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自分の三つの郵便箱

思うに人間は基本的に何かを見たり聞いたり知ったりすると、

A. そうあるべきだよね

B. そういうもんだよね

C. そうじゃないよね

という三つのカテゴリーに、自分の感想を落とし込みます。「理想」、「賛同」、「反対」、とも言い換えることができそうです。

「ビフォア・サンセット」という映画が僕は高校生の頃から好きでした。ビフォアサンセットはその9年前に作られた「ビフォア・サンライズ」の続編です。そしてサンセットのさらに9年後、「ビフォア・ミッドナイト」が公開され、「ビフォア三部作 (Before Trilogy)」と呼ばれています。

第1作目が発表されたのは1995年。2作目が2004年、3作目が2013年で、僕は順に「子供」→「若者」→「成人」として全ての映画を見てきたことになります。そして奇しくも「ビフォア三部作」は僕にとって、はじめに述べた三つの感想のカテゴリーに時系列で当てはまっていきました。少しだけ作品に触れると、1作目は旅の道中列車の中で若い男女が出会い、話していくうちに恋に落ち、2作目はそれから9年後の再会を描き、3作目はその二人がその後共に歩んだ9年目の現在、という具合なのですが、1は本当に、大人になることを楽しみにさせてくれる話だと思えました。そして2で「現実は、少しさみしいけれどこうなかもしれないな」と思い、3作目で「こういうふうな人生は歩みたくない」と感じたのです。

映画に限らずあらゆることを僕たちは「そうあるべきだよね」「そうだよね」「そうじゃないよね」に振り分けていることに気がつきます。仕事の中での出来事、友人との会話、読書をするとき。シチュエーションは様々ですが、「そうあるべき」だと思うことを実現しようとする努力、「そうだよね」を我慢したり折り合いをつけようとする努力、「そうじゃないよね」を改善しようとする努力をしながら僕たちは日々生きています。



話す相手がいる場合、どの「箱」に自分のメッセージを投げ込むかは話す本人がある程度コントロールできます。

例えば現状を変えたほうがいい、というメッセージはCをAに投げる行為です。そしてそれを受け取った人間が、自分自身で今度はA、B、C、のどれかの箱に感想として入れるわけですね。

AをCに投げたら価値観・方向性の軌道修正を促すことになります。

BをBに投げることは相手と共通する感覚を確認する行為で、CをBに投げると批判になり、BをAに投げることは状況を正当化しようとする試みです。

A→Aは非日常な物語の描写のスタイルで、受け取り手の憧れを主に狙います。A→Bは物語性から教訓や感動を絞り出すスタイル、学術的な文面はB→Aのスタイルです。アカデミックとは現状の分析と発展の方向性を示すものだからです。人気のある作家やブロガーの書き方の多くはB→Bです。読者の共感がその作家やブロガーを人気者にするからです。C→Bは摘発や批判に使うロジックです。いずれもBに投げ込もうという試みは大勢の人に問うたり・語りかけるスタイルになるわけですね。


自分自身や、よく話す人、恋人、家族、好きな著者、それぞれの人がどこに投げる癖を持っているかを考えることも面白いです。note上の僕の場合は大抵B→ C→Aの順番に話を組み立てて、誰にも投げずに空中に放り投げるイメージでエッセイの執筆をしています。現状→原因→改善の手順を踏んで世の中にポンっと出すだけで満足です。オープンソースとでも呼ぶのでしょうか。それでもネット上ですから、やっぱり誰かしら拾って反応してくれる人たちがいてくれる。それもとても嬉しいことです。

          ( 文・西澤 伊織 / 写真・fuguさん )


ビフォアシリーズのプロットデザイン

ビフォアサンセット    A→A

ビフォアサンセット    B→B

ビフォアミッドナイト   B→B

その他

坊ちゃん (小説) C→B

不都合な真実 (映画) C→B

グレートギャッツビー (小説) A→A

タイタニック (映画) A→A

君たちはどう生きるか (小説) A→B

アラバマ物語 (映画) A→B


文中で触れたビフォア三部作の1作目と2作目。(出演は共にイーサン・ホークとジュディー・デルピー)


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