愛無躁狸

関西出身の日本人。中国が好きで20年間、ビジネスで中国各地を渡り歩きそれなりに勝手気ま…

愛無躁狸

関西出身の日本人。中国が好きで20年間、ビジネスで中国各地を渡り歩きそれなりに勝手気ままに生きてきました。 中国でのさまざまな体験をベースに「中国」について語ります。

最近の記事

折に触れて(斎藤道三の父)

ヤドカリを見ていると斎藤道三父子の姿を見ているような気がする。自分の形や大きさの変化に応じて、その都度現状に見合った貝殻を捜してはそれに乗換える。美濃に入る前でさえ幼名峰丸、妙覚寺では法蓮房、油商人では松波庄九郎と名前を変え、その時々の必要に応じて姿形を変えている。織田弾正忠家にはあっさり引越しをするという習性があったが、斎藤道三父子にも名前や形態には無頓着という習性がある。こういったプラグマテイックな考え方がなければ戦国大名として生き残れないのだろう。因習と迷信に縛られた中

    • 折に触れて(松波庄九郎)

      斎藤道三の父、松波庄九郎は山城国乙訓郡西岡に生まれたとされる。今の地名で言えば長岡京市の西部、京都府・大阪府の府境にあたる。足利尊氏がこの土地を直轄地として幕府の経済的・軍事的な拠点としたために西岡衆と呼ばれる土地の豪族たちは将軍家旗本の役目も担っていたとされる。現在のJR山崎駅から数分のところに離宮八幡宮という古社がある。平安時代初期に荏胡麻採油の技術がこの地で確立し、以後この技術が諸国に伝播したことから全国の油を扱う業者から特別に扱われる神社になる。15世紀末の時点では油

      • 折に触れて(斎藤道三の時代へ)

        近江から美濃へ帰国の準備をしていたところを完全に奇襲されたことは斎藤妙純最大の不覚であり、最後の失態となる。妙純はじめ1000あまりの軍兵が戦死し、嫡男の利親も父とともに討死している。多くの兵が甲冑や具足さえ身にしていなかったというから油断と言えばこれ以上の油断はない。応仁の乱直後の鈎の陣で足利義尚が懊悩したように六角氏には甲賀の地侍の陰がちらつく。忍者の戦法にしてやられたのだろうか?度重なる美濃からの侵攻に近江の土豪たちには累積した鬱憤があったのだろうか?それとも六角氏や斎

        • 折に触れて(船田合戦)

          この「土岐政房+斎藤妙純グループ」と「土岐成頼・元頼+斎藤利藤+石丸利光グループ」が緊張の度を深めるに従い、両派は国外にも援兵を乞うようになっていた。15世紀末の長享の乱が終わったこの時期は、尾張でも伊勢守家と大和守家の両織田家が主導権をめぐって角を突き合わせていた時期である。伊勢守家織田寬広は妙純グループと大和守家織田寬村は成頼・利藤グループと連携を深め、互いが援兵を出し合う一種の同盟関係を形成していた。既に美濃一国の内紛では収まらない状況になっていたのである。 1495年

        折に触れて(斎藤道三の父)

          折に触れて(斎藤妙純グループの内紛)

          さて、斎藤利藤と妙純が争ったときには妙純の肩を持って利藤を京にまで追いやった土岐成頼である。守護として居座るには強い方に担がれるべきだという原則に沿って身を処していた。ただ、そういった外部環境の判断ではなく、自分自身の身内の話となれば話は別である。土岐成頼の後継者の選定について斎藤妙純と成頼は意見を異にする。「万事俺が差配する中でお飾りになっていれば問題はない」と土岐成頼を見ている斎藤妙純。対して「守護代でもない妙純風情が土岐家の相続にまで口を出すのは僭越の至り」と憤る土岐成

          折に触れて(斎藤妙純グループの内紛)

          折に触れて(斎藤妙純)

          1480年2月に斎藤妙椿は息を引き取る。守護の土岐成頼を上回る官位に就いた彼は実のところは甥の守護代斎藤利藤を補佐する叔父の立場で生涯を終えた。終生、美濃守護でもなければ守護代でもなかったのである。その彼が専横とも見られるまでに美濃を牛耳ったのであるから死後は当然のごとくそれまで水面下にあった感情が噴き出すことになる。今まで叔父妙椿の顔を窺って恐る恐る守護代の体裁だけ繕っていた斎藤利藤、それに守護の土岐成頼が「当たり前の権力」を求め始める。また、逆の立場からの当然の感情もある

          折に触れて(斎藤妙純)

          折に触れて(土岐氏から斎藤氏へ)

          美濃は代々土岐氏が分国として治めていた国である。何年か前の明智光秀を扱った大河ドラマでは土岐源氏という言葉がよく台詞に出ていた。源氏と聞いてすぐに思い浮かぶ源氏は河内源氏である。多田満仲の3男頼信の血筋である。源頼朝も足利尊氏もこの流れに位置する。対して土岐氏は満仲の長子頼光の血筋である。満仲の摂津多田荘に本貫を持つことから摂津源氏ともいう。このように土岐氏は大江山の酒呑童子退治で有名な源頼光から流れて鎌倉時代前には美濃に所領を持ち、ここで勢力を張った。南北朝時代には正中の変

          折に触れて(土岐氏から斎藤氏へ)

          折に触れて(織田信秀)

          織田信秀は生涯、公式的には大和守家の三奉行の一人であるに過ぎない。しかし、世間から見れば立派な大名としての振る舞いをしている。当然、主筋の斯波氏や大和守家から忌々しい存在と見られ、そういうことから戦になったりもする。上洛し朝廷に献金、従五位下を賜ったり、将軍足利義輝にも拝謁したりする。伊勢神宮の遷宮にあたっても寄進したりするのだから正に国守気取りである。僭越の行いと誹られたのも無理はない。露骨に下克上して朝倉が越前の太守の座を正式に認めてもらわなくても、実質が国主であれば名は

          折に触れて(織田信秀)

          折に触れて(織田信秀の匍匐前進)

          京都の夏を彩る祇園祭りは四条通りの東端、東山の山裾にある八坂神社の祭礼だが、この八坂神社は牛頭大王信仰がベースになっている。祇園祭りが疫病流行に触発された厄除け目的の祭礼であるように牛頭大王への信仰は厄払いが基本になる。牛頭大王に丁寧に応対した蘇民将来の子孫は厄から逃れることが出来るという理由で軒先に「蘇民将来子孫也」と掲げておけば大丈夫だとされている。全国にはこの八坂神社のような牛頭大王信仰の神社は2300ほどもあるという。愛知県の津島神社もその一つである。この社は戦国時代

          折に触れて(織田信秀の匍匐前進)

          折に触れて(織田弾正忠家下克上の基盤)

          いろいろな戦国大名がこれから名乗りを挙げることになる。彼らののし上がり方は一様ではない。それこそ多種多様の道筋をたどって強大化してゆく。しかし、一つだけ共通する要素を考えるならば、例外なく武田なら甲斐、後北条なら伊豆・相模といった後生の目から見れば狭い一国程度の面積を統一するのに膨大な労力と時間を費している。旧来のやり方を新しい考え方に変えて新しい常識を築き上げる、一旦落ち着いてしまったことを変革するのは膨大なエネルギーを必要とする。静止摩擦を滑り摩擦に変えるのは並大抵ではな

          折に触れて(織田弾正忠家下克上の基盤)

          折に触れて(織田弾正忠家)

          関東と駿河や甲斐の時代の移り変わりを述べて来たが、ここからは日本の戦国時代を収束させる「濃尾平野の勢力」が育ってゆく過程を整理したい。濃尾平野地域は3つに大きく分かれる。応仁の乱前後から西の美濃は土岐氏が没落し蝮の道三が台頭して来る。中の尾張は守護の斯波氏が弱体化し、守護代の織田家、守護代家からその家老格の織田家へと権力が移り、織田信長が飛躍する土台が固まる。東の三河はそのまた東の駿河・遠江の今川と尾張の織田の間に挟まれ、桶狭間後のエアーポケットに乗じた松平が自立の態勢を取る

          折に触れて(織田弾正忠家)

          折に触れて(武田信玄表舞台に)

          1521年11月、武田信玄は要害山城で産声を上げた。躑躅ヶ崎館ではなかったのは、そのとき今川勢が甲府まで迫っていたため、武田信虎が妻子を詰城に退避させていたのである。甲斐西部の国人である大井氏が駿河勢を引き入れて甲府に向けて兵を進める。この大井・今川連合軍は甲府近郊飯田河原で信虎と戦い、大敗を喫して、甲府はひとまず危機から脱することが出来た。武田信玄は戦の中で出生したということになる。 実は武田晴信(信玄)は信虎の次子にあたる。1523年に長子の竹松が7歳で亡くなったため、自

          折に触れて(武田信玄表舞台に)

          折に触れて(武田信虎)

          武田信玄の父である武田信虎は1494年に武田信縄の側室岩下氏との間に生まれたとされる。元服当時には武田信直と名乗っていた。この時代は武田に限らず目まぐるしく改名するが、信虎は改名後の名乗りである。前稿に記したように叔父油川信恵とそれを支持する祖父信昌は父信縄と武田の家督をめぐって骨肉の争いを繰り広げていた。1498年に南海トラフ地震が起こり(明応地震)太平洋側の諸国が一様に大被害となったが、甲斐の被害も大きかったため両派は御家騒動を一時停戦していた。1505年に武田信昌は死去

          折に触れて(武田信虎)

          折に触れて(統制を欠く甲斐)

          三重県が関西なのか中部なのか悩むように山梨県は甲信越という括りから中部、あるいは八王子あたりまではすぐに行けることから関東、地理的な区分がしにくい地域である。外から見てそう見えるだけではないだろう。おそらく住民にとってもそうなのだろう。甲斐は古来、関東のようで関東以外の要素を合わせ持つためになかなか意見が一致しない。室町時代は国人層が全国規模で成長する時代であるが、元々意見が一致しにくい甲斐は豪族たちが絶え間なく角突き合わす土地でもあった。それを室町幕府の制度的な矛盾が更に助

          折に触れて(統制を欠く甲斐)

          折に触れて(太原雪齋)

          仏教伝来から明治が始まるまで、寺院は現在のように宗教的建造物という意味以外に異なる意味合いも持っていた。例えば中国古代で鴻爐寺と言えば仏教の寺ではない。外交を取扱う役所、つまり外務省のことである。また寺人と言えば寺男ではない。重要人物に付き従って様々なことをしてあげる秘書役や付き人のような意味になる。日本では仏教が伝来してから寺という概念が入って来たが、寺には仏教の施設以外にも遣隋使や遣唐使がもたらす中国渡来の最新学問や技術が学べるところという意味合いもそれ以上にあった。奈良

          折に触れて(太原雪齋)

          折に触れて(今川義元登場)

          寿桂尼は権大納言中御門宣胤の娘として生まれ、今川氏親に嫁いで後は80歳以上とも言われる高齢まで一貫して今川を支えたとされる女傑である。夫氏親の最晩年10年ほどは脳卒中を発症したためにほとんど枕が上がらぬ状態にあった。寿桂尼が事実上駿河太守の仕事を行なったとされている。氏親の嫡子氏輝は病弱であり夭折する。その上、氏輝の後は花倉の乱という跡目争いが起こり、氏輝の弟で仏門に入れられていた玄広恵探と栴岳承芳(後の今川義元)が争う。そういうことから1510年代から約20年の間は寿桂尼が

          折に触れて(今川義元登場)