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随筆(2020/7/30):才能→風格→自信→魅力→ロマンティック特大感情(3)自信から魅力に持っていく

4.才能と風格と自信を仲間以外でも通そうとすると、「魅力」が生じることがある

自分の才能により、風格と自信を得たら、仲間内でも、自分自身の中においても、そういった揺るぎなくなった自信は、かなり通用します。

うまくいけば、仲間以外でも通用します。つまり、外の社会を泳げるようになる、ということですね。
今日は、その辺りの話をします。

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外の社会を泳ぐことが出来たら、ものすごくうま味があります。
一見ふつうにその辺に転がっていてナンボでも手に入れられそうな顔をしているが、外に出ない限り実は絶対に得られない類いのうま味もたくさんある。
なので、そういうのが欲しければ、外に出るしかない、ということです。

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もちろん、仲間内での評価は、外ではほとんどが通用しない。
特に、その評価が、少なくとも実態は伴っている才能や風格ではなく、ただの仲間内でのノリの産物だった場合、外で通用する可能性はまずない。
それだけしか出来ていない人、外では無力だし、だから食い詰めて餓死したり、面白半分に殺害されたりするリスクがかなり出てくる。

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自信の有り難みの一つは、評価する主体が、仲間のみならず、自分にもある、というところだ。
「いや、これ、評価に値する、大したもんやんけ」
と言い放てるか、そうでないかは、かなり重要なポイントです。
自分で自分の才能の在処が分かっており、仲間以外にも説明をやれる。
そうすれば、仲間以外の人も、
「そうなのかな。なんか本当にそうらしいぞ」
と真剣に受け止めてくれる可能性が高まる。

もちろん、「やはり、この人が自信を持って言う才能や風格は、よそではともかく、うちでは通用しない」という判定もありうる。
それは、しょうがない。「ありうる」話だ。
というかそんなことばっかりだ。会社の採用でも色恋沙汰でも同じですよ。
30回から50回くらいの出会いで1回OKがもらえればよし。29回から49回は、ダメ扱いされて当たり前、「ありうる」話なんだから。

で、もし、「おお、確かに、大したもんやんけ」と判定されたら、それはとてつもなく大きな進展だ。
「仲間以外にも通用する」「外で泳げた」という大きな実例ということになる。
とてつもなく大きな成功体験であるし、とてつもなく大きな学習があるであろう。

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で、まあ、29回から49回はダメ扱いされるの、分かってなければものすごく凹む話じゃないですか。
というか、分かっていても凹む。
もし、自分に自信があるなら、舌打ちすら出てくるでしょう。
メンタルはメリメリと削れていく。もたない人もかなりいる。

これを単に「惰弱」と切り捨てる人、何も信頼しない。
現実に叩き潰されて死にかけた体験のない、あってもキレイサッパリ忘れる程度の学習しかしていない、そういう人なのではないか?
そんな解像度で、現実に叩き潰されて死にかけている人に、偉そうにアドバイスしないで戴きたいものだ。
「無力な人が社会を弱くするから死んで欲しい」とか言ってる人、何で自分の「人助けの能力の欠如」は省みることが出来ないんだ?
まさか、「人助けは惰弱を正当化する悪徳」だとか言うなよな。生まれた瞬間に人助けされてきたからこそ、今こうして生きてるんじゃねえか。
自分は絶対にそれをやりたくない? そんなことは雑魚のやることだ? 出来なくて何の問題もない? あーしゃらくせえしゃらくせえ。その上、けちくさい、ときた。実にみっともない。最悪では?

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そんな訳で、ダメ扱いを減らさなければならない(そんな話だったか?)
精神衛生上悪く働くのはかなり避けがたい。早めにOKをもらいたい。

では、どうすれば、これを4回から9回程度に減らせるのか。

ここで、魅力の話になっていきます。

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また歯の奥にものの挟まったようなゴニョゴニョした話になりますが、この場合の魅力も、以前書いたある種の才能と同じく、
「対人的に評価される、自分の制御下にある、外形的なもの」
に限ります。

大きな違いは、
「仲間からの評価や、仲間に通用するような常識は、基本的には何の効き目もない」
ということです。

だから、より難易度は高くなってきます。

しかし、ここをクリアしないと、
「才能を仲間に評価されているが、対外的にはそんな才能は認知されていないため、対外的にはナメられている人」
というのがありうる訳です。
これは、もちろん、対外的には、ものすごーく困る。

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また、才能を自ら培うのと、魅力を自ら磨くのには、もう一つ主観的体感的な違いがあります。

たいてい、才能を培うより、魅力を磨くときの方が、失敗したときの痛みが鋭い。

ポイントは、自信が要るか、要らないか、ということろにあります。

自分にとっての自分の値打ちは、自尊感情なり自信なりがつく前より、一般に高くなっているものです。
そりゃそうだ。自分で自分を承認出来るんなら、その値打ちは前より高くなる。安くなるはずがない。

つまり?
以前よりも、自分に対する侮辱や無礼や軽視に対して、感じる苦痛の度合いが鋭くなる、ということです。

才能の時は、無能だからバカにされようが、自分の守るべきものは少ないから、逆説的にそこまで痛みは激しくない。(痛くないとは言ってない)
魅力の時は、醜い、ダサいからバカにされた時に、自分の守るべきところがたくさん被弾する。当然、たくさん痛くなる。結果として、痛がりになる。
これは、本人にとっては、もちろんメチャクチャ困る。

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が、とにかく、対外的に効き目のある魅力さえ身につければ、うまくいけば全部チャラだ。
そうでなくても、痛みや苦しみとしては小さすぎて、意識の上では、ないも同じになる。

やっていきましょう。

でも、どうやって?

ここで、ある種の人たちが、蛇蠍のように忌み嫌う「偽物」、中身とは「別物」の、外形の話になっていきます。
平たく言えば、しぐさや装飾の話です。

ほら嫌になってきたでしょう(俺が)。
でも、この話からは逃げられない(俺が)。
だから、真面目にやるしかない(俺が)。
くそー…嫌じゃー…(俺が嫌だと言っている)。

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装飾の文法は、分からない人には何一つ分からない、自分がオタクだと思っていないタイプのオタクの密林です。ちなみに私もサッパリ分かりません。
『機動戦士ガンダム』シリーズや『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズくらいには、魅力的と面倒臭さの間にまたがった領域です。(エルメスとか出てくるしな)
どうしても、モノに関する目利きのこだわりは、しぐさに関する目利きのこだわりより、しばしば、そしてものすごく、ディープなものになります。
他のジャンルの人が、ついていけないくらいに。

だから、そこは後日の宿題として、スパッと諦めましょう。
出来る人はやってみて下さい。と言いたいところですが、そういう方はこの記事読む前から分かってることでしょうし…

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手早く狙うべきは、しぐさの方です。買えなくても、身一つである程度はやれるからな。

では、自分はどんなところに才能や風格や自信があるか、思い付く限り、書き出したり人に訊いてみたりしましょう。
(もちろん、自信に関しては、自分自身の心に訊いてみなければなりません)

では、自分がだいたいどんなのが得意なやつか、というのが見えてくると思います。
次に、そういうやつが、どんなことをすれば、グッとくるか。ということを、考えてみましょう。
そういう人を見ていたり、喋ったり、一緒に遊んだり、仕事したりするシチュエーションを、思い浮かべてみましょう。
そんな時に、こんなことをする、こういう人は、自分は気に入ってしまうだろう。
(惚れるとまでは行かなくても良い。そんな大物狙いは、たいてい労力コスト的に厳しいのだし、後で余裕が出来てからガッツリ狙っていきましょう)
もちろん、「仲間でなくても」気に入るか、という前提は、忘れてはいけません。

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で、そういうことを、自分もやってみましょう。ということです。

これも、「イケそうか」ということを、仲間内や自分自身やお外に訊いてみることが、非常に重要になってきます。
お外でうま味のあるカロリーの高い果実を得たいのなら、現実は認識出来てなきゃならんし、探求も積極的にやっていくことになる。
その過程で、厳しい現実や厳しい意見は、当然ありうる。歯を食い縛って、にこやかにメモっていきましょう。
どうしても納得行かないなら、メモは書いても、ハテナとか付けときゃいいんです。

なあに、とにかく、うまく行きゃ、割増で嬉しさがやってくる。それで報われるし、傷ついた痛みも癒される。どうにでもなる。その日を楽しみにしていればいいのです。
勝率を上げるために頑張っているのだ。「少しは」成功体験があり、それはそのうち「少なからず」になり、それなりのうま味があるだろう。
(なってないなら、つまりは勝率は上がっていない。その努力は効率的に効いてはいない。ということになる。
もっと別の努力が、追加で要る、と考えるべきでしょう)

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で、ここからが肝心な話です。

自分がそうではないような人に、あたかも自分がなっているように振る舞う。というムーブがあります。
これは、少なくとも、魅力という局面においては、かなり不確実にしか効いてきません。
効かないとは言いませんが、それは要するにハッタリです。
それは、自分の本来やることじゃないんだから、自然な自信が、伴ってくれる訳がない。
そんな腰の入ってない姿勢では、いつかメッキが剥がれて、メチャクチャバカにされるし、途中で得られたものはノシつけて引っ剥がされるでしょう。
博打に負けたのと同じくらいには、損をすることになります。

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それどころか、こういうハッタリ、自分の本来やることじゃないんだから、やればやるほど嘘くさくなってきて、うんざりしてくるでしょうね。
これで好かれても、そんなもんは自分が好かれているわけじゃあない。
自分と紐付いていない、自分とは関係のない、どこにも主体がいない、無主の、ただのしぐさが好かれている。

「は?
そんなあなた「が」好き、だってか? 悪い冗談かな?
人の本質の見えてないことを、何アホ面下げてベラベラと抜かしておられる?
嬉しくない褒め言葉を言って、恩着せがましく思っている、このアホ面ども、たった今からミンチにして○してつみれにして鍋で煮込んでお外で冷まして、汚いカネモチが大事に飼っている可愛いチワワに食わせていいということにしたのですが、何か問題でも?」

そんな気持ちでいると、成功体験も学習もへったくれも何もかもが、まあ「無理」な気分になってくることでしょう。
で、こんな気持ちになるな、とは到底要求出来ないんだ。メッチャクチャにムカつきますよ。こんなの。アホしかいないのか、という気分にも、そりゃあなるでしょうよ。

適合しないしぐさを身につけて、そこにリソースを注ぐとする。
その後、自分の放つ魅力や、自分に向けられたロマンティック特大感情は、全部リアリティの欠片もなくなる。
そんなものは、自分とは心の底から一ミリも関係ない、ただの茶番にしか見えなくなる。

そういう茶番を出来る人は、大したもんだよ。それが、それこそが、処世というやつであろう。
でも、それを、お外で、魅力を得るためにやるのなら、とんだお門違いだ。
その魅力は、魅力かもしれないが、何一つあなたのもんじゃない。
何せ、他ならぬあなた自身が、「自分が」好かれているとは、到底思えなくなっていることであろう。

で、それが本当に心の底から嫌であるなら、じゃあ、外形を装うな。という話にしかならないし、それでは振り出しに戻っちゃうんだよな。
だったら、そんなドツボにハマっていくようなハッタリ、最初からやらねーほーがいー。

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修行として「いつかこうなった時のために、振る舞いを練習しておく」というのなら、まあいいでしょう。

また、ハッタリをやんなきゃならん局面は、人生に何度かありうる。
しかもこれは、成功したら、その成功体験から学習出来る。
そうすれば、実際に本物の内実が伴ってくれるかもしれない。そうなればしめたものだ。
そういう博打なら、やるだけの価値がある。

でも、そうでなく、自分の才能や風格や自信を反映していない魅力を、上っ面のハッタリや、小手先の手品としてやるなら、それはやめた方がいいでしょう。という話です。

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つまり、どういうことだって?

上にも書いた通りです。自分の才能や風格や自信を反映した、「こういうことをするとグッとくる」ムーブをすれば、それはやりやすいし、自分の皮膚感覚ともつながってくるでしょう。
自分の深入りしている分野で、自分のやったことが好かれている。というのなら、それは混乱も憤りも少ない。自然に受け入れられる。ここが大事なのです。

あくまでも、自分が自分で「自分はここが素晴らしい」と言い張れるし、目の前のいろんな人がたいてい同意する、そういうポイントに適合するしぐさをやるべきだ。ということです。

ここを裏切ったら、自分も、いろんな人も、裏切ってしまう。いろんな人を裏切るのは心苦しいが、自分を裏切るのは、自分で自分をミンチにしたくなるくらい不愉快だ。それは、避けた方がいいですよ。

自分でしっくりくる、才能を伴い、風格に合った、自信を持ってお出し出来る、魅力を感じられるムーブを、コンボでラッシュで連発だ。そういうのが大事。
(相手が窒息しない程度にしましょう。受け取れるようにしましょう)

(続く。たぶん次回で終わる。はず)

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