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私たちは既にゾンビである。

※本記事はジム・ジャームッシュ監督の映画「デッド・ドント・ダイ」の考察記事です。
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 ジム・ジャームッシュ監督の新作「デッド・ドント・ダイ」はゾンビの設定に現代の消費社会の行く末(人間の動物化)を投射した、(監督作品を全部見ていないのでこれは想像だが)監督作品としては珍しい、やや直接的に批判的な性質を持ったコメディ映画作品である。

 映画の内容は簡単に説明すると以下のようになる。極地での化学実験により地球の地軸にズレが生じた結果、舞台となるアメリカの田舎町、センターヴィルとその近郊では昼が異様に長く続くようになり、さらには動物に噛みちぎられたような死体が見つかり、次々に謎の不審死が発生する。センターヴィルに住む三人の警察官(ビル・マーレイ、アダム・ドライヴァー、クロエ・セヴィニー)は事情をつかめないまま事件の調査を開始するが、夜になると墓場から大量のゾンビが出現し、ビル・マーレイ扮する署長のクリフは、死体安置所に安置されている、生前好んでいたシャルドネ(ワインの一種)を渇望するゾンビを射殺する。彼らゾンビは一様に生前好んでいた(または特に必要としていた)嗜好品やそれに類するサービスが置いてある店に集い始め、また生きている人間に、その性質に従って襲いかかる。都会からやってきた若者(セレーナ・ゴメスら)も泊まったホテルであえなく殺されてしまう。

 三人は日本刀を愛用する葬儀屋ゼルダ(ティルダ・スウィントン)と手分けをしてゾンビだらけの町内のパトロールを開始する。約束の集合地点にたどり着いたパトカーはついぞゾンビの大群に囲まれ、クロエ・セヴィニー扮するミネルヴァ巡査はゾンビ化した祖母を窓越しに発見し、悲観による逃亡欲求から外へ飛び出しゾンビの群れに食われる。残った二人も諦めたように外に出て、武器を持って最後の戦いを始める。

 その時、ゾンビを斬り殺しながらゼルダが再び現れると、不意にUFOがやってきて彼女を宇宙に、この危機のおよびつかない宇宙へと連れ去った。唖然とする二人は我に返り、手持ちの武器でゾンビたちを屠り始める。その様子を森の中から見守る者がいた。トム・ウェイツ扮する世捨て人のボブは森の中で暮らし、キノコを観察する。その浮浪者たる風貌から町の人々に厄介者として扱われてきた人間だ。彼は欲求のままにのろのろと餌へ集まるゾンビを「消費社会の産物」「動物」などと揶揄し、映画は「悪い結末」で幕を閉じる。

3つの疑問

 さて本作にはいくつか不明な点があり、3つの点において、以下に書き記しておく。以降、本記事ではこの問題について考察する。

①ゾンビ=動物とは何を意味するか?
②登場人物のメタ発言の真意はなんなのか?
③ティルダ・スウィントンのUFOは何を示唆しているのか?

①ゾンビ=動物とは何を意味するか?

 ジム・ジャームッシュ監督はジョージ・A・ロメロを「ポストモダン・ゾンビ映画の達人」と称した。ゾンビのポストモダン化とは、(バイオハザードによって復権した)飢えを満たすため血肉を求めて彷徨う、旧来のアンデットから、生きていた頃の記憶を頼りに物質的な欲求を満たすため、無意識のうちにショッピングモールに赴いたり、自分が嗜好した品を求める"人間的"欲求の名残を残したゾンビへの変化を指す。

 哲学者の東浩紀の著書「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会('01)」では、戦前まで機能していた主義思想的な社会全体のイデオロギー(大きな物語)が消失したことにより、ポストモダンの世界('60年代以降)において、人々はサブカルチャーによって大きな物語を仮想し、虚構とわかっていながら虚構を作り上げる日本式のスノビズムの成立か、対してアメリカでは、アメリカ式の生活様式の追求が行われると書かれている。

 それがどのように本作の「ゾンビ=動物」という発想に繋がっていくのか。著者は「人間」について、ヘーゲル哲学を用いて言及しているので、以下に引用する。

ヘーゲル哲学は十九世紀の初めに作られた。そこでは「人間」とは、まず自己意識を持つ存在であり、同じく自己意識を持つ「他者」との闘争によって、絶対知や自由や市民社会に向かっていく存在だと規定されている。ヘーゲルはこの闘争の過程を「歴史」と呼んだ。

 ヘーゲルは、ここで語られる「歴史」を十九世紀初めのヨーロッパにおいて、近代社会の到来とともに終わったものだとしている。また、東はヘーゲル哲学にフランスの哲学者コジェーヴが付け加えた解釈が重要であると説いている。コジェーヴによれば、ヘーゲル的な「歴史」が終了した後、人々には2種類の生活様式しか選択できないとしている。それは前述したように、日本的なスノビズムの成立。もうひとつはアメリカ的生活様式の追求であり、言わば「動物への回帰」である(スノビズムについては論旨から外れるので本記事では割愛する)。

 終戦後のベビーブームによって60年代にかけて若者の数は急速に増大し、消費社会が加速した。コジェーヴはこれらの戦後台頭してきた消費者の姿を「動物」と呼んでいる。コジェーヴの解釈によるヘーゲル哲学によれば、ホモ・サピエンスはただ存在しているだけで人間的なわけではなく、与えられた環境を否定し、他者との闘争を持ってイデオロギーや市民社会に立ち向かう存在だとしている。一方、動物は与えられた環境と調和して生きている。メディアや商品が与えるままに購買意欲を突き動かされて生きるアメリカ的な消費生活様式はまさに「動物的」であるとも言える。

 東はこのような様態の変化を「動物化」と呼んでいる。著書の中で彼は、動物と人間の違いは、欲望と欲求の差異を鍵としている。欲求は特定の対象を持ち、それとの関係で満たされる簡単な欲求のことだ。例えば動物は腹が減ったら食べて、欲求は満たされる。対して、欲望とは愛への希求や性欲のように、自分の他に他者を必要とし、他者に欲望されることを欲望することで、欲望することは人間にしかできない。すなわち、欲望を忘れ、簡単に自らの欲求を満たす選択を続ける人間は、動物化する人間だと考えられる。

 日進月歩の技術進化によって、物質はより簡素に流通し、マニュアル化され、欲しい物がダイレクトに提供される面が増えたアメリカ型消費社会においては、人類は動物化する。家を出なくても、電話一つでウーバーイーツが、デリヘルが欲求を満たすために家にやってくる。これは欲求をただ満たすだけの作業=自然と調和し、与えられた環境を否定しない生き方=動物的なのである(ここで言う自然は日本語的な意味でのネイチャーではなく、ナチュラルである)。

 ジャームッシュは、この動物化の、この消費主義社会がたどり着く最果てを、(ヘーゲルの言うところの)自己意識を持たず、欲求を満たすエサを求めて愚かに彷徨うゾンビに投射している。そのためにわざわざ「動物」「消費社会」という直接的なワードをトム・ウェイツに喋らせている。ジャームッシュは今まで明確な問題意識を表層化しない、つまり非常に感覚的に脚本を書く作家としてのイメージがあったので、この表現法の変化には驚かざるを得ないし、ジャームッシュに環境問題や消費社会主義の問題について語らせる現在の消費社会は相当やばい状況なのだと観ているこちらも自覚する。

②、③の疑問について

 ②、③については明確な回答を用意できていないが、言及する。アダム・ドライヴァー扮するロニーは劇中何度も、「悪い結末になりそうだ」と呟く。また、署長クリフの過去を聞くシーンでは、語ろうとするクリフに対し「いや、知っているような気がする」と答え、「それ、アドリブ?」と返されている。しまいには墓地で車に閉じ込められながら、二人がジム(ジャームッシュ)から台本に書いてあるセリフについて軽い諍いを起こす。少なくともこの二人は確実に自分が映画の登場人物であると自覚しているのである。

 非常にメタ的なジョークであると同時に、彼らが問題に対して非常に自覚的な存在であることを示唆しているのではないか。悪い結末になりそうだ、と呟くロニーと、それを演じる俳優のアダム・ドライヴァー、おそらくその両方が問題を自覚していて、問題について二重に認識をしているはずである。しかし、彼らは問題に対して具体的な準備をしておらず、最終的に動物化の波に飲み込まれてしまう。その対照的な存在として描かれているのがゼルダである。

 彼女はゾンビの存在に動じることとなく日本刀を抜き、ゾンビを軽々と切り捨てていく、劇中盤では超未来的なテクノロジーで警察署のPCをハッキングし、そして呼び出したUFOに乗って、動物の海を颯爽と後にするのだ。

 ここには自覚的でありながら動物化してしまう人間の絶望と、誰も考えついていない、ともすればギャグにさえ見える方法で動物化を避けることができるかもしれない、と願うジャームッシュのある意味希望のようなものが見え隠れしているのではないだろうか。

 さて、いかがだっただろうか。筆者自身この映画を一回しか観ていないので、考察するには材料の非常に少ないところがある。コーヒーに固執するイギー・ポップやギターを引きづるシンプソンズ、トランプの代弁者に扮するスティーブ・ブシェミなどは観ていて楽しいし、ダニー・グローヴァーの滲み出る優しさにほっこりする。だからジャームッシュのあの特有の、「目的はないけど、時間が過ぎていくのも良い」レイドバックした心地よさも随所に感じられる作品ではあった。今回は、ストーリーのラインが動物化するゾンビに直接的な言葉をもって集約させていた点に驚き、考えることができたことが非常に良いことであった。

 おそらく、すでに私たちはゾンビなんだろう。ゾンビであることに自覚的になるべきなんだろう。

※僕の友人で札幌最強のブックオフラヴァーの「ぶっくおふたろう」さんの感想記事もとても映画愛に溢れています。こちらもぜひ!



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