨菜がエレベーターで3階に来たのが監視カメラに映っているんです。誰かなにか知っているかもしれない」まだ長谷部警部は興奮している。
それからしばらくして、305号室の前にふたりの姿はあった。
「本日、上の4階で殺人事件があったんですが、なにか知りませんか?」
風見鶏は山田正子の顔を覗き込んだ。
視線を外した山田正子の様子は明らかにおかしかった。
「なにかご存知なんですね?」と風見鶏は言葉を押し込んだ。
「正直に言ったほうがいいですよ、奥さん」
長谷部警部が落ち着きを取り戻した声でいった。
「絶対に、旦那に言わないって約束してくれますか?」
山田正子は小声でいった。
「ううむ。内容によっちゃあ言わないと約束できんが。一体どういう性質の?」
多少威厳のある様子で長谷部警部がいった。
「――金を――金を取りに来たんです」
「金?」
「不倫を、目撃されてしまったんです。新宿のホテルに入るところを――」
「ああ。竹内優梨菜に?」
軽い調子で風見鶏がいった。
「そうです。旦那にバラすぞと脅されて」
「で、素直にそれに応じたと」
山田正子の表情をうかがうように風見鶏がいった。
「そうするしかなかったんです」
「まさか、あんたそれで竹内優梨菜を?」
長谷部警部が目を見開いた。
「なんてこと! わたしはなにもやってません! 信じてください!」
「いやいや、なにもそう感情的にならなくても大丈夫です。可能性の話をしたまでです」
風見鶏がなだめた。
「いちおう聞いておきますが、竹内優梨菜の悲鳴が聞こえたとき、なにを?」
「なにを――証明できることは、なにもありません」
「そうですか、わかりました。なにか思い出したら、そこらへんにいる警察に言ってください。わたしたちが聞きに来ますから」
風見鶏がやさしくいうと、山田正子が扉をゆっくりと閉めた。
「――これでだいたいの人物の証言がそろいましたね。犯行時刻に、全員が部屋にいたことはわかりました」
「そして残念なことに、いちばんあやしいと思っていた川井貴之1人しかアリバイがない。残る全員が、容疑者です」
それから、有紀子の死体は運び出され、グラマーな肉体を包んでいたニットだけが現場に残された。風見鶏と長谷部警部は、捜査に出た刑事たちの帰りを待った。夕焼けが窓から差込み、あたりに残る血しぶきが土色に見えていた。
「あれ? このニット手編みですよ」
風見鶏が小さくつぶやいたとき、木村刑事が飛び込んできた。
「前の居住者、アリバイがありました」
「なんだと?」
長谷部警部が険しい顔を見せた。
「前の居住者が――坂本ひとみ、という若い女なんですが、死亡推定時刻どころか、1日中ラーメン屋で働いてるんです。働いている間、監視カメラにずっと映っていて、外部の者と接触た形跡はありません。鍵については海に落としてしまったそうで、自分が紛失届けを出したのは間違いないと」
風見鶏はカンカン帽をかぶった自分の頭頂部をこぶしでとんとんと叩いた。風見鶏はふとベランダに目を遣った。
「さっきまでなんかチラチラすると思ってたんですが、ベランダにあるの姿見ですね」
「そうですね。部屋にあると邪魔だからどかしたんじゃないですか。絵描きのイーゼルみたいに足がうしろに出ますからね。巡査がこの部屋にガラスを割って入るときも、邪魔だって言ってましたよ。ほら、ここの壁に縦に長い姿見のような鏡が取りつけてあるじゃないですか。だから不要になったんですよ」
「ふうむ。たしかに。姿見を粗大ゴミとして出すのもいろいろと面倒ですからねえ。ところで、邪魔だって思った巡査さんは鏡を動かしましたかね」
その風見鶏の言葉を受けて、長谷部警部は木村刑事に鏡を動かしたのか聞きにやった。
「現場維持のため慎重に入ったので動かしてはいないそうです」
風見鶏はベランダに出て、上下左右を見回した。
「あれ。下の階にも鏡もがありますね。ベランダの手すりについてる。なんていうんですかね、あれ。クリップの親玉みたいなやつで」
「本当だ。つながった蛇腹みたいな棒の先に鏡がついてますね」と長谷部警部も確認した。
「ちなみに、下の階は誰が住んでましたっけ?」
「石井朋枝です」
「なんで外さなかったんだろ」
「え?」
長谷部警部は素直で極めて短い疑問の言葉を発した。
「警部! 坂本ひとみが紛失したと思っていた鍵が、彼女が勤めるラーメン屋のグリストラップから見つかりました!」
木村刑事が飛び込んできていった。
「なに!」
長谷部警部は色めき立った。
「エイシャオラ! ――これで、竹内優梨菜の部屋は完全に開かれました!」
風見鶏が今日いちばんの大声を出した。
「えっ、閉じたんじゃないんですか!?」
「警部! 駐車場にとめてある車のなかに、血痕のついたカバンがあるのが発見されました!」
部屋に入ってきた所轄の刑事が叫ぶようにいった。
「なんだって! ナンバー照会しただろうな!?」
「い、石井朋枝の車です――」
「石井!」
長谷部警部も今日いちばんの大声を出した。
「石井朋枝はおそらく、赤い半袖、青い半ズボンに野球帽という格好から、黒い服にサングラスとマスク、ハンチングという格好に、車の中で着替えたんだと思います。車の中を調べれば、鈍器も見つかるはずです。殺害してからマンションに戻るまで、短時間しかないですからね。処理している暇があるとは思えない」
「くそっ、石井朋枝め!」
風見鶏と長谷部警部は石井朋枝の部屋に向かった。
石井朋枝は、何事もなかったような顔でドアを開けて長谷部警部と風見鶏を部屋に入れた。部屋に入るなり、むっとした熱気がふたりを包んだ。風見鶏はあたりを見回し、思案にふけった。
「石井さん、赤が好きなんですか? 圧倒的に赤いものが多い。ちょっと失礼」
風見鶏は鏡台の引きだしを空けた。
「マニュキュアも、口紅も赤が多いですね。そして――」
風見鶏はサッシを開けてベランダへ出た。長谷部警部もそれに続いた。
「この鏡の大きなクリップを取ると、きっとなにかが出でくるはずです。それがなにかわかりませんが、とっても大事なものだと――」
取ったあとにあらわれたのは、ベランダの手すりに硬いなにかで彫った、竹内優梨菜と石井朋枝の、ローマ字で書かれた名前だった。TomoeとYurinaでは筆跡が違った。
「あなたは鏡を取り除くより、名前を隠すことを選んだ。名前は殺人容疑に直結します。まさか、鏡の反射が事件の決め手になるとは思えない。警察には、そんな能力はないと思ったんでしょう――」
「わたしと優梨菜は、いつかは一緒に暮らそうとしていたんです。わたしの部屋で。でも、優梨菜は斉藤譲司と一緒に住もうとしていた」
「それが、そうとも言えないんです。まあこれはわたしの想像なんですけどね、優梨菜さんはきっと、斉藤譲司を自分の部屋に、別れ話をするために呼んだんじゃないかと思うんです。キーホルダーがあなたの好きな赤。マニキュアが赤。決意をもって斉藤譲司に会ったんじゃないですかね」
風見鶏はじっとして、つぎの朋枝の言葉を待った。
「わたしは、いったい何のために優梨菜を――」
朋枝は涙を流した。
「それともうひとつ」
風見鶏が本棚にあった沢木耕太郎氏の深夜特急、一巻目を取りだした。
「もしかしたら――」
風見鶏が、ゆっくりとカバーを外していった。
「ここ、ここ見てください。下端の2ミリくらい」
長谷部警部が覗き込む。
「血ですか! 一部、血をなすりつけたようになってる」
「おそらく、被害者はベッドに横になった状態でこの本を読んでいたんです。わたしがベッドに横になって読んでいるときもそうなんですが、糊で貼りつけてないカバーを被せて読んでいると、本体が重力でずり落ちてきてしまって、下端から本体が覗いてしまうんです。被害者はその状態のまま、サイドテーブルに置いた。そして殺害時、鮮血が本に降り注いだ。降り注いだため、小口などに血はつかなかった。犯人はあらわになった本の表面の数ミリの本体に気づかぬまま、カバーの血を布かなにかで拭い去った。そのとき、本体に血をなすりつけるようになってしまった」
石井朋枝は無言だった。
「おそらく被害者は、引っ越し作業中に借りていた本を見つけ、1巻目から読み直そうとした。しかし、1巻目を紛失してしまい――どこで紛失したかはわかりません――しかたなく同じ本を持っている石井朋子に1巻だけ本を借りた。その本には、もちろん石井朋子の指紋がついている。読む人の指の置き方によって左右されると思いますが、おそらくこれは大量に、もしかしたら全ページから検出されるでしょう――さて、行きましょう。あなたの手で、この事件を終わらせてください」
石井朋子は泣きながらゆっくりと、ちからなくうなずいた。
3人は竹内優梨菜の部屋の前に移動した。
「さあ、鍵を差してみてください」
石井朋子は震える手でドアに鍵を差し込んだ。
「風見鶏さん、その鍵で回るわけが――」
石井朋子は手首をひねるように回しはじめた。まったく滞りがなかった。鍵は回転し、ガチャという音がした。
「あっ!」長谷部警部が声を上げた。
石井朋枝は鍵からゆっくり指を離し、うしろに下がった。石井朋枝の表情は残酷無残にひん曲がり、風見鶏と長谷部警部の動きを止めるのに十分だった。彼女はポケットからカッターを取り出し、一瞬で刃をむき出しにした。そして、一気に自分の喉をかき切った。鮮血がふき出し、通路のコンクリートに吸い込まれていった。石井朋枝はのけぞり、倒れ、コンクリートに頭を打ちつけた。にぶい音がした。彼女は白目をむき、小刻みに痙攣しはじめた。やがて痙攣が止み、一同の上に絶望が降りてきた。彼女は二度と動くことはなかった。
その夜、風見鶏と長谷部警部の姿は本庁にあった。
「悲しい幕切れになりましたね」
「ええ」
「鍵を回したあとの、石井朋枝の表情が頭から離れない」
「僕もです。表情に時間を止められたのは、はじめてでした」
「風見鶏さん。まだこの事件は終わっていません。あなたにはまだ仕事が残っている」
ため息をひとつついてから風見鶏は話しはじめた。
「石井朋枝は竹内優梨菜を殺したあと、赤い半袖、青い半ズボンに野球帽の少年のような格好をして、4階から3階まで階段で降り、3階からエレベーターで1階に降りた。そして、エントランスを出た」
「なぜわざわざ4階から3階まで階段で降りたんですか?」
「川井貴之に罪を着せるためですよ。石井朋枝は川井貴之がエレベーターの4階を避けているのを知っていた」
「そうか」
「全身黒い服にサングラスとマスク、あとハンチングをかぶった短躯の人物、まあ石井朋枝ですが、住人と一緒のエレベーターには乗らず、つぎのエレベーターに乗ったのはなぜです?」
「エレベーターという人と人が近距離になる空間だと、石井朋枝だと見破られる可能性があったからです。いうまでもないことですが、オートロックをくぐり抜けてエントランスに入ったのは、そのとき石井朋枝の鍵は竹内優梨菜が握っていたからです」
「それにしても風見鶏さん。普通、密室に転がってる死人の手元に鍵が落ちてりゃあ、その部屋の鍵だって疑わないですよ」
「竹内優梨菜を殺したあと、もちろん死後硬直が始まる前ですね、石井朋枝は竹内優梨菜に自分の部屋の鍵を握らせる。そして、竹内優梨菜のバッグから鍵を取り出し、その鍵で竹内優梨菜の部屋のドアを閉める。単純もいいとこです。密室なんてよべないシロモノです」
「そのあと、鍵のない石井朋枝はどうしようとしてたんでしょうか」
「石井朋枝は自分の鍵のナンバーを控えてたんでしょう。あとは身分証明書があれば再発行できる。再発行するまでの間は、紛失時専用の鍵で生活する」
「もともとは、お互いの本の趣味が合うと言うことで、親しくなったそうです。沢木耕太郎氏の深夜特急があったことは、二人にとって決定的だった。まあ、借りものでしたがね」
そういえば、しおり代わりなのか、竹内優梨菜の持っていた本には《文壇バー 黒猫亭》というショップカードが挟まっていました。石井朋枝の行きつけだったようです。本を借りたのも、この店かもしれませんね。
「ときに2枚の鏡には、どういう意味があったんですか?」
「竹内優梨菜は、壊れてしまったエアコンのリモコン代わりに、石井朋枝のリモコンを使おうと考えたんです」
「それじゃあ、石井朋枝がリモコンを使えなくなるでしょう?」
「だから、リモコンを2人で共有しようとしたんです」
「渡しあったということですか?」
「いえ、リモコンはずっと石井朋枝のもとにあったんです。鏡を使ったんです」
「石井朋枝が自分の部屋のエアコンに向けてリモコンを操作すると、リモコンから赤外線が出て、当然、石井朋枝の部屋のリモコンは作動します。そして同時に、リモコンから出た赤外線は、ベランダの手すりについた鏡に反射し、階上の竹内優梨菜のベランダに置いた姿見に達する。そこから姿見の向かいの壁に取り付けた鏡に赤外線が到達する。その赤外線が竹内優梨菜の部屋のエアコンを作動させるんです。でもこれは、太陽光が弱い早朝か夜、昼間なら曇天のときにしかおそらく作動しない。涼しくなる夜になって設定温度を上げ、どんどん暑くなる朝になる前に設定温度を下げる、その程度しかできなかったと思います」
「そうやって朝と夜に設定温度を変えても、寒がりの竹内優梨菜は、ニットを着て我慢するしかなかったんですね」
「ただ、この我慢するって行為も、まんざら嫌でもなかったと思いますよ」
「と言いますと?」
「竹内優梨菜の着ていたニットは、おそらく石井朋枝の手編みじゃないかと思うんです。石井朋枝の部屋を覗いたとき、毛糸と編み棒があったんですよ。終わらせようとしている相手の手編みのニットなんか、よっぽど冷めた人間じゃないと着れませんよ。あっ、これはわたしが感傷的すぎますかねえ」
「わたしには、この鏡を使ったシステムは、竹内優梨菜の在宅を確認する手段にもなっていた気がするんです。夜なら、石井朋枝の部屋から鏡を見れば、明かりがついているのがわかる。いなければ、きっと斉藤譲司のところに行ってるんだろう、一緒に遊びに行ってるんだろう、と嫉妬の炎を燃やしてたんじゃないですかね。おそらくこのシステムを提案したのは、石井朋枝のほうでしょうね」
「それにしても、犯行のあったあと、リモコンの設定温度が18℃になってたのはどういうわけですか? いかんせん低すぎだし、石井朋枝が設定したには違いないでしょう」
「この真夏、外から帰ってきて部屋に入れば、むっとした湿気を含んだ不快な暑さに包まれるでしょう。エアコンをつけずにはいられない。それで運転ボタンを押したらつかない。ちくしょうってんで、今度は温度を下げるボタンを何度も押してみる。人間は、サーモスタットがきかないと運転しない、ってのが潜在的にすりこまれていますからね。サーモスタットをきかせるのに最善なのは、最低の温度に設定することです。まあ、いまはセンサーだと思いますが。わたしだってそうすると思います。でも結局それではエアコン動かなかった。石井朋枝の部屋のエアコンを調べてみてください。きっと故障していると思います。それで竹内優梨菜のエアコンだけが18℃に設定された」
「部屋から大量の黒い服、赤い服、時代遅れの服、アニメのキャラクターを模した服や、時代劇に使う小道具、色とりどりの奇抜な服が部屋から出てきた川井貴之は、一体何者だったんでしょうか?」
「ああ、あれは一種の演技性パーソナリティ障害ですよ。不審人物に思われることが快感だったんです。いや、快感って言うと違うかな。気持ち悪く思われる。疑いの目を向けられる。そういったことが、自分の存在を周囲に認めさせる手段だったんです。ちょっと普通の人と違うって思われたい、誰だってそういうのあるじゃないですか。芸能人になりたい、有名になりたい、ってのもその種類です。彼にはそんなことより、変人になることが、アイデンティティを獲得する唯一の方法だったんだと思います。わたしにだって少なからずある。それじゃなきゃ、カンカン帽に下駄なんて格好をしてないですよ。あっはっは」
「さあて、これから一杯やりましょうや、警部」
「おっ、いいですね。やりますか。さてどこへ?」
「ここ。このお店。黒猫亭ってバー」
テーブルに置いてあったショップカードをひったくって、警部の目の前へ突き出した。風見鶏はくるりと出口のほうに向き直り、階段を下り始めた。
「ゴールデン街の文壇バーですか? なんでまた」
警部は風見鶏の背中に向けて声をかけ、そのあとに続いた。警部はガニ股でひょこひょこと足を進めた。
「今日の推理をね、いわゆる英雄譚やつですか? 書いてもらおうかなと。作家志望のお客さんにね。あっはっは」
「へえ。気分良くなって飲みすぎちゃいけませんよ。相変わらず顔色悪いんだから。Mr.ガンマGTPなんてふざけてると、そのうちコロっと逝っちゃいますぜ」
階段を下りきると、昼間の日差しを溜め込んだアスファルトから熱気が立ちのぼり、ふたりの全身を覆った。風見鶏が歩くたびに鳴る乾いた下駄の音に『ちりん』と、どこかの軒先の風鈴の音が重なった。蝉の声は、あまりにもやかましく、かえって心には響かなかった。
(完)
――いま《黒猫亭》には、風見鶏さんのボトルがある。
作家志望の学生 横溝誤史
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