折に触れて(斎藤道三の時代へ)

近江から美濃へ帰国の準備をしていたところを完全に奇襲されたことは斎藤妙純最大の不覚であり、最後の失態となる。妙純はじめ1000あまりの軍兵が戦死し、嫡男の利親も父とともに討死している。多くの兵が甲冑や具足さえ身にしていなかったというから油断と言えばこれ以上の油断はない。応仁の乱直後の鈎の陣で足利義尚が懊悩したように六角氏には甲賀の地侍の陰がちらつく。忍者の戦法にしてやられたのだろうか?度重なる美濃からの侵攻に近江の土豪たちには累積した鬱憤があったのだろうか?それとも六角氏や斎藤利藤からの指嗾があったのか?おそらくその何れもがあった上で、斎藤妙純たちが帰国準備をしていた気の緩みとの相乗効果で妙純勢は土崩瓦解をしてしまったように思われる。この椿事により、妙椿~妙純と続いた斎藤美濃守護代家庶流の独裁体制が瞬時に消え去ってしまう。
守護の土岐氏もお飾りになり、守護代の斎藤氏も本流・庶流ともに崩壊してしまった後の美濃では斎藤妙椿~妙純の下で石丸利光や西尾直教より下のレベルにいた重臣の長井氏が台頭して来る。斎藤氏自体が藤原北家の藤原利仁を祖として、越前から美濃に流れて来たとされている。藤原利仁は今昔物語や芥川竜之介の小説で有名な「芋粥」の話の武人である。長井氏も斎藤氏にルーツを持つ庶流の一つであり、斎藤本家が利藤流も妙純流も消え去ったなら自分たちが本流になってもいいかと、思ったかどうか?
いよいよ斎藤道三の姿が見えてくる。筆者が中学生だった頃、司馬遼太郎原作の「国盗り物語」が大河ドラマになっていた。前半が斎藤道三を、後半は織田信長を中心にして構成している歴史小説である。おそらく、司馬遼太郎が現時点で筆を執るなら、前半の斎藤道三についてはかなり違った書き方になるだろう。近江守護六角義賢の家臣に対する文書が発見されてから従来、斎藤道三は一人として考えられていた事跡が、父子二人による事跡を繋ぎ合わせたものだとする説が定説となっている。大河ドラマでは京の西の入口にあたる大山崎で油売りをしていた頃から最後に息子の斎藤義龍に討ち取られるまで、同一人物として描かれていた斎藤道三は父松波庄九郎と息子の斎藤道三の「国盗り合わせ技」として描くのが現在の定説に従った描き方になる。
北条早雲と斎藤道三は下克上や成り上がりの代名詞にされる戦国大名である。他にも下克上して成り上がる大名は何人もいるのに何故彼ら2人が代表格に見られるのだろう?それは彼ら2人(3人?)が地縁のない土地に行って、チャンスを的確に利用してのし上がる卓抜した才能を持っていたからだろう。


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