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名作/迷作アニメを虚心坦懐に見る 第6回:『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』

 感じることが必ずしもよいとはかぎらない。……感傷性は残忍さの嗜好と完全に両立する。

(スーザン・ソンタグ(北條文緒訳)『他者の苦痛へのまなざし』みすず書房、2003年、101頁)

 フィクションにおいて、戦争のおぞましさや悲惨さを伝えようとするとき、そこには大別して二つの方向性が認められる。一方で、軍人が残虐な行為に手を染める様子を執拗に見せたり、愚かな政治が開戦の決断にいたる過程を丁寧に描いたりすることによって、戦争における「加害」の側面を強調することがある。他方で、末端の兵士が戦場で無惨に死んでいく様子を接写したり、民間人が無差別攻撃で次々に命を奪われる様子を大写しにしたりして、戦争における「被害」の側面に力点を置くこともある。
 社会学者の福間良明は時に相克する両者の背後に、「論理や事実に依拠した公的な意見・政治意識」としての輿論(public opinion)「私的な感情にとどまる大衆的な叙情・情念」としての世論(popular sentiments)の拮抗を見ていた(福間『「反戦」のメディア史:戦後日本における世論と輿論の拮抗』世界思想社、2006年、12頁)。福間は戦後日本の「反戦文学」(映画を含む)をめぐる語り、すなわち「反戦文学」の受容のされ方を分析するなかで、輿論と世論が二項対立的に捉えられる傾向にあったことを明らかにしている。

戦争や反戦は、つねに論理や理性、史実に依拠して語られるのかと言うと、そればかりではない。被害者的な叙情のレベルで語られることもあれば、戦時期の自らの行為を振り返るなかでの悔恨・恥辱といった情念が前面に出されることもある。

(同書11-12頁)

「加害責任」を追及しようとする議論は、「被害者」としての心情への固執を批判する論理を展開しようとするものであり、そこには輿論による世論批判の構図を見ることができる。他方で、「心情=世論」は、過度の「政治主義=輿論」を批判する拠り所として機能したことも多かった。

(同書13頁)

 『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(1989年、以下『ポケ戦』と略記)は、福間の表現を借りれば、「心情=世論」に依拠して、戦争における「被害」の側面に光を当てた反戦OVA作品の一つと言うことができる。だが、それは言い方を変えれば、『ポケ戦』が徹底的に「輿論」を排除し、末端の兵士や民間人の目線を取り入れて、戦争を既成の「状況」として描くことに腐心しているということでもある。『ポケ戦』は『機動戦士ガンダム』(1979~1980年)の挿話に位置づけられる作品ではあるが、「一年戦争」がなぜ起こったのか、そしてどのようにエスカレートしていったのかという切り口を採用していない。舞台に選ばれたのは連邦にもジオンにも与さない中立コロニーであり、そこで暮らす民間人が軍靴の音を身近に聞く機会はきわめて少ない。戦争は確かに起こっている、しかし戦争の実感は伴わない――そんなある種の「平和ボケ」状態にあるコロニーに、連邦は密かにガンダムNT-1(アレックス)という兵器モビルスーツを持ち込んでいた。この持ち込みをきっかけに、コロニーはジオンの標的となり、連邦とジオンの市街戦に巻き込まれていく。
 戦争を既成の「状況」として描き切るために、『ポケ戦』は抵抗のif(最悪の結末を回避する可能性)の芽を巧みに摘み取っている。一方で、主人公には小学生のアルが据えられている。親の庇護下に置かれ、行動範囲も人間関係も狭く限られ、肉体と精神の双方が未成熟な子供は、いかに小賢しく立ち回ろうと「状況」を覆すことはできない。他方で、大人であれば「状況」を打開できるかというと、まったくそんなことはない。『ポケ戦』で前景化する大人たちのなかに大局を左右できる地位にある者は誰一人おらず、大人たちは政治的に無力化されているように見える(そのかわり、明確な極悪人もほとんど登場しない)。連邦側かジオン側かを問わず、クリスバーニィといった末端の兵士は上層部の命令に従って行動するほかなく、ただただ「状況」に押し流されていく。しかし、「状況」に抗えずに事実上屈服している当人たちも、自分たちが押し流されているという明確な認識は持っておらず、表面的には悲愴さというよりは爽やかさを湛えている。クリスは「正しいことなんてどこにもない。自分にできることをするしかないんだわ」とアルに語り(第5話)、バーニィは「彼ら〔注:連邦軍の兵士〕だって俺と同じで、自分がやるべきだと思ったことをやってるだけなんだ」とアルにメッセージを残した(第6話)。たとえ口先だけだとしても、彼らの言葉に逡巡や苦悩の色は薄い。抵抗のifの芽を摘み取り、息苦しく逃げ場のない構成を貫徹するという『ポケ戦』のたくらみは見事に成功していると言えるだろう。
 『ポケ戦』のいやらしい(見方によってはわく的な)ところは、抵抗のifの芽を摘み取りつつも、アルを従順な「よいこ」としては描いていないところだ。アルは終始、戦争の実態リアリティを知らない純真な子供/知ってしまった憐れな大人の境界線上を揺れ動く。アルは嘘泣きや演技でコロニーの大人たちを出し抜く狡猾さを見せる一方で、戦争ごっこやビデオゲームに明け暮れ、本物の階級章に無邪気に喜ぶ子供っぽさも併せ持っている。こうした人物造形を「ご都合主義」的だと評するかはともかく、「冒険」を夢想してやまない、でも少し背伸びはしたい年頃の小学生が、連邦とジオンの交戦という「状況」に対する無知ゆえに、ジオンの特殊任務に関与してしまうという筋書きは作為的である。『ポケ戦』はアルの成長譚でもあるが、その成長は「状況」の客観的な把握(たとえば、市街戦で負傷した民間人を目にすること)によって達成されたのではなく、身近な憧れの存在が「状況」に翻弄されて散ったことの認識によって果たされている。サイクロプス隊の「無駄死に」も、クリスとバーニィの相討ちも、アルの主観のなかだけで統合された陰の挿話にすぎず、アルは両親の復縁や戦争の終結という新たな「状況」に呑み込まれていかざるをえない。『ポケ戦』はダメ押し的に、「アル、泣くなよ、戦争はまたすぐ始まるって。今度はさ、もっともっと派手で、楽しくって、でっかいやつだぜ、きっと」、「そうだよ、そしたらさ、薬莢なんかじゃなく実弾も拾えるしさ」とアルの同級生に語らせる(第6話)。かくして戦争の実態リアリティを知らない子供/知ってしまった大人の境界線は反復され、「状況」をアクチュアルに問い直す契機を欠いたまま、『ポケ戦』はしっとりとした幕切れを迎える。
 さらに、『ポケ戦』は実弾による流血沙汰やガトリング砲の使用といった硬質な戦闘描写によって、リアリティの強度を一段と高めている。第1話の冒頭には、『ポケ戦』が追求するリアリティのすべてが凝縮されていると言っても過言ではない。一機のジムがハイゴッグの強襲を受けて右腕を損傷する。ジムの右腕が銃を握りしめたままぐるりと一回転すると、ジムは自らの放つ銃弾に射抜かれて仰向けに倒れる。その後、別のハイゴッグもパイロットの独断専行が仇となり、また別のジムの銃弾を浴びて鮮血とともに斃れる。こうした冷厳な死の描写は、『機動戦士ガンダム』に見られるような、バリバリと雷鳴のような音を立ててモビルスーツが爆発する描写とは一線を画している。『ポケ戦』は映像の質感や雰囲気においても、戦争を既成の「状況」として描くことに長けていたと言うことができる。
 改めて整理しよう。『ポケ戦』は戦争における「被害」の側面に光を当てて、戦争を所与のリアリティとして描く手法を採用した。それゆえに、『ポケ戦』の視聴者はリアリティという椅子に縛りつけられ、アクチュアルな身動きを許されぬまま、あたかもベルトコンベアに乗せられたかのように、やるせなさが後を引く結末に向かってまっすぐに運ばれていくことを余儀なくされる。私はこの雁字搦めに危惧の念を抱く。何となれば、『ポケ戦』が戦争を所与のリアリティとして強調すればするほど、戦争における「加害」の側面、すなわち「加害者」にたやすく転じうる人間の暴力性や、戦争を引き起こす政治権力の問題は視聴者の意識にのぼりにくくなるからだ。いや、それどころか、『ポケ戦』におけるリアリティの強調は視聴者を不条理や理不尽への忍従を説くような俗流の「リアリズム」へと導き、どうせ自分たちには「状況」を変えることなどできないという迎合主義(conformism)や学習性無力感(learned helplessness)に傾かせるおそれすらある。そう考えると、『機動武闘伝Gガンダム』(1994~1995年)が番組の終盤において、宇宙の実権を握った「ネオジャパン」の軍部が各国に宣戦布告を行うという展開を用意し、日本の過去の悪行(軍国主義化)をそれとなく想起させたのは、「政治主義=輿論」に接続する回路を残したという点で立派だったと言えるだろう。
 とはいえ、OVA作品である『ポケ戦』に多くを望むのも酷な話かもしれない。OVAという媒体はいわば「垂れ流し」のTVアニメとは異なり、わざわざお金を払ってでもアニメが見たいというマニア層に向けてハイクオリティな作品を届ける嗜好品であった(*)。その意味で、『ポケ戦』はある種の教育的配慮から「政治主義=輿論」に依拠する必然性からは解き放たれていた。感傷的なやるせなさを残す『ポケ戦』の余韻は、こうした媒体の特性に依存するかぎりにおいて、苦い「大人」の味わいとして許容される。しかし、『ポケ戦』もいまやサブスクリプション型の動画配信サービスでお手軽に見ることができるようになり、OVAとTVアニメは等価な消費対象として視聴者の前に顕現するようになってしまった。『ポケ戦』がOVAとして発売されてから30年以上が経過し、2022年12月16日に「反撃能力」(敵基地攻撃能力)が国家安全保障戦略に明記されるなど安保政策の大転換を迎えるいま、「心情=世論」に訴えることは果たして意味があるのか、問い直さなければならない。

(*)1983年以降の数年間、OVAはTVアニメ及び劇場版アニメとの差異化を志向し、「自由な表現」を可能にする「第三のメディア」として注目を集めた。この点については、永田大輔「OVAという発明:『テレビ的なもの』の位置づけをめぐって」永田大輔/松永伸太朗編『アニメの社会学:アニメファンとアニメ制作者たちの文化産業論』ナカニシヤ出版、2020年、160-174頁を参照。ただし、永田が指摘するように、OVAも流通上の差異化には必ずしも成功しておらず、OVAを特徴づけていた表現の周縁性や先端性に関しても、採算が重視されるなかで徐々に失われていくことになった。OVAを「テレビ的なもの」から区別された媒体として論じる際には、作品に応じてアド・ホックな考慮が必要となる。

 このように「政治主義=輿論」から『ポケ戦』に批判を加えるにあたっては、「輿論の『政治的正しさ』は何らかの政治主義に担保されているのであって、それは『被害者』の心情を汲み取ろうとすることとは異質なものであった」という福間の反論も念頭に置かなければならない(福間『「反戦」のメディア史』、313頁)。福間は映画『きけ、わだつみの声』(1995年)の分析を通じて、「『加害』を超越的な位置から批判し得る『オーディエンス=現代の若者』の視線」においては、「主体的に戦争を賛美し『加害』にコミットせざるを得なかった当事者の状況や心情は、視界の外に置かれる」と指摘している(同書150頁)。福間は別の箇所で次のように述べて、「輿論の過剰」(同書328頁)を批判している。

 むろん、そうした認知は、「自由主義史観」や「大東亜戦争肯定論」のように、日本の対外侵出を肯定的に捉え直そうと躍起になる議論よりは、はるかに「健全」だろう。だが、自らを「健全」な側に置く自己認識は、戦時にあって「不健全」であり得たことの恐れからは遠く、「加害責任」を自分以外の者に向けられた問いへと摩り替えることに通じる。

(同書150-151頁、強調は筆者による)

「加害責任」の論理は、ときに、それ以上の思考停止をもたらしがちであったと見ることもできよう。少なくとも、「加害責任」をどのように果たすのかを具体的に論じたものは、反戦文学・反戦映画批評の文章に限らず、相対的に多くはない。言うなれば、それはじつは自らを責任の主体とはみなさない安全な位置からの責任追及であり、むしろ「加害責任」を言うことで、自らの「責任」が果たされ、また自らを「良識」ある言論人として呈示する――そうしたことを可能ならしめた。

(同書324-325頁)

 福間は1960年代半ばに原水爆禁止運動が被爆者を置き去りにして党派抗争を繰り返したこと、1960年代後半に戦後派(終戦時点で10歳以下)・戦無派(終戦以後に出生)が戦争体験に固執する戦中派の「ルサンチマン」や「被害者意識」を厳しく批判したこと(1969年5月20日には全共闘系の学生が立命館大学の「わだつみ像」を破壊する事件も起こっている)、1980年代以降の「加害責任論」がアジア諸国への加害に言及する一方で沖縄への加害については沈黙したことなどに縷々言及して、「当事者から遊離した政治主義は、いかにそれが『政治的に正しい』ものであろうと、発話の主体はその論理を叫ぶ者の側にあり、当事者は客体にすぎない。……『加害責任論』における『政治的正しさ』の過剰は、『被害者意識』の心情を遠ざけようと性急なあまりに、かえって自らの政治的ドグマに足元をすくわれかねない」と述べる(同書328頁)。結論として、福間は「語りがたい心情の語りがたさに踏みとどまりながら、いかにそれを開かれた輿論へとつないでいくのか」を構想すべきだと主張し(同書331頁)、輿論と世論の横断を志向する姿勢を一応示してはいる。しかし、実際のところ、福間は「当事者から遊離した政治主義」や「『政治的正しさ』の過剰」を槍玉に挙げることによってエリート的な潔癖さを退け、「清濁併せ呑む」系の議論に加担していると言わざるをえないのではないだろうか。「清濁併せ呑む」が処世術として通用するのは物質的・経済的に恵まれた平和な時代に限られる。日本の経済的な凋落が衆目にも明らかとなり、「正義の暴走」や「行きすぎたポリコレ」を揶揄するアンチリベラルな言論や、アクチュアリティの強調(現実は新しい世代の運動によって良い方向へ変えられるのだと主張すること)は「上級国民」の娯楽にすぎないなどという僻み根性に満ちた「呪いの言葉」が跋扈する現在にあっては、「清濁併せ呑む」余裕などない。いや、目を背けていただけで、福間の著書『「反戦」のメディア史』が刊行された2006年の時点で、実は余裕などとうになくなっていたのかもしれない。
 やはり、次善の策だとしても、戦争における「加害」の側面に目を凝らし、「自らを『健全』な側に置く自己認識」を涵養することが重要なのではないだろうか。この認識がゆるんでいると、絶えずバックラッシュの側に論調が追いやられてしまう。「どっちもどっち」、「是々非々」、「清濁併せ呑む」といった俗流相対主義もすべてを等価に扱うことなどできず、論者の思考の限界や偏向に影響されて、論敵を攻撃したり揚げ足を取ったりするための論理に容易に転化する。二つの立場を天秤にかけて「冷静」に判断できるほど人間は賢くないのである。それに、仮に輿論と世論の横断が可能なのだとしても、「被害者」の心情に寄り添うことが必ずしも反戦に結びつくとは限らない。作家・批評家のスーザン・ソンタグが言うように、「一般市民の死体や破壊された家のイメージは、敵にたいする憎悪をかきたてるのに役立つ」こともある(ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』、10頁)。ソンタグは「戦争の破壊性それ自体は戦争を仕掛けることに反対する根拠にはならない」と述べて、無責任な感傷に浸りがちな読者に「権力とわれわれとの真の関係」への注意を促す。

戦争の破壊性は、暴力はどのような場合にも正当化できず、力はどのような状況にあっても常に不当である……と考えるのでない限り……戦争の破壊性それ自体は戦争を仕掛けることに反対する根拠にはならない。そのとおりだ、と特定の状況のもとで武装による戦闘以外の手段が見出せない人々は言うだろう。暴力はそれを受ける人間を殉教者や英雄に高めることもあるのだ、と。

(同書11-12頁)

他者が遭遇し、映像によって確認される苦しみへの想像上の接近は、遠隔の地で苦しむ者(テレビ画面でクローズアップされる)と特権的な視聴者とのつながりを示唆するが、それはけっして本物ではないし、権力とわれわれとの真の関係を今一度ぼやかしてしまうだけである。同情を感じるかぎりにおいて、われわれは苦しみを引き起こしたものの共犯者ではないと感じる。われわれの同情は、われわれの無力と同時に、われわれの無罪を主張する。そのかぎりにおいて、それは(われわれの善意にもかかわらず)たとえ当然ではあっても、無責任な反応である。

(同書101-102頁)

 『ポケ戦』は精密に仕組まれたソリッドな構成ゆえに、「誤読」の余地は比較的小さく抑えられている。多くの視聴者は『ポケ戦』を叙情的な反戦作品と受け取るだろう。しかし、『ポケ戦』が「心情=世論」に依拠して「政治主義=輿論」を排除する以上、再軍備や軍拡に熱心な主戦派を勢いづけるような「誤読」もまた不可能ではなくなる。すなわち、『ポケ戦』を戦争の失敗例・反面教師として受け取り、劇中のコロニーの轍を踏まぬよう、「反撃能力」(敵基地攻撃能力)を保有しておくこと、ひいては先制攻撃によって敵を撃滅することが重要なのだという教訓を引き出す余地は、蟻の穴ほどは残っているということだ。しかも、『ポケ戦』が描き出す「一年戦争」は所詮架空の「箱庭」に過ぎないから、かつて日本が甚だしい蛮行を行ってあちこちに迷惑をかけたという歴史を気にかける必要もなくなる。これは「政治主義=輿論」を排除した功罪と言うべきであろう。
 だからこそ、とめどない右傾化のなかにあっては、せめて撤退戦の置き土産として、「政治主義=輿論」に依拠したアクチュアリティを評価すべきだと私は考える。もちろん、戦争における(しばしば歴史的な)「加害」の側面を強調する立場も端的にすべての戦争を悪とするものではないから、「加害」に対する贖罪が尽くされれば反戦を声高に叫ぶ必要もなくなるという意味で、「論理の性質自体は弱い」(木庭顕『憲法9条へのカタバシス』みすず書房、2018年、7頁)。だが、専門家ではない民間人がやるべきは、論理自体の鮮やかさを競うことではないはずだ。「政治主義=輿論」に固執し、何度でも繰り返し「加害」の側面を強調して戦争放棄・反戦を唱えることは決して無意味ではない。そして、戦争放棄・反戦が当たり前になった世の中で、思う存分センチメンタリズムを堪能すればよい。2022年の今年の漢字は「戦」。どうやら、身構えることなく『ポケ戦』に感動できる日が来るのは、まだまだ先のようだ。

 次回更新は2023年3月、主題は『伝説巨神イデオン』を予定している。

参考文献

木庭顕『憲法9条へのカタバシス』みすず書房、2018年。

永田大輔「OVAという発明:『テレビ的なもの』の位置づけをめぐって」永田大輔/松永伸太朗編『アニメの社会学:アニメファンとアニメ制作者たちの文化産業論』ナカニシヤ出版、2020年、160-174頁。

福間良明『「反戦」のメディア史:戦後日本における世論と輿論の拮抗』世界思想社、2006年。

スーザン・ソンタグ(北條文緒訳)『他者の苦痛へのまなざし』みすず書房、2003年。

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