次はラーメンの歴史を綴る。
株式会社新横浜ラーメン博物館 代表取締役社長 岩岡洋志氏
青山学院大学卒。商社を経て、父が経営する会社に転職。父を超えるべく、仕事に励み、事業を拡大する。その一方で、新横浜をメジャーにすべく、一つの企画を立案する。それが「新横浜ラーメン博物館」の始まり。3年の構想を経て、1994年3月、「新横浜ラーメン博物館」がオープンする。
昭和の家族の風景。
昭和44年、田んぼの真ん中に、鉄筋コンクリート、4階建のマンションがとつぜん現れる。
「周辺の方々はビックリされたと思います。なにしろ当時は、なにもない田んぼだけの町でしたから」。そういって笑うのは、今回、ご登場いただいいた新横浜ラーメン博物館の岩岡館長。
館長がなにもない町というのは、片田舎の話ではない。昭和45年の新横浜の隣の菊名の駅の話。「新横浜の駅ができたのは、昭和39年。私が10歳の時です」。
駅はできたが、町はかわらなかったそう。
もっとも何もないその町に最新のマンションを建てたのは、館長の父親、岩岡稔氏である。
「父は農家の次男で、終戦後、ちいさな農地を譲り受けて細々と農家をしていたそうです。でも、それじゃ儲からないと養豚をはじめ、これがあたって土地を増やします」。
マンションは、農家から不動産事業に舵を切るきっかけになったそう。
「とにかく堅物で、遊ぶこともない。母もそうですが、2人して、はたらき者でした。だから、家族団らんの記憶も少ないです」。
食卓はみんなで囲むが、寡黙な父親はしゃべらない。重い空気がただよう。「父親が手をあげると、拳固がとんでくるのではないかとビクッとしたと」と笑う。
「姉なんか、しょっちゅうビンタされていましたよ」。
館長が「しょっちゅうビンタされていた」というのは、今の女優の五大路子さん。親の反対を押し切って、芸能界に進まれたそうだ。
「私は兄の影響もあって、高校からラグビーをはじめます。もっとも、姉や兄は頭がよかったんですが、私は…」。
兄とおなじ進学校を受験したが、不合格。今、お兄様は、税理士の仕事をされている。
ラグビーと、青山学院大学と、就職と。
「高校で、ラグビーをはじめたと言いましたが、愛好会です。部員は9名。愛好会だから、校内で練習するなって言われるし、公式の試合にはでられません」。
社会人にまじって試合をさせてもらったそうだ。
「試合もろくにできないから、ストレスはたまりますね。それでも9人のうち3人は卒業してからもつづけ、私たちの3つ下で正式なクラブ活動に認められています」。
<館長は、大学でもつづけられたんですよね?>
「ええ、私もつづけた3人のうちの1人です。私は青山学院大学に進学します。ラグビー部に入りますが、周りは高校時代に全国大会に出場した選手ばかりです」。
<圧倒されましたか?>
「そうですね。技術的にはともかく、基礎体力がぜんぜんちがう(笑)。みんな走る、走る。私は、体力がないからへばっちゃう。3年からレギュラーになるんですが、相当、練習しました」。
「いや、させられたかな」と笑う。
たぶん、これだろうなと思いながら、<大学を卒業するまでのターニングポイントは?>と聞いてみた。
館長は迷わず、「ラグビーでレギュラーになれたこと。『させられたか、どうか』は別にして、あれだけ練習に打ち込み、結果を残すことができたことは、自信につながりました」と、予想どおりの回答だった。
もっとも父親の稔氏は、練習に明け暮れる息子に「大学は勉強するところじゃないのか?」とたずねている。
勉強はともかく、青山学院大学のラグビー部のレギュラー。就職には、断然有利。
面接1回の特別待遇で、就職したのは、中堅の紙商社。
「父と母がはたらき者でしたから、私もちゃんと仕事をします。父にはむかっていたのかもしれません。父は、その頃にはもう、かなり有名になって、稔というんですが、私は、どこにいっても、稔の息子でしかなかったんです」。
会社では、上司に目をかけてもらった。期待の表れだが、時間に関係なく仕事をさせられた。「上司が出張の時は伝票をその上司のところまでもっていくんです。デスクじゃなく、その上司の自宅まで(笑)」。
館長にも、そういう時代があったんだと知って、なぜか、「そうなんだ」と納得する。上司が部下を鍛え、仕事を教える。その、循環がまだ機能していた頃の話。
そして、昭和60年、バブルが始まる頃、館長は、父親の会社に転職する。
町おこしと、ラーメン博物館。
時代はバブル。色々な物語りが生まれた。バブルのしかけは、不動産だった。
「父は、不動産業をしていました。私も、もちろん不動産を勉強しました。一度、ね。父が60億円で土地を買うと言いだしたことがあってね。銀行は、お金を貸したくてしかたないから、父を煽ります。家族みんなで大反対しました」。
ただ、すぐに120億円になったそうだ。
「もちろん、買ってないです。父もけっきょく、折れましたから(笑)」。
<それは、もったいない?>
「どうでしょう。とにかくそういう時代でした。そして、バブルがはじけます」。
ところで、当時の新横浜は、どんな状況だったんだろうか?
ネットで検索すると、ユーチューブに1990年代の新横浜駅の様子があった。「新横浜新聞」によれば、1990年代なかばから人口が急増したそうだ。
その新横浜に、世界初のラーメンのフードアミューズメントパークが生まれたのは、1994年3月。仕掛人は言うまでもなく、館長である。
「もともとは町おこしの一つです。もちろん、みんな大反対です。ラーメン博物館ってなんだ? そりゃそうですよね。フードテーマパークって発想もない時代ですから」。
「べつにラーメンが好きだったわけじゃないんです。最初はね。昭和の世界をつくろうと、有名なグラフィックデザイナーに絵を描いてもらって。でも、それだけじゃね」。
キーワードは、飲食、話題性、リピートだったそう。
「そのとき目を向けたのが、ラーメンだったんです。ラーメンは、いろいろあるでしょ。全国をまわると当時から行列ができているラーメン店が少なくなかった。だから、これだって思ったんです」。
ただ、反対を押し切ろうにも、そもそも出店してくれるラーメン店は、あったんだろうか?
「そうなんですよね。直談判です」。
「3年かけて、口説いたところもある」と館長は笑う。
熱意が伝わったんだろう。
オープン時には昭和の町を演出した博物館のなかに、名店が軒を連ねた。「札幌すみれ」「博多一風堂」「熊本こむらさき」「喜多方大安食堂」などなど。
「一風堂」は、ラーメン博物館への出店がきっかけで、世界をかけることになったというと言いすぎだろうか。
ちなみに、新横浜ラーメン博物館がオープンすると、メディアがこぞって取り上げた。来場者は年間150万人にのぼったという。現在も、年間80万人というからすごいパフォーマンスだ。
ラーメンの歴史本。
さいごに、館長に博物館の、その物語りのつづきをうかがった。
「コロナ前はね。ヨーロッパにだそうとプランを練っていたんです。コロナは落ち着いたけど、そのぶん、私も歳をとっちゃった。70歳で引退するつもりだから、もうこれは無理かなって思っています」。
「それにね」と館長。
「それに、じつは、歴史の本をつくりたいんです」。
<ラーメンの歴史ですか?>
「そうです。ラーメンを真ん中において、その時々の時代をつむぐ歴史本です。この本をね、世界の国会図書館においていただく。じつは、戦前はもうできているんです」。
日本になぜラーメンが定着したのか。そのきっかけは。もうリサーチ済み。「歴史学者と共同でつくりたいなと思っています」。
ラーメンは庶民の食べ物だけに、歴史本のなかには、ラーメンを食べ、楽しむ、多くの日本人が登場するんだろう。そして、何ページに「新横浜ラーメン博物館」は記載されるんだろうか。
主な業態
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