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自分の持ち物は自分の家来

ちょっと極端な語り口ですが僕の考えでは全ての持ち物は家来です。中世とちがうことは、中世では家来はでした。現代社会で誰かを家来と呼べば怒られます。当たり前のことですね。

持ち物が「家来」とはどういうことか、説明します。

僕はこれまでも少しずつこのnoteで自分の愛用している大切な品々を紹介してきました。紛れもなく昔からもう何年も日々共にあらゆる作業をしてきた仲です。でも僕はこれらのものに愛着はあれど決して自分と対等だとも、自分より崇高だとも思いません。これらのものは全て僕に従ってきてくれた大切な家来であるということです。

ちなみに僕には仕事上部下がいません。うちは社員ゼロ企業です。必要な時アシスタントは募集して期間限定でいてくれました。教え子たちのインターンもあります。しかし彼らの存在はモノとは逆で、僕とは完全に対等です。対等でい続けられるように業務内容を分担しているからです。

ちなみに思い出したので一個だけここでツッコミを入れさせてください。そう言えばたまにこれが逆転している人がいます。つまり、自分の新品のレクサスのレザーシートに出荷時からかかっているビニールカバーは外さずに、グローブをはめてハンドルを握り、一方で部下をまるでモノかのように扱う人です。これは申し訳ないですが、僕からしたら完全にひっくり返っています。ひっくり返るっていうのはどれくらいひっくり返っているかというと、チーズケーキを頼んだ人が運ばれてきたチーズケーキを食べずにお皿を食べてる光景くらいやっていることが逆さまなレベルです。ぜひ周りにそういう人がいたら「食べてるの、逆ちゃう?」と教えてあげてください。

やや脱線しましたが話を戻すと、こう考えてみていただきたいなと思います。

あなたが購入したものは、正直な話、誰の手に渡っても一定のパフォーマンスを上げることができます。「このペンは、あなたしか握れない」とかはありませんよね。ですから本来ペンからしたら、仕える主人(あるじ)はあなたでなくても構わないわけです。しかしここからが実は徳や格やリーダーシップの分かれどころだと僕は思っています。あなたなら、他の人以上にそれらをうまく、長く養い、そのアイテムの能力を最大限に発揮させることができるのではないですか?ということです。僕の「主人」としての役割と腕の見せ所は完全にこれに尽きます。僕は自分が目利きをして家に連れて帰った品に対して、「今日からお前は僕の家来だよ。ここで安心して力を発揮しなさい」と多分無意識のうちに語りかけている気がします。

「主従関係」などと言いますが、相手が家来の場合は永遠に自分の方が立場が上ですので、家来の運命を握っているのは主人です。ここで、もう一度思い出します。この「家来」は誰の手に渡ることもできたのに、縁あって自分のところに来ることとなった。だからそれも踏まえてこの家来を自分のものとしておくことには大きな責任が生じる、と。


ごくごくたまになんですが、こういった価値観にも出くわします。「007、ジェームズボンドのかっこよさは何か?彼は高級なものを見事なほど堂々とゲタばきするのだ。ああ在りたい」という主張です。

僕はこれに関しては美化するほどのことではないと思っています。案外身近なところにも「こういうのは所詮消耗品だからさ(ポイッ)」ってすぐに言う人いますよね。

例えばジェームズボンドは高級車アストンマーティンを崖から落としたり、川に突っ込んだりさせていますが、これは欧米の「機能主義」という考え方に基づいて、支持・肯定される行動です。「車は所詮、車に過ぎない」ということなので、値段も形も車そのものも関係なく、交換の効くただの機械として見るわけなのですが、僕からしたらこれは随分と味気なく寂しい思想です。まぁそもそも007は空想の世界なので、映画として楽しめばいいのだと思います。僕も普段アストンマーティンとフォルクスワーゲンに乗っていて、どちらの車でも長距離を移動しますが、やはりそういう機能主義的な「家来の命の使い方」は発想することがまずありません。僕にとって僕の車たちは単なる機械じゃないですから(家来なので)。

最後に書き足しておきたいのですが、実のところ、自分自身の身体だって、言ってみれば家来のようなものだと僕は正直、思っています。なんなら一番古い家来は身体でしょう、と思っています。口、手、脚、眼...。体の様々なパーツを使って日々我々は我々のすべきことをしています。極端な話ですが、あなたの身体もまた、別にあなたが「入ってなくても」身体としては機能するわけですよね。別の名前の誰さんでもいい。でもこれもまた、縁あって肌の色はこうで、性別はこうで、顔立ちはこうで、体格はこうで、声色はこうで、腕はこれくらいの重さのものを持つことができて、これくらい速く動かせて、足は...etc...、と、自分の身体でさえある意味で自分という心や脳のアウトプットに対して家来のように従うようになっています。ですからなおのこと、自分自身を主人と捉え、自分に従事する自分の身体を家来と考えて見ると、いかに日々主人の責任が身体に対しても大きいものであるかに気がつきます。

変なことを言うように聞こえたかもしれませんが、単純に、自分にまつわる全てのものは、可能な限り長く養い、最大限の力を発揮できるよう、自分自身が常に様子を気にかけ、時に酷使することがあれども、大切にしなくてはいけないということです。

当然その主従関係を人間の身体そのものにまで当てはめていくと、あらゆる人間は皆一主人(いちあるじ)だと言うことができます。ですから前述した通り、誰に対しても「主人同士」は対等だよ、と言えるということでもあるわけです。

   ( 文・西澤 伊織 / 画・狩野 宗秀 )