折に触れて(太原雪齋)

仏教伝来から明治が始まるまで、寺院は現在のように宗教的建造物という意味以外に異なる意味合いも持っていた。例えば中国古代で鴻爐寺と言えば仏教の寺ではない。外交を取扱う役所、つまり外務省のことである。また寺人と言えば寺男ではない。重要人物に付き従って様々なことをしてあげる秘書役や付き人のような意味になる。日本では仏教が伝来してから寺という概念が入って来たが、寺には仏教の施設以外にも遣隋使や遣唐使がもたらす中国渡来の最新学問や技術が学べるところという意味合いもそれ以上にあった。奈良時代や平安時代には南都の東大寺・興福寺・唐招提寺・薬師寺・元興寺・大安寺などの大寺や比叡山・高野山などが今日でいう大学の役割を果たしている。仏教の経典はもちろん、舶来の先端知識も寺に集積していたのである。
鎌倉時代以降はハイカラな学問は禅宗が導入して禅寺が教えていた。有力な武士たちが嫡男以外の子弟を寺に入れて出家させたのは相続争いを防ぐ意味だけではない。そんな手を使ってもこれまで散々実例を見て来たように嫡男が廃嫡や死亡したときなど、必要となれば簡単に還俗させて違う息子に後を継がせている。それほど真剣に仏道に励めと言っている訳ではない。それ以上に読み書きや計算、そして何よりも和漢の書籍を精読させることで帝王学を叩き込むのが目的である。和漢の書籍には孫子・呉子を含めて多くの兵書も含まれる。
例えば上杉謙信の場合、林泉寺の天室光育が生涯に影響を及ぼす師となるように室町~戦国時代にあっては多かれ少なかれ、僧侶が戦国大名に家庭教師のように知恵を授ける役目を担っている。そんな家庭教師僧侶たちの中でも異彩を放っているのが花倉の乱に見事勝利して今川家の家督を相続した栴岳承芳改め今川義元における太原雪齋である。
太原雪齋自身、武士の出身である。今川家の譜代の家臣である庵原氏の父、興津氏を母方に持つ。生来、利発であったらしく駿河の寺では飽き足らず、京の建仁寺や妙心寺でも修行を積み、京でも将来を嘱望される僧侶となる。そんな評判を聞き伝えた今川氏親から乞われて(後の)義元の教育係になり、花倉の乱の前には義元とともに富士山麓の善得寺にいた。花倉の乱で玄広恵探を攻め、自害させたのは太原雪齋だとされる。家督相続後、今川義元は太原雪齋を最高顧問にして政治・軍事両面にわたり何事でも相談するようになる。義元にとって太原雪齋はかけがえのない知恵袋として活躍することになる。とりわけ外交では彼の功績は非常に大きい。今川と縁が深い北条氏綱・氏康父子はもちろん、後には武田信玄や上杉謙信でさえ太原雪齋の言葉には耳を傾ける。


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